安土桃山時代

信長と濃姫の仲は? 濃姫以外にも妻が沢山いたって本当?

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こんにちは。さて皆さんは織田信長の事はもちろんご存知だと思います。

そして彼の妻には「濃姫(のうひめ)」と言う女性がいた事は、何となく耳にした事は有るのでは無いでしょうか。

織田信長は戦国時代きっての武将。戦いの数も成し遂げた事も、そしてその最期も今もなお日本史史上指折り付きの有名人です。でもそんな信長だって現代を生きる私たちと何ら変わる事ない、1人の人間で有り男性です。当然結婚もしていました。既婚者ですぞ。

今日は、極めて個人的な「信長の夫婦関係」に迫ってみたいと思います。

どんな夫婦関係を築いていたのか気になるところですね。

と言う事で、早速そぉっと覗いてみましょう!

信長の妻 濃姫やその夫婦仲、濃姫以外にも妻となっていた女性達を見て行く中で、信長の女性観が垣間見えるかも知れません。

《目次》

  • 信長の妻 濃姫との夫婦仲
  • 信長の正妻以外の女性(側室)
  • 総論
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信長と濃姫の夫婦仲は?

正室(正妻):濃姫(のうひめ)〜天文4年(1535年生)〜慶長17年没(諸説あり)

濃姫は、政略結婚と言う形で信長と結婚します。この時信長16歳・濃姫15歳の春でした。

(天文18年2月24日)1549年

〜濃姫は、信長の正室と言う立場で名前が有名な割には、きちんとした史実資料が存在しておらず、謎が非常い多い女性です。「信長公記」にも濃姫が信長に“輿入れ”した時までは書かれていますがそれ以降の消息はほとんど明らかではないのが事実です。

ただ、江戸時代に成立した「武将感状記」などには夫婦のエピソードとして次の様な話しが出てきます。

・信長に嫁いで間もない濃姫に、信長は「そなたのおやじ殿は蝮(まむし)と言われているが、蝮の子のそなたもまた蝮か?」と聞いたところ、彼女は顔色ひとつ変えずに笑って何も答えなかったという事。

・濃姫は、自分の日常生活や信長の生活ぶりを、逐一手紙で道三に報告していたという事。

京都の公家の山科言継の書いた「言継卿記」には、彼が信長の岐阜城を訪れた永禄12年7月27日付けのものに、「信長は斎藤義龍(道三の息子。信長と争い敗走)の未亡人の持つ、壺を大層欲しがり渡す様に迫ったが、未亡人は“失くしたのでもう持っていない。これ以上言うなら自害します”と言ったので、腹を立てた信長は、“本妻(濃姫の事)・兄弟・女子16人皆切腹せよ!”と言ったが、濃姫や斎藤家旧家臣の猛烈な抵抗に遭い諦めた」と記されています。1569年の事です。これは信長と濃姫の夫婦喧嘩についてでしょう。

・同じ年の「言継卿記」には、「8月1日、この日信長は例の壺の一件で、姑(濃姫の生母=小見の方)に会いに行くと言って出掛けたので、自分も姑の屋敷まで同行した」と有ります。壺の件で濃姫と喧嘩しちゃってスンマセンと言った感じなんでしょうね(笑)

この「言継卿記」は現在では一級史実資料と認められているので、濃姫は信長とは子供は無かったけれど、信長も姑にわざわざ会いに行って謝罪している様なので、仲が悪いという事はない感じが伺えます。

 

 

信長の正妻以外の女性(側室)について

はっきり分かっているだけで9人います。以下に紹介していきますね。

  1. 側室a:生駒氏
  2. 側室b:坂氏
  3. 側室c:高畠氏
  4. 側室d:稲葉氏
  5. 側室e:(正式名不詳)慈徳院
  6. 側室f:三条西氏
  7. 側室g:原田氏
  8. 側室h:土方氏
  9. 側室i:(正式名称不詳)養観院

 

側室a:生駒氏:

天文7年(1538年)〜永禄9年(1566年)5月13日没

本名は、「生駒吉乃(いこまきつの)」と言います。

1番信長に愛された女性とも言われています。

尾張国丹羽郡小折(現在の愛知県江南市)の豪族であった、生駒家宗の娘だったという事です。

吉乃は、1度は土田弥平次と言う侍と結婚していますが、弥平次が弘治2年(1556年)4月25日の長山城の戦いにて戦死したため、実家のある尾張へ帰ってきていました。

※長山城:岐阜県可児市にあった戦国時代の山城。明智光秀に繋がる明智氏の居城。

 

《吉乃と信長の出会い》

そんな折、出掛けた際にふと生駒家に立ち寄った信長にお茶を出したのが吉乃でした。

信長は、吉乃に一目惚れ。当然、正室濃姫はこの時既にいました。でも

濃姫との間に子供がなかった事もあるかもしれません。この時、信長24歳。吉乃は20歳と伝わります。

とても美しい女性だったと言う事で、信長はこの日を境に“鷹狩り“とか色々言っては吉乃のいる、生駒家を訪れています。

 

《嫡男信忠・次男信雄・長女徳姫の出産》

そうこうしているうちに、吉乃は懐妊。弘治3年(1557年)に、信長にとっての初の子供であり、嫡男の信忠が生まれます。そして時期は不明ですが、吉乃は“嫡男信忠の生母“として、尾張清洲城へと引き取られて、信長の愛情を一身に受けることになります。

 

翌年1558年には次男の信雄が、そのまた翌年には長女の徳姫(後に松平信康正室となる。五徳とも)を年子で吉乃は生み、大変信長の寵愛を受けた側室でした。

 

《体調を崩して‥》

しかし、3人の子供を年子というのは「腹の休まる時がない」という状態で、吉乃は長女徳姫を出産後、産後の肥立ちが悪くなり体調を崩して寝込む日々となってしまいました。

実家の生駒家に戻っている間、信長は戦や、初めての築城となる「小牧山城」等も築いていますが、そんな激務の中でも病に伏している吉乃を労わる為、自ら生駒邸へ赴き、見舞いなぞしています。

信長は、身内に対してとても甘いと言う表現がよくされますが、自分の愛している人を大事にする姿はとても微笑ましいものではないでしょうか。お花とかお菓子とか持って行ってたかも知れませんね。

 

《そして吉乃は‥》

信長は、まだ病で伏せってはいるが吉乃を新居である小牧山城へ移します。

信長にしてみれば、何としても吉乃を側においておきたいと言う強い想いが有ったのでしょう。

精力的に戦いながらも、様々な手を尽くして吉乃の病状回復を願い介抱していた‥とあります。

でも、もともと身体が弱かったのでしょうか。

やはり、命の灯火は再び燃え上がる事はなく、永禄9年(1566年5月13日)、吉乃は信長に愛されながら28歳と言うまだ若い年齢で、この世を去ってしまいました。

信長の落胆ぶりはもう誰が見てもわかるほどで、吉乃の死後は吉乃が葬られている江南市の久昌寺(きゅうしょうじ)の方角を向いて、毎日のように小牧山城の望楼に登り、涙を流していたと言われています。

信長にとっての、初めての愛だったのかも知れませんね。

信長は吉乃の中に何を見つけ、何を夢見ていたのでしょう。

吉乃への想いは生涯変わらなかった様で、吉乃の生んだ嫡男信忠と次男の信雄をその後、織田家の総大将としていますし、嫡男の信忠には家督も譲っています。

吉乃との愛の証し。信長はいつもそんな風に心の奥底に閉じ込めて息子たちの成長を見つめていたのかもしれませんね。

法名は、久庵桂昌。墓所は愛知県江南市にある久昌寺。

 

側室b:坂氏:生年不詳〜天正11年(1583年)没

《伊勢豪族の出身の坂氏》

坂氏(さかし)は、北伊勢の豪族坂氏の娘だったという事しか分かっていません。信長との間に子供は男子が1人。

永禄元年(1558年)に、信長の三男に当たる「信孝」を出産しています。

生駒氏の出産した、次男信雄より実際は20日ほど早く出産していた様  ですが、既に生駒氏の方が正室的な扱いを受けていたから‥とか、坂氏の実家の方が身分が低かったから‥など諸説あり、信孝は三男として信長に届出がなされています。何かモヤっとしますねぇ。

 

《神戸信孝の母として》

坂氏は、この信孝が信長死後、柴田勝家と組んで羽柴秀吉に敵対した為悲惨な末路となってしまいした。

坂氏の生んだ信孝は、信長家臣団として勇猛な武将で、人望もあったようです。

永禄11年(1568年)に信長は伊勢北部を平定、その際に鈴鹿市にあった神戸城の城主 神戸具盛(かんべとももり)の養子に送り込み、信孝は「神戸三七郎」と名乗ります。

この作戦は神戸家を乗っ取る為の信長の計略だったようです。

信孝は、本能寺の変で父を喪ったあとは、清洲会議での結果、岐阜城と美濃一国を与えられ、織田宗家家督を受け継ぐ事になった、嫡孫の三法師(信忠の遺児)の後見人を務める事に。

しかし、清洲会議での件に関して、不服を訴え柴田勝家と組み、羽柴秀吉と争う形になってしまったのが彼の選択ミスでしょう。秀吉と信雄は、信孝の動きを謀反として岐阜城を囲みます。

降伏する際、信孝は生母の坂氏と乳母、娘などを人質に秀吉に差し出しています。

 

《坂氏と信孝は‥》

坂氏や娘たちが人質となっているにも関わらず、再度柴田勝家と挙兵した為、秀吉は怒り心頭、信孝の人質だった坂氏らを磔にし串刺しにして、殺してしまいます。

信孝は岐阜城から退き、尾張国知多郡野間(現在の愛知県美浜町)の野間大坊に移り、信雄の命令によって、天正11年5月に自害させられます。

その死は壮絶で、信孝は腹を掻き切って腸を引きずり出した後、その臓物を床の間の掛け軸に投げつけ絶命したと言われています。

坂氏は、謀反者の生母であると言う事で、臣下だった秀吉によって命を奪われその一生を終えます。

信長の側室としても、息子としても1番悲痛な人生の最期だったのが、坂氏母子だったのではないでしょうか。

 

側室c:高畠氏:

生年不詳〜慶長17年(1612年)6月25日没

高畠氏は、近江国野洲郡北里村(現在の滋賀県近江八幡市)の土豪である、高畠源十郎の娘であると伝わっています。四女で、名前は「鍋(なべ)」と言ったので、「お鍋の方」とも呼ばれています。

 

《信長へ助けを求める》

このお鍋の方も、生駒吉乃と同様に未亡人でした。

近江国愛知郡(えちぐん)高野城の、城主 小倉実澄の妻で、甚五郎と松千代と言う2人の男子がいました。

この小倉実澄は、近江観音寺城の六角義賢の家臣でありながら、信長とは信長が尾張国を統一する前から何かしら親交があったようで、敗走戦の金ヶ崎城の戦いでも、織田軍の美濃帰還を手助けした事で、六角義賢の怒りを買って滅ぼされてしまいました。

未亡人となり、子供2人を抱えたお鍋の方は困り果てて、一縷の望みを信長に託し、岐阜城の信長まで会いに行き、現状を訴え助けを求めました。信長は同情してお鍋母子を快く岐阜城に留め保護しています。結果的に側室として迎えられ、2人の子ども共々生き延びる事が出来ました。

 

《側室として》

こうして信長の側室として迎えられたお鍋の方に、信長は近江へ入った後の永禄11年9月、永源寺に安堵状(主君が家臣に対して所領等の保証に出された文書の事)を与えて、そこにお鍋の方の館を造っています。

場所は現在の滋賀県神崎郡永源寺町高野だったと言われます。

信長との間には二男一女をもうけています。

七男の信高・八男の信吉・六女の於振(振姫)、そして遺児の甚五郎と松千代もこの高野城にて平穏な日々を過ごす事になります。

信長は、お鍋の方のみならず「連れ子」の甚五郎と松千代にも本領を安堵しているのですから、お鍋の方も信長から寵愛を受けていたと言っても良いでしょうね。

 

《信長への恩》

本能寺の変のあと、安土城は焼亡し、近くの長浜城は明智支配下となった為、お鍋の方は本当に僅かな家臣と共に高野城を脱出し行方をくらまします。

でもお鍋の方は、本能寺の変直後の6月6日に美濃国長良にある、崇福寺(そうふくじ)に「ここは信長の位牌所であるから寺地を違乱する事がないように」と書き遣わしています。

実際、岐阜県岐阜市福光にある、崇福寺 は信長の菩提寺で、信長関連の文書や重要文化物が沢山納められています。

また、本能寺の変の翌年、秀吉の命で長良川北岸に布陣していた、丹羽長秀に、「寺内と大門に放火や狼藉などを禁止する旨の札を立てて警戒してほしいと書状も送っています。

お鍋の方の信長への心遣いを伺うことが出来るのではないでしょうか?

連れ子ではあったが本領を安堵された、甚五郎と松千代は、その恩を忘れず本能寺の変のニュースを聞きつけた時、宿泊していた京の宿屋から飛び出し、本能寺で奮戦し、忠死しました。

信長公記の巻25に本能寺の変で討死した武将の名が記されています。

その中の一節に、「湯浅甚介・小倉松寿、此の両人は町の宿にて此れ由を承り、敵の中に交入り、本能寺へ懸込討死」と有りますが、この湯浅甚介と小倉小倉松寿こそが、お鍋の方と小倉実澄との間に生まれた2人の遺児の成長した姿でした。

その後羽柴秀吉の治世でお鍋の方は、高野村に500石の知行を安堵されたうえ、信長との遺児の信高・信吉は羽柴姓を賜り、高野城に住んだようです。

でも関ヶ原の戦いでは、2人の息子が西軍に加わったので徳川家康より領地を没収されてしまいます。

お鍋の方は、その後京都に移り住み慶長17年(1612年)6月25日に病死。

そして、その遺体は京都大徳寺の信長供養塔の側に手厚く埋葬されました。

最期まで、信長への愛情と恩を忘れず仕えた女性の様です。

法名は、興雲院殿月隣宗心大姉。墓所は京都市北区の大徳寺総見院。

 

側室d:稲葉氏:生没年不詳

彼女は名前も出身も父の名も不明です。

信長との間には男子が1人、三吉郎信秀の生母です。

三吉郎信秀は熱心なキリスト教信者で、イエズス会宣教師で有名なポルトガル人のルイス・フロイスが記した「フロイス日本史」の中に三吉郎信秀と、その生母の事が書かれている程度です。

その他は殆ど資料がなく、三吉郎信秀は近江に所領を有していたのですが、その後三吉郎信秀は、癩病を患って京都で亡くなりました。2人とも法名・墓所ともに不明です。

 

側室e:慈徳院:生没年不詳

彼女もまた生没年不詳で出身も父も不明です。

元々は彼女は嫡男信忠の乳母をしていたようです。

そして信長との間には、女子が1人。

秀吉の側室となる九女三の丸殿の生母です。

自分の子供の乳母を側室に迎えると言うのは、当時は別に珍しいことでもなかったようで、事実、信長の父 織田信秀も信長の乳母であった、養徳院を自分の側室に迎えています。

法名は慈徳院なので、こう呼ばれています。

 

側室f:三条西氏:生没年不詳

名前は「あここ」と言い、京都の公家の三条西実枝(さんじょうにしさねき)の娘と言われています。

天正9年(1581年)2月20日に信長が催した京都での馬揃えに見物に来ていた公家のお嬢様の様です。

このお嬢様〜あここを信長が見初めて、側室に迎えたようです。

これは、「言継卿記」と並んで、一次史料と考えられる「兼見卿記」に書かれていて、このような一次史料に信長の恋愛に関する事が記されている事は極めて稀少です。

然し乍ら、翌年本能寺の変により信長が亡くなってしまうので、2人の間に子供もおらず、あここの名前もその後は歴史から消えてしいます。

 

側室g:原田氏

生没年などは不詳ですが、名前は「直子」と伝わっています。

「好古類纂(こうこるいさん)」所収の「織田系譜」には、信長の庶長子と言った形で、信正の母として原田直子が挙げられています。

一説に、信長の重臣・原田直政の妹と言われ、信正は天文23年(1554年)5月5日に尾張国那古野城(なごのじょう)で生まれ、その後は13歳で元服し同じく尾張石の古渡城城主となったようです。

直子の事は資料が無い為詳しくはそれ以上はわかりませんが、法名は「明鏡院智勝尼」と伝わります。

 

側室h:土方氏:生没年不詳

青山氏の娘とする説と、土方雄久の娘とする説が有りますが、ここでは土方氏としておきます。

信長との間には、男子が1人。九男の信貞の生母です。

信貞は、徳川家康に召し抱えられて、大坂夏の陣では徳川方として従軍。土方氏の消息などについては、何もわかっていません。

 

側室i:養観院:生没年不詳

尾張時代から信長の側室だったようです。

信長との間には、男子が1人。それが御次丸秀勝で、永禄11年(1568年)信長の四男という事になります。

のちに羽柴秀吉の養子となって羽柴秀勝と名乗るようになりますが、元来病弱な体質だったようで、天正13年12月に京都で亡くなっています。

※秀吉の子には、秀勝が3人もいた為、他の秀勝と区別する為に「於次秀勝」と呼んでいます。

 

 

総論

《信長の妻濃姫を含む、女性たち一覧》

  • 正室→濃姫(帰蝶。子供は無し)夫婦仲が悪かったという話はない。 
  • 側室→生駒 吉乃(嫡男信忠・次男信雄・長女徳姫の生母)
  • 側室→坂氏(三男信孝の生母)
  • 側室→高畠氏(お鍋の方。七男信高・八男信吉・六女振姫の生母)
  • 側室→稲葉氏?(六男三吉郎信秀の生母)
  • 側室→慈徳院(九女三の丸殿の生母)
  • 側室→三条西氏(あここ。子供は無し)
  • 側室→原田氏(直子?十二男信正の生母)
  • 側室→土方氏?(九男信貞の生母)
  • 側室→養観院(四男御次秀勝の生母)

 

上記のように、正室の他に9人の女性がいたようです。

しかし、五男勝長・十男信好・三女秀子・七女源光院・八女月明院・十女鶴姫達6人の生母は、不詳です。

信長の息子娘は22人とも24人とも言われますが、その何れもが皆、正室濃姫以外から生まれた子供たちです。正式な妻との間に子供が無かったからと言って、信長と正室濃姫の夫婦仲が悪かったと結論づけるのは早計でしょう。

小説家などは、“道三亡き後の濃姫は、信長にとって何の価値もなく織田家を探っては実家の斎藤家に報告していたと言う行動に信長は心底信用を置くことなどは出来なかっただろう”と、ネガティブなイメージを持って、濃姫を描いているものが多いです。

ただそれはあくまでも「史料に残っていない」と言うだけでの、想像に過ぎないと私は考えます。

この時代の女性は、大名クラスの子女で嫡男や息女を生むと史実には残りますが、そうでない場合生年はおろか、名前すら判明していない事も別段珍しい事ではなかったでしょう。

生駒吉乃は、嫡男信忠と次男信雄・長女徳姫を出産した事で史実に残りましたが、他にも信長との間に子をもうけても、出自の分からない女性は多いです。それがその時代では普通だったと理解するべきです。ですから子供がいない=不仲だったとは言えないと思っています。

この記事を執筆するにあたり、歴史研究家の岡田正人氏の「織田信長総合事典」、岡本良一氏・奥野高弘廣氏・小和田哲男氏・松田毅一氏編集の「織田信長事典コンパクト版」を参照引用させて頂きました事、この場を借りて深く御礼を申し上げます

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