明治時代

野口英世の功績って何?お札になるくらいの功績とは‥!

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お財布の中に福沢諭吉(1万円札)はいない日がいても、野口英世(千円札)はほぼ確実にお財布の中にいるハズ。

旧千円札の夏目漱石に変わり、新しいお札の「顔」となったからには相当な功績を残したという事です。

野口英世がどんな功績を残し、お札になるまでになったのか、調べていきましょう。

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野口英世の功績の数々

1、黄熱病の研究

野口英世の代表的な功績と語られるのが、黄熱病の研究です。

日本にいると耳慣れない病気ですが、黄熱病はサル、及びヒトを宿主とし、ヒトにはマラリアやデング熱と同様に蚊を媒介にして感染します。発症すると発熱、頭痛、筋肉痛、嘔吐などの症状が現れ死に至る事もある怖い病気です。

アフリカや中南米など熱帯地域で発生しますが、現在では有効なワクチンがある為発症を防ぐことが出来ます。上述のエリアに海外駐在を命じられたビジネスマンやその家族は、黄熱病のワクチンを予防接種センターで接種する事になります。

野口英世が黄熱病の研究をするようになったきっかけは、ロックフェラー財団の黄熱病撲滅計画により派遣された調査団に加わった事。

1918(大正7)年、彼はまだワクチンがなかった黄熱病の病原体発見の為に、当時黄熱病が流行していた南米のエクアドルに向かいました。

そこで患者の症状をみた英世は、「ワイル病」という病気の症状に似ていると、試験的にワイル病病原体培養法を適用し、奇跡的に病原体を特定する事が出来たのです。

この病原体に彼は「レプトスピラ・イクテロイデス」と名付けました。この結果をもとに開発された「野口ワクチン」により、南米では黄熱病が収束したとされており、一躍彼は「人類の救世主」となったのです。

しかし南米では効果を発揮した野口ワクチンが、アフリカで流行していた黄熱病には効果がありませんでした。

数年後、アフリカのセネガルで黄熱病が大流行しますが、やはりこの時も野口ワクチンは効果が無く、黄熱病の病原体と南米で特定した「レプトスピラ・イクテロイデス」も見つからなかったのです。

自説が反証された野口は自ら西アフリカのガーナへ赴き、黄熱病の研究をつづけました。

現地で黄熱病で亡くなった患者の血液からも、自身が発見した病原体は見つからなかったのです。彼は現地で研究を続けましたが、1928年(昭和3年)の5月、自身も黄熱病を発生

しかし英世は同年の1月に軽い黄熱病にかかっており、一度罹患すると終生免疫がつくためすぐに回復すると思っていました。(1月に黄熱病にかかったとされる際、別の医師はアメーバ赤痢と診断しており、この時の症状は黄熱病ではなかったと考えられています。)

しかし発症したわずか8日後に、野口英世は51歳の若さでこの世を去りました。

英世は終生免疫がつくはずの黄熱病に再罹患した事を不思議に思いながら、「どうも私にはわからない」といったのが最期の言葉になりました。

英世が大きく貢献したエクアドルでの「黄熱病の収束」は、実は「ワイル病」であったと思われ、現在の実際の彼の功績は「南米でのワイル病の収束」となっています。

野口英世の死因はこの黄熱病が原因なのではないか?と考えられているよ

▶ 野口英世の死因は黄熱病だった?梅毒などの説も‥!?

 

2、梅毒スピロヘータの純粋培養

野口英世は、論文の研究よりも徹底的な実験を繰り返す実践派でした。気の遠くなるような実験パターンを全て実行し、データの採集を行いました。

睡眠も一日3時間しかとらなかった時もあったようで、アメリカでは英世の事を「実験マシーン」と言ったり、日本人は睡眠をとらないと誤解されていました。

黄熱病は研究途中で、彼自身が黄熱病に感染し、志半ばで失くなってしまいましたが、彼にはもう一つ成果を上げた分野があります。

それが「梅毒」の研究でした。

「梅毒」とは何だ?と思った方、ああ昔遊郭とかではやった病気ね、と思った方、梅毒は昔の病気ではなく今も流行している病気です。

梅毒はスピロヘータ・バリダというらせん形の微生物が原因で、肉体の接触によって感染する性病の一つです。病原体は既に発見されており、有効治療薬としサルバルサンも開発されていました。

梅毒が進行すると、脳や神経の組織が壊され、精神障害が起こります。この病状を「麻痺性痴呆」「脊髄癆」と呼びましたが、この症状が梅毒の一種であるという事は当時知られていませんでした。

英世は患者の組織を丹念に調べ、梅毒スピロヘータを発見し病因を突き止めたのです。しかし、英世の後に同じ方法で、梅毒スピロヘータの培地による培養の追試に成功して者は出ていません。

その為今ではこれを疑問視する声もあります。

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3、真の彼の功績とは…?

黄熱病の研究、梅毒スピロヘータの培養と見てきましたが…

彼が南米で収束させた「黄熱病」は、現代では「ワイル病」とされていたり、梅毒スピロヘータの培養が彼しかできなかったことから、この功績を疑問視されていたりと、ちょっと英世には聞かせたくない感じですね(笑)

でも、今では当たり前に使われる電子顕微鏡が無い時代という事を考えると、やはり彼の残したものは大きいのです。

彼は実験で成果を上げただけでなく、「医学の伝道師」として沢山の国々で熱心に講演や、公開実験を一人でやってきました。現在なら国際協力活動として当たり前にされている事を、彼は一人でやっていたのです。

そして彼は小さい時に負った大きな障害や、貧しさにも負けず、努力を重ねて医学者になりました。彼の目に見える功績は疑問視されているものも有りますが、一人の人間として、世界中の人々に大きなものを残しているのではないでしょうか。

 

まとめ

今回のお話を端的にまとめると‥

  • 黄熱病の研究。南米エクアドルでの流行を収束させた。(今では黄熱病ではなくワイル病であったとされている)
  • 梅毒スピロヘータの純粋培養
  • 「医学の伝道師」としての国際協力

私個人としては、彼の功績は後世にまで語り継がれる生き方であると思っています。

彼は数多くの名言を残しました。

「志を得ざれば再び此の地を踏まず」

「努力だ。勉強だ。それが天才だ。だれよりも三倍、四倍、五倍、勉強するもの。それが天才だ」

これは代表的なものですが、大きな挫折や努力をしてきた分、彼の言葉はすごく心に響きます。

まさに、この心への響きが、彼が残した功績ではないでしょうか。

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