奈良時代の人々はどんな服を着て、どんな食事をしていたのでしょうか。
考えてみると意外とイメージできないものです。
この記事では、奈良時代の文化や服装、食事などについて解説していきます。
奈良時代の文化
奈良時代の文化は、聖武天皇のときの元号”天平”にちなんで、天平文化と呼ばれます。特色は、仏教や中国(唐)の影響が強くでていることです。
東大寺などの建築物に大きく反映されているほか、日本書紀などの書物にもその様子が現れています。この時代、日本書紀のほかに古事記という歴史書も書かれています。古事記は日本国内向けに天皇の大切さを説いたもので、日本書紀は外国向けに作った歴史書だといわれています。
また、万葉集では優れた歌をまとめています。
万葉集のすごいところは身分の差に関係なく、歌がよければ載せるということです。世界各地で差別がひどかったこの時代、奈良の人々は歌の前に平等だったのです。
奈良時代の服装
奈良時代は中国の影響を大きく受けたため、服装も中国の制度を真似て刷新しています。律令に基づいて衣服令が定められ、朝服、礼服、制服が作られました。礼服は、重儀に用いられる服で、後に即位の式のときにのみ着用するようになります。
朝服は、監視の勤務服で、コレが発展して束帯や衣冠になりました。制服は、庶民が公事に従事する際の服で、朝服に似た黄色の服です。
以下「弥生ミュージアム」さんより抜粋
弥生人の服装も日常着と結婚式などハレの日の正装によって異なり、また身分の上下によっても違いがあったと想像できます。
こうした想像に具体的なイメージを与えてくれるのが、吉野ヶ里遺跡の甕棺墓から出土した絹織物です。この甕棺墓は富裕層に属する人物を葬ったものと考えら れ、布には袖を縫い合わせたと考えられる部分が残っていました。これにより、貫頭衣とは構造が異なる袖付きの衣服を弥生時代の富裕層が着用していたことが 明らかになりました。~中略~
弥生時代の後期後半の織物技術は吉野ヶ里など一部ではこれまで考えられているより高度で、そうした地域に住んだ上位身分の人々の正装は袖付で赤や紫に染められた鮮やかな絹であったと思われます。
ちなみに、奈良時代の一つ前の時代である飛鳥時代の人々はどんな服装だったのでしょうか。ここで少し触れておきたいと思います。
男性の貴族の服装
頭には冠をかぶり、笏というものを手に持っていたそうです。笏は始めのうちはいわゆる「カンペ」として用いられていたと言われています。
服装の色は、身分によって着ていい色が決められていました。聖徳太子の時代には、服装の色は冠の色に準じたとされています。
例えば、一番身分の高い「大徳」の冠の色は濃い紫とされているので、服の色も紫だったと思われます。けっこう派手ですね。でも、パッと見ただけで身分の高さが分かるのでよいかもしれません。
天武天皇の時代になると、冠の色は黒で統一され、服装は階位によって8色の色に分けられていたそうです。持統天皇の頃になると色は9色になっていました。この、色で分けられているコートのように長い上着(画像によるとオレンジの部分)は「袍(ほう)」と言われ、腰の部分を紐で結んでいました。
その下のスカートのような、プリーツが入っているものは「褶(ひらみ)」と呼ばれるものです。そして、下にはいわゆるズボンのような「袴(はかま)」をはいていました。袴の下には「褌(ふんどし)」という男性用の下着をはいていました。この褌は一般庶民の男性もはいていたとされています。
貴族の女性の服装
身分の高い女性は髪の毛をふんわりとさせて後ろで結び、ゆったりとしている色のついた上着の下に、ストライプ柄(白、黄、緑、青、赤と結構派手な色で構成されています)のスカートのような「裳(も)」とよばれるものをはいていました。
手には「翳(さしは)」とよばれる先端の長い団扇の祖先を持っていましたが、次第に扇を持つようになったと言われています。
扇もそうですが、靴(当時は沓と書き、木などでできた堅いものが多かったそうです)も身分の高い者だけが用いたとされています。
また、この頃は、貴族・庶民共に、719年に命令を出されるまで「左前」の着方が主流だったそうです。これは様々な面で真似をしていた中国の服装の影響とされていますが、今では「左前」の着方は、死装束と同じことから忌み嫌われていますが、時代が違えば慣習も違うものなのですね。
庶民の服装
飛鳥時代の庶民の服装についてはあまり知られていないそうですが、男女の区別はあまり無く、フジ・クズ・コウゾといった天然素材のもので織られた貫頭衣(頭に穴を開けたワンピース状の布に腰を紐で結んだもの)を着ていたとされています。
これは弥生時代からたいして変わっておらず、身分の高い者とは違い、白のシンプルなものを着ていたとされています。
奈良時代の食事
奈良時代にはすでに牛乳も飲まれており、牛乳を煮詰めて蘇というチーズのようなものも作って食べていました。しかし、時間も手間もかかり値段も高かったので、一部の人しか食べられませんでした。
貴族の食事
飯鮓、鮎の醤煮、鹿の膾(なます)、漬物、汁、栗や里芋の盛り合せ、強飯(蒸した飯)、塩、酢、酒
庶民の食事
玄米、雑穀ご飯、塩、汁もの、酒粕を湯で溶いた「粕湯酒」など
農耕の生活がはじまった弥生時代には、女性が「衣裳(きぬも)」、男性が「衣褌(きぬばかま)」を着るようになりました。
この時代に既に、身分の違いがあった様子です。
まとめ
- 奈良時代の文化は仏教や中国(唐)の影響が強くでていた
- 身分の違いが既に出始めており、食事、服装ともに差がある
- 貴族は絹をはおり、牛乳まで飲んでいた
- 仏教の基礎ができてきた
奈良時代は貴族と庶民の生活に大きな差があった時代であると考えられます。食事などは、現在の田舎の質素な食事に似ている部分があると思いますが、庶民の食事はひどいものであった可能性があります。その反面、藤原氏は思いのままに人生を謳歌したことでしょう。
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