「ニンニン」「だってばよ!」「ござる」「カワバンガ」
一口で忍者と言えど、いろいろござる。口癖だっていろいろござるよ。
では、実在の忍者と言えば、誰ですか?と聞いたら、あなたはどう答えるでしょうか?
おそらく、もっとも多く名前があがるのは「服部半蔵」ではないでしょうか。
この人、どうしてそんなに有名なの?
もっとほかにも有名な忍者っているんじゃないの?いや、いないと寂しいよ。
そんな方に、世に埋もれ、忘れられる前に知っておきたい「有名忍者15選」をご紹介したいと思います。
いざ、奥深き忍者の世界へ!
その前に。そもそも忍者って伊賀・甲賀以外にもいるの?
有名な忍者の里と言えば、伊賀と甲賀。
なんでそんなに有名なの?と思って調べたところ、江戸時代の幕府御用達の忍者が伊賀と甲賀だったからだそうなんです。
戦国時代、敵に追われた徳川家康を伊賀忍者の家系だった服部半蔵が甲賀忍者と協力して山中を逃がしたことから公儀隠密になったんだそうです。
長い江戸の歴史の間、活動を続けられたから名前も知られてしまったんですね。
ですが、忍者は伊賀・甲賀だけじゃない!
全国になんと49流派以上もあるというのです。
いくつか抜粋してみますと
村雨流・大和流・大気流・玉虎流・安田流・白井流・南蛮流・大江流・黒田流・備前流・楠流・紀州流・美濃流・芥川流・忍一流・大伴流・太田流・荒木流・沢流・滝野流・羽黒流・中川流……それはそれは多岐にわたる流派があるのです。
なんでこんなに流派が多いかというと、昔は国が様々ありました。
大和国とか、紀伊国とか、薩摩国とか、そういう国のくくりです。
その国の長がそれぞれに諜報活動を行うために専門の人材を育成したのが始まりだと言われています。
それにしても多い!
そのぶん、有名な忍者も数多くいるようです。
名前を知られた忍者をランキング形式でご紹介します。
これが有名な忍者だ! ベスト15!
15位 横谷左近(よこたにさこん)
真田氏に使えた忍者です。
戦国時代末期から江戸時代初期のころの人で、父親、弟も名前が知られています。
忍者ではあるのですが、城の守備にあたったり、真田昌幸が参加した戦にはすべて従軍したという記録が残ったりと、かなり表舞台で活躍した人のようです。
父親は惣右衛門、弟は横谷庄八郎です。
14位 太宰金七(だざいきんしち)
伊達政宗が作り上げた忍者集団・黒脛巾組(くろはばきぐみ)の一員です。
会津藩に潜入して会津藩の内紛を伊達政宗に進言したり、天下人となった豊臣秀吉の動向を探ったりと重要な役割を担いました。
諜報活動や橋を落とすような破壊工作、噂を流して人心を動揺させるなどの前線には出ない活動を主に行っていたようです。
13位 出浦盛清(いでうらもりきよ)
真田家の家臣です。上野国岩櫃城代などを務めた武将です。
甲州透破(こうしゅうすっぱ)と言われる忍者集団の棟梁と言われています。
松代藩では武者奉行にもなったそうです。
敵城へ配下の者を潜入させるときに、先に自分が潜入しておいて探索して、配下の者の報告の正確さを確認したという逸話もあるようです。
情報の正確性を重視しているとしても、上司が出向くなんて本末転倒ですね。
12位 唐沢玄蕃(からさわげんば)
武田氏の忍者です。上野国の出身と言われています。
父親の杢之助は山内上杉氏家臣の岩櫃城主・斎藤憲広に仕えていましたが、武田氏に寝返りました。
唐沢玄蕃は武田氏に勤めあげ、武田氏滅亡後は真田家に仕えました。
素晴らしい技量だったそうで「飛び六法」とか「忍び名人」という二つ名も持っているといいます。
11位 青山虎之助(あおやまとらのすけ)
甲賀流忍者で徳川家康に仕えました。
三河一向一揆鎮圧の際に火計を任じられていましたが、敵につかまり斬首されました。
同じ任務に就いていた深津九八郎の名前も知られています。
10位 城戸弥左衛門(きどやざえもん)
伊賀流の忍者で中忍の身分だったそうです。
火縄銃の名手で、忍者たちの間でも名前が知られていたといいます。
織田信長を銃で暗殺しようとしたことが二度あり、二度とも失敗ではありましたが、逃げおおせたといいます。
9位 伴資定(ばんすけさだ)
甲賀忍者です。
徳川家康の今川武将攻め・「鵜殿退治」で活躍しました。
城主を討ち取り、その嫡子を生け捕りにしています。
8位 鵜飼孫六(うかいまごろく)
伴資定と同じく、「鵜殿退治」に参戦した甲賀忍者です。
忍者と言いながら、「鵜殿退治」に用いた配下の人数は200人を超えています。
鵜殿長照が守る上ノ郷城の兵士と同じ甲冑を配下の忍者たちに着せて城に忍び込み、鵜殿側の兵士を切り捨てて行ったのです。
敵味方の判断がまったくつかずにパニックになった上ノ郷城は簡単に落ちたといいます。
しかも、忍者たちは終始、無言のままだったそうで、居合わせていたらトラウマになりそうなホラーな戦いを仕掛けたようですよ。
7位 霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)
真田十勇士の一人で、伊賀流忍術の名人……と思いきや。
じつは実在の人物ではありませんでした。
講談の中に登場する人物で、設定では百地三太夫に弟子入りして真田幸村に仕えたということになっています。
有名すぎる忍者なので、実在の人物と間違えないよう、注意が必要です!
6位 望月千代女(もちづきちよじょ)
信濃巫(しなのみこ)という歩き巫女の一系統であった女性たちを武田のくノ一として統率したと言われる女性です。
信濃国望月城主望月盛時の妻でしたが、武田信玄が千代女を甲斐・信濃二国の神子頭に任じたそうです。
望月氏は甲賀忍者の筆頭格で、望月出雲守屋敷跡は現在は甲賀流忍術屋敷になっているそうです。
5位 藤林長門守(ふじばやしながとのかみ)
伊賀の上忍三家のうち藤林家の当主でした。
領地が伊賀北部で甲賀の地とも近かったため、伊賀忍者だけでなく、甲賀忍者にも配下がたくさんいたそうです。
服部氏の服部半蔵、百地氏の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれますが、記録はほとんど残っていません。
長門守の子孫が今の時代まで忍者の姿を伝えつづける『万川集海』という忍術所を残しています。
4位 百地丹波(ももちたんば)
戦国時代の土豪で伊賀流忍術の祖と言われる人物です。
土豪とは、地侍のように百姓から武士になったものや、その土地の小豪族を指す言葉です。
伊賀流忍者の上忍で上忍三家のうちの一人です。
忍者の実力を恐れた織田信長に攻め入られて討ち死にしています。
その時の織田信長軍は5万の大軍だったといいますから、百地丹波がどれだけの脅威だったか。
恐ろしいですね。
3位 加藤段蔵(かとうだんぞう)
じつはこの名前も、フィクションです。
ただ、加藤という幻術を使う忍者は存在したらしく、越後流軍学の教本『北越軍談』という本の中に「鳶加藤」という名前で登場しています。
長尾景虎(のちの上杉謙信)から山岸定臣の家から長刀を盗んでくるようにと命じられました。それをやすやすとやってのけたうえ、ついでに女の子を攫ってくるという腕前を見せつけます。
長尾景虎は、その能力を脅威と思い軟禁しようとしますが、鳶加藤は不穏な空気を感じて逃げ出し、今度は武田信玄に仕えたそうです。
織田信長にしろ、長尾景虎にしろ、どうも戦国武将は出る杭を打とうとするようですね。
2位 風魔小太郎(かざまこたろう・ふうまこたろう)
北条氏康の時代に活躍した相州乱破(そうしゅうらっぱ)と呼ばれる忍者集団の指導者的立場にあった人物です。
代替わりして風魔小太郎という名前を代々継いでいったらしいということ。
その代々の風魔小太郎のうちの一人は身長2メートルを超した鬼のような形相の男だったという史料もあります。
『北条五代記』という古文書によると、200人を超す忍者を指揮して敵陣を攪乱したということです。
忍者200人。もう勝てっこない。そう思います。
1位 服部半蔵(はっとりはんぞう)
忍者と言えば、この人でしょう。
江戸城の半蔵門にも名前が残る、服部半蔵。
松平氏に仕え、その後、徳川家につかえた服部半蔵。
この名前も代々引き継がれたものですが、忍者だったのは初代・服部半蔵だけです。
二代目以降は武士として勤めています。
伊賀忍者の上忍三家のうちのひとつ「千賀地」が服部の子孫と言われています。
初代・服部半蔵は二代目に、忍者は出世できないから侍になれと助言したという話もあります。
江戸時代に向けて忍者が減っていくなか、先見の明があるのはさすがの服部半蔵と言えるのではないでしょうか。
有名な忍者たち まとめ
- 1位 服部半蔵
- 2位 風魔小太郎
- 3位 加藤段蔵
- 4位 百地丹波
- 5位 藤林長門守
- 6位 望月千代女
- 7位 隠才蔵
- 8位 鵜飼孫六
- 9位 伴資定
- 10位 城戸弥左衛門
- 11位 青山虎之助
- 12位 唐沢玄蕃
- 13位 出浦盛清
- 14位 太宰金七
- 15位 横谷左近
以上、15人の忍者を見てきました。
忍者はフィクションではなく、実際に存在して活動していたスペシャリスト集団だったということが分かりました。
くノ一でさえ現実に存在したとは、まったくもって嬉しい限りです。
忍んでも忍び尽くすことができないほどの才能を持った忍者たち。
キラリと光る人物目指して忍者修行したい時には、どうぞ彼らの名前を思い出してくださいね。