明治時代

野口英世の死因は黄熱病だった?梅毒などの説も‥!?

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日本が誇る世界的に有名な医師であり、細菌学者の野口英世

赤ん坊の時に負った火傷で、左手に大きなハンディキャップを持ちながらも、必死に勉強をし、医学者となった姿は今も日本人を始め、世界中から大きな尊敬を集めています。

彼は生涯研究を続けましたが、1928年(昭和3年)に日本から遠く離れたアフリカのイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)のアクラで帰らぬ人となりました。

死因は彼が生涯をかけて研究した黄熱病と言われています。

死の間際、彼は「私にはわからない」と言って亡くなったと伝わっています。

 

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野口英世の死因は一体‥?

死因:黄熱病説

野口英世が黄熱病を研究するようになったきっかけは、ロックフェラー財団の黄熱撲滅計画でした。彼自身が当時ロックフェラー研究所に所属しており、その調査団に加わる事となったのです。

1918年(大正7年)、彼はまだワクチンの無かった黄熱病の病原体発見の為、当時黄熱病が大流行していた南米のエクアドルに派遣されました。

患者の症状を見た時に「ワイル病」という病気の症状に似ていた為、試験的にワイル病病原体培養法を適用し、何と9日後、病原体を特定する事ができたのです。

この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が終息したとされており、彼は「人類の救世主」とまで言われるようになりました。

しかし‥‥南米では効果を発揮した野口ワクチンが、アフリカで流行していた黄熱病には効果が出ませんでした。さらに数年後、アフリカのセネガルで黄熱病が大発生します。

この時も野口ワクチンは効果が無く、南米で発見した病原体も見つかりませんでした。

自説が反証された野口は自ら西アフリカ(現在のガーナ)に向かい、研究をつづけました。現地で黄熱病で亡くなった患者の血液からも、自身が発見した病原体は見つからなかったのです。

ついに野口英世も黃熱病になってしまった

彼は現地で研究を続けましたが、1928年(昭和3年)の5月、自身も黄熱病を発生します。

しかし英世は同年の1月に軽い黄熱病にかかっており、一度罹患すると終生免疫がつくためすぐに回復すると思っていました。(1月に黄熱病にかかったとされる際、別の医師はアメーバ赤痢と診断しており、この時の症状は黄熱病ではなかったと考えられています。)

しかし発症したわずか8日後に、野口英世は51歳の若さでこの世を去ることとなったのです

英世は終生免疫がつくはずの黄熱病に再罹患した事を不思議に思いながら、「どうも私にはわからない」といったのが最期の言葉になりました。

英世の死後、彼から採取した血液をサルに接種したところ発症し、彼の死因が黄熱病であったと確認されました。

そもそも黄熱病って?

日本にいるとあまり耳慣れない病の「黄熱病」。

海外駐在を控えている人は必ず駐在する国によって定められた予防接種打たなければいけない為、予防接種センターへ足を運びますが、その時に「黄熱病」という言葉を聞くかもしれません。

黄熱病のワクチンは、アフリカへ駐在する人が多く接種しています。(私が予防接種を受けたところは、黄熱病だけ曜日と時間帯が決まっていました。)

そもそも黄熱病ってどういった病気なのか?

黄熱病はサル、及びヒトを宿主とし、ヒトにはマラリアやデング熱と同様に蚊を介して感染します。

発症すると発熱、頭痛、筋肉痛、嘔吐などの症状が現れ、死に至る事も有る病気です。アフリカや中南米など熱帯地域で発生しますが、現在では有効なワクチンがあり発症を防ぐことが出来ます。

 

死因は黄熱病ではないとする説

  • 黄熱病の研究中に病原体に接触してしまった説
  • 梅毒説
  • 殺害説

上述した通りに、野口英世は「黄熱病の研究の最中、自身も黄熱病にかかり亡くなった」という説が一般的です。

しかし彼の死因が、黄熱病ではなかったなど様々な説があるのです。

研究中に病原体に接触してしまった説

野口英世が亡くなったガーナのアクラでは、黄熱病は流行していませんでした。そして黄熱病に罹患したと思われるのはナイジェリアのラゴスというところでしたが、ここでも黄熱病は流行していませんでした。

となると、考えられるのは黄熱病の研究中に病原体に接触してしまったという説。実際に彼の研究方法は、黄熱病の病原体をサルに注射し、その病状を観察するというものでした。

その時サルの血液がついた注射針などで自分を誤って刺したのではないか、または死んだサルの解剖中にメスで自分を傷つけたのではないか…

と、環境から感染したのではなく研究中の事故によって、黄熱病に罹患したという説も納得はできます。

梅毒だったのではないか説

また野口英世は黄熱病以外にも梅毒の研究もしており、死因は梅毒ではないかと疑う声も出ています。

梅毒は性病としてよく知られていますが、リンパ腺が膨張し全身に毒がまわり、最後は神経中枢の脳や脊髄までおかされ進行性マヒとなり、最悪しに至る病気です。

彼は進行性麻痺や、脊髄患者の脳から梅毒の病原体を発見したのです。

殺害説

何と、殺されたという説まで…!!

先ほど彼は南米で流行した黄熱病を、ワイル病の病原体からワクチンを培養し流行を食い止めたと書かせていただきました。

しかしそのワクチンは、アフリカでは効果がなかったため、1920年ごろから彼に対する批判が見られるようになります。その為彼は執念で、自ら危険を犯し、西アフリカまで渡ったのです。

そんな野口英世の学説を否定するラゴスの研究所を彼が訪問した時に、誰かが黄熱病の病原体を彼に注射をしたという説があります。

ただこれは少し飛躍しすぎている説ですが、日本から来た男がやたら世界的に有名になり、その活躍を快く思わなかった人もいるかもしれません。

 

 

まとめ

今回のお話を端的にまとめると‥

  • 野口英世の死因は西アフリカで罹患した黄熱病が一般的
  • 死因は諸説あり、他のウイルス説・梅毒説・殺害説も
  • 最期の言葉は「どうも私にはわからない」だった

彼は一度黄熱病に罹患し、そのワクチンを作って自分で接種をしています。一度罹患すれば終生免疫がつくはずなのに、再罹患した時は自分の身体、そして今までの研究が覆されたことできっと病床の中大混乱となっていたでしょう。

実は黄熱病に罹患したと思っていたのは、ワイル病で、そのワクチンを打っても、実際に黄熱病にかかっても効くはずがなかったのです。

彼の死後、科学の発展とともに精巧な電子顕微鏡が登場し、彼が生涯かけて追い続けた黄熱病の病原体も断定されたのです。

「私にはわからない」という言葉を残し、この世を去る事となりどんなに無念だったでしょうか。

それでも南米では彼は人類の救世主となりました。

そしてアフリカなど、正直どんな事が起きるかわからないところに行く使命を負った人々に、黄熱病のワクチンは非常に心強いものとなり、それに彼の研究もきっと生きているに違いありません。

危険を犯しても人類のために研究を続けた彼を、もっともっと知りたくなりますね。

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