明治時代

野口英世の手がヤケドでくっついた!?手術で治った?

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みなさんお財布は手元にありますか?お財布の中から1000円札を出してください。

このちょび髭のおじさま、どなたか知っていますか??

彼の名前は「野口英世

貧しい幼少時代、事故によるハンディキャップを抱えつつも、類まれな努力を重ねて世界的な医師であり、梅毒や黄熱病の病原体の研究で世界的に有名になった細菌学者でもありました。

そんな野口英世ですが、実はやけどで左手の指がくっついていたといわれているのです。

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火傷で左手の指がくっついた!?

野口英世(清作)が一歳の冬、少しでも暖かいところにと、母は英世を囲炉裏の傍に寝かせて畑仕事に出ていました。

すると突然、家の方から大きな泣き声がした為慌てて駆けつけると、幼い英世が囲炉裏に落ちていたのです。左手には大きな火傷を負っていました

急いで医者に見せたくても、日々の生活でいっぱいいっぱいな野口家は、医者に見せるお金がなく、火傷が治るのを待つことしかできませんでした…自然治癒の力に任せたんですね。

しかし火傷は治っても、英世の小さな左手の5本の指はくっついてしまい、松ぼっくりの松の実のような拳を握った状態の左手になってしまいました。

母のシカは自分の不注意で息子に大きな怪我をさせてしまったと、ずっと自分を責めていたそうです。そこでこんな手では農業はできない、と、息子を学問の道に進めようと決意をしたのです。

 

 

母の涙に心動かされる

英世の実家の前には尋常小学校があり、母は彼を学問の道に進める為に入学させました。自分の責任で息子に大きなケガをさせた事を悔やみ、母は必死で働きました。

小学校といっても福島の片田舎の小学校は、裕福な家庭の子供しかまだ通うことができず、貧しい家庭の子供は英世しかいませんでした。

晴れて入学しても、彼の左手は小学校へ入学する時もくっついたままで、子供達の悪い意味での「注目の的」となってしまいました。

「てんぼう、てんぼう」と左手の事をからかわれ続けて、一生懸命勉強はしておりましたが、とうとう英世は今で言う登校拒否となってしまいました。

ある日、学校へ行かずにフラフラしている姿を、ついに母のシカに見つかってしまいました。

英世は母にひどく叱られると思っていましたが、母も何故英世が学校へ行かないのか理由をわかっていました。

母は怒るどころか、

ゆるしておくれ。火傷をさせてしまったのはお母ちゃんのせいだ。辛いだろうがここで勉強をやめてしまったらせっかくの苦労も何にもならない。お前の勉強をする姿を見ることだけが楽しみなんだ。我慢しておくれ

と、涙ながらに詫びるのでした。

幼い英世(清作)の心は激しく動かされ、この事があってから彼は単に学校へ行くだけでなく、猛勉強を始めるのです。

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左手の手術、医学の道へ

それからの英世(清作)は猛勉強を続け、トップクラスの成績を納めるようになりました。母の思いが、いじめにも負けず、そして自分にも負けないマインドを作ったのです。

劣等感から逃れるように、一心に勉強しトップの成績を守り続けていました。英世自身も貧しい農家の後を継ぐより、勉強して家を出たいと考えるようになりました。

それでも自由に物をつかめない左手が嫌で、小刀で自分の指を切り離そうとしたこともあり、慌てて周りの人から止められたそうです…彼を進学するように導いてくれたのは、恩師の小林栄先生でした。

英世は自分の左手がままならない歯痒い思いを作文にしました。高等小学校4年生の時に書いた「ぼくの左手」という作文です。

その作文の一部がコチラ

「僕はたとえ片手が不自由でも、きっと立派な人間になってみせるという、大きな希望をもっています。

けれども時にはフト、こんなかたわの手では、いくら努力しても一人前になれないのではないかと考えると、目の前が真っ暗になるような気がします。……僕はどうかして物が握れるようになりたいと思います。いっそ自分の小刀で、この指を一本一本、切り離してやろうかと何度考えたかもしれません…」

この作文が、上述した小林先生をはじめとする、他の教師や生徒の気持ちを動かしました。それから英世のために寄付金が集められ、左手の手術をすることになったのです。

手術で物がつかめるように!

会陽医院という病院の院長で、アメリカ帰りの医師・渡部鼎の執刀で何とか左手の指を切り離すことに成功しました。完全とまではいかなくても、何とか物が掴めるようになったのです。

手術後、最初は英世は小林先生のような教師になりたいと考えていました。しかし、教師になるには、手術して動くようになったとはいえ、不自由な左手がハンデとなっていました。

そんな時に、その憧れの小林先生から医学の道を薦められたのです。小林先生自身は、優秀な人材をもっと広く世の中に送り出したかったのでしょう。

英世は会陽医院の書生となり、医学の他にドイツ語や英語、フランス語などを必死で勉強。その後ついに英世は東京へ出て、勉学に励むようになりました。

東京ではずっとコンプレックスに思っていた左手が、住み込みで勉強させてもらえるようお願いしたり、借金のお願いをするためには効果的だったそうです…たくましいですね…

ただ、医師になるためには試験には打診があり、この時の英世の左手ではその試験を受けることすらできませんでした。そこで東京の恩人である血脇盛之助の援助で、2度目の手術を受けることになったのです

この血脇盛之助という人物、戦後東京歯科大学を設立するなど日本の歯学界に大きな功績を残した人物。その血脇氏の援助で、東京帝大の近藤外科医により2度目の左手の手術が行われ、無事に医師の試験に合格しました。

ここで、ついに医学者・野口英世が誕生したのです。

 

 

まとめ

今回のお話を端的にまとめると‥

  • 1歳の時に囲炉裏に落ちた時に負った火傷で、左手が使えなくなってしまった。
  • 母のシカが必死に働き、学問の道に進ませた。
  • 一時期登校拒否になりかけたが、母の思いに奮起し、いじめにも自分にも負けないように猛勉強をした。
  • 英世の頑張りと、人知れず抱えた思いに多くの人々の心が揺さぶられ、寄付により左手の手術を受けられるようになった。
  • 最初は教師になろうと考えていたが、恩師から医学の道に進む事を薦められる。
  • 東京へ出てからも学問を続け、東京歯科大学を設立する血脇盛之助のお陰で2回目の左手の手術を受け、医師の試験に合格した。

彼自身の努力の賜物でもありますが、日々の暮らしにいっぱいいっぱいだったのに、息子を学問の道に進ませた母親の思いに胸が熱くなりますね。

実は筆者もつかまり立ちができるようになったくらいの年齢の時、テーブルの上にあった祖母の熱いお茶を自分の足にこぼして大火傷を負いました。

服と皮膚がくっついてしまって、剥がす事ができず救急車に乗って病院で手当てをしてもらったと聞きました

それから母親が毎日病院へ通い、痕に残らないように毎日薬を塗ってもらっていたそうです。そのおかげで私の足にはまったく火傷の痕が残っていません。

自分の不注意のおかげで、幼い息子に大きな怪我を負わせてしまい、お金がないためにお医者さんにも診せる事ができなかった英世の母のシカの思いを想像すると、胸が張り裂けそうになりますね。

大きなハンディキャップを抱えつつも、母の思いに満点以上の出世を遂げ、世界的な医師、細菌学者になった野口英世に改めて同じ日本人として最高の敬意を払いたいですね。

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