安土桃山時代

織田信長は刀マニア!信長の愛刀を紹介します

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織田信長の愛刀があるのなら、それはどんなものなんだろう?日本刀には大概刀匠の名前がそのまま刀の名前としてつけられる場合が多く、例えば、有名なものとして「正宗」は鎌倉時代から室町時代に相模国の鎌倉で活躍した、「岡崎五郎入道正宗」の作品で日本刀研史上最も有名な刀匠とされてます。

同じく正宗と双璧をなすものとして「村正」がありますが、こちらは伊勢国桑名の刀匠 村正が作り上げた作風の刀です。どちらもとても有名ですが、では戦国時代の武将たちはこう言った有名どころの刀匠に依頼して作ってもらったりしてたのか?特に織田信長の愛刀って?と好奇心の翼いっぱいで調べてみました。信長にまた一歩近づけます!

《目次》

  • 信長愛刀その1:宗三左文字(そうざさもんじ/義元左文字とも)重文
  • 信長愛刀その2:圧切長谷部(へしきりはせべ)国宝
  • 信長愛刀その3:長篠一文字(ながしのいちもんじ)国宝
  • 信長愛刀その4:薬研藤四郎(やげんとうしろう)焼失
  • 信長愛刀その5:実休光忠(じっきゅうみつただ)焼失
  • 信長愛刀その6:鬼丸国綱(おにまるくにつな)宮内庁御物
  • 信長愛刀その7:津田遠江長光(つだとおとうみながみつ)国宝
  • 天下五剣とは?
  • 合戦の実際は刀は使わない?
  • 総論
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《信長の愛刀について》

信長は愛刀家でも知られていて、数多くの刀をコレクションとして持っていたと伝わっています。

中でも有名な上記7本について見てみましょう。

 

宗三左文字:そうざさもんじ

刀匠不明で南北朝時代のものとされています。

元の所有者は徳島の雄、三好一族の三好政長所蔵のものでしたが、政長が出家してから一旦は、武田信虎(信玄の父)へ献上され、そこから駿河の今川義元へ。

そしてあの「桶狭間の戦い」で、今川義元が倒された後信長のものになりました。

信長はこの時、「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と銘を改めて入れ直して、以後本能寺の変で亡くなるまで肩見放さず、側に置いた愛刀中の愛刀となります。

(宗三と言うのは。三好政長が出家した後の名前です)

 

現在は京都市北区船岡山の中腹にある、建勲神社(たけいさおじんじゃ) に重文として保管されています。

平成30年9/29(土)〜11/25(日)にこの度、この「宗左文字(義元左文字)」が京都国立博物館特別展に出展される事になりました。これは京都博物館初の刀剣特別展となりますので、興味のある方は是非一度足を運ばれてみては?わたしも行きまーす(笑)

 

2.圧切長谷部:(へしきりはせべ)

南北朝時代の刀匠 長谷部国重作のものです。

元は大太刀であったのですが、後に切り詰められて刀となったので、作者の銘は有りませんが、鎌倉〜南北朝期に活躍した山城国刀匠の長谷部国重作とされています。

この名前の由来は、信長が台所の棚の下に隠れた茶坊主を棚の下にその刀を差し込み、刀身を押し当てて斬り殺したのでその名前がつきました。「圧し切り=圧切=へしきり」。

信長から、羽柴秀吉へ、そして黒田長政へ下賜とも、信長から中国攻めの良い案を提言した際の褒美として渡され、そのまま黒田家の家宝となったようです。

現在は、福岡市博物館で国宝として指定されていますが、毎年1月上旬〜2月上旬の1ヶ月間のみ公開展示されます。

 

3.長篠一文字:(ながしのいちもんじ)

備前国福岡(現在の岡山県邑久郡長船町福岡近辺)に住していた刀匠たちの作にあたるもので、元々織田信長が所有していました。

天正3年(1575年)に、武田氏に与していた三河長篠城主の奥平貞昌が徳川方に寝返って、犠牲者を出しながらも、織田徳川連合軍に勝利をもたらしたその功績を称え、信長自らが奥平貞昌に贈った刀です。残念ながら現在は、静岡県の個人の方所有物となっておりその姿を見ることはできませんが、国宝です。

 

4.薬研藤四郎:(やげんとうしろう)

山城国粟田口の藤四郎吉光の作品で、こちらは短刀ですから護身用などに使われていたかもしれませんね。

最初の所有者は、足利氏一門でお家騒動を起こして、引いては応仁の乱を引き起こした畠山政長。結局最期は孤立無援となり自害するのですが、その時にこの短刀を使った際、3度も腹に突き刺しても通らないので、投げ捨てたら近くにあった薬研に突き刺さったので、以後このような名前がついたそうです※薬研とは、薬にする薬草を磨り潰す際に使う器具の事※

 

その後戦国の梟雄 松永弾正久秀の手元に渡り、信長配下になった久秀から、信長に献上すると言う形で信長の物になりました。畠山政長の一件を知り、信長は「主君を守る刀」と言うことで気に入ったようで、本能寺の変の際も携行しています。しかし、本能寺の変で当然焼失してしまいその後はそれを秀吉が焼き直しして後に、徳川秀忠の元に渡っています。

 

5.実休光忠(じっきゅうみつただ)

も本能寺の変で信長と命を共にした刀です。

こちらは佩刀(はいとう)と言って大鎧の際に刃を下にして左脇に紐を通して吊るす形の、比較的長い太刀という所を意味します。信長は、短刀と太刀を持って本能寺にいたわけですね。

これはもとは三好三人衆と呼ばれた三好長慶(みよしながよし)の弟の実休の佩刀でしたが、実休が永禄5年の久米田の戦いで討死したので、それを畠山高政が信長に献上した形で信長の刀となりました。

信長はこの刀を大層きにいり、岐阜城下の馬場で斬れ味を試したりして携行しています。実際に本能寺の変でも使われたようで、18箇所の切込みが見受けられたようです。

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6.鬼丸国綱(おにまるくにつな)

天下五剣の一つとされ、山城国国綱の作となります。

この刀は最初、足利義輝が所持しその死後は弟の足利義昭→信長→秀吉へと変遷していきます。

現在は、三の丸尚蔵館所蔵となっており、宮内庁御物です。

北條家→新田義貞→足利将軍家所有という流れを辿って、室町幕府第13代将軍足利義輝死後に、弟である第13代足利義昭の元に渡りそこから信長の元に来たようです。

この、「天下五剣」については後述しますね。

 

7.津田遠江長光(つだとおとうみながみつ)

鎌倉時代後期の備前国長船町近辺にいた刀匠で、古刀期にかけては最も現存在銘の刀が多い刀匠の1人と言われています。

古来よりこの備前国自体は、刀剣の産地として有名で吉井川流域で派生した、長船派や福岡一文字派、吉岡一文字派など多くの優れた刀匠が存在していました。

3に出てきた、「長篠一文字」も一文字派の作品で、如何に優れていた地域かが分かります。

この津田遠江長光は、いわゆる“太刀”の部類になるもので、とても華やかな刃文を持ってその名を知られています。

元来織田家の所有の物でしたが、本能寺の変で明智光秀に奪われ、光秀が家老の津田遠江に下賜した事で、この名前がついたようです。

その後は、前田利家→徳川将軍家→再度尾張に戻って来れた様です。

現在は、尾張徳川家唯一の美術館である名古屋市の徳川美術館に所蔵されています。

国宝です。

 

《天下五剣とは》

古来より日本には刀が存在し、それは戦いの道具でもあり、神聖な神の宿る神器でもありました。天皇家の「三種の神器」の一つにも「草薙の剣」がありますが、刀を聖なるものと崇めてきました。

そんな中、数ある「名刀」と言われるものの中でも室町時代頃より特に秀でて名刀と呼ばれた、5振の総称を「天下の五剣」と呼んでいます。

  • 童子切(どうじぎり)→国宝・大原安綱作か・東京国立博物館所蔵・太刀
  • 鬼丸(おにまる)→御物(皇室私有物)・山城国国綱作・宮内庁三の丸尚蔵館所蔵・太刀
  • 三日月(みかづき)→国宝・山城国三条宗近作・東京国立博物館所蔵・太刀
  • 大典田(おおでんた)→国宝・筑前国三池典田光世作・公益財団法人前田育徳会所蔵・太刀
  • 数珠丸(じゅずまる)→重文・恒次作か・兵庫県尼崎市本興寺所蔵・太刀

 

実際の合戦では刀は使わない?》

戦国時代の戦い方の中心は、まず槍。そして弓矢や鉄砲、投石などで、刀は敵将たちの首を斬ったりする時のみに使用していた様です。信長も幼い頃から槍や弓道などは武士の子としての当たり前の英才教育として日頃から行っていました。

合戦の最初はまず槍合戦からで、とにかく振って振って振り回す(笑)足軽兵も槍は持たされていますので、ここぞとばかりにぶん回します。

騎馬武者の持つ槍は動きも考えて3m位ですが、足軽兵の持つ槍は、長くて7mもする様なものも持っていました。

足軽兵たちはまずこの長い槍を振り回して、馬上の騎士たちを落として刺したり、馬などを叩いてバランスを崩した騎士を刺したりしていた様です。

「槍」は当時は武将の“強さ”を褒め称える言葉でもあって、今でも残る、「七本槍(しちほんやり)」と言うのは、槍が七本有ったのではなく、当時は如何にその合戦で強く活躍したかを表す時の代表語みたいなものでした。

ですから合戦ではむしろこの槍が1番多く持ち込まれていた様です。織田信長家臣団の槍は特に長い事で有名でした。

鉄砲も持ち込まれましたが射程距離は50m程。火薬原料の硝石が輸入物だったのでコストがかかります。

ちなみに、合戦での殺傷比率は60〜80%が鉄砲と弓でした。

石というのは、手のひらに入るくらいの大きさの石を沢山用意して投げる。大きな布に少し大きな石を包んでぶん回すとかなりの確率で傷つけられます。遠心力ですかね。

とにかく、合戦では、足軽兵が長槍でひたすら延々と殴り合う叩き合い、それから弓や鉄砲などに移ると言った感じが実際の所だったようですね。

 

 

《総論》

信長の愛刀は

その1:宗三左文字(そうざさもんじ/義元左文字とも)重文

その2:圧切長谷部(へしきりはせべ)国宝

その3:長篠一文字(ながしのいちもんじ)国宝

その4:薬研藤四郎(やげんとうしろう)焼失

その5:実休光忠(じっきゅうみつただ)焼失

その6:鬼丸国綱(おにまるくにつな)宮内庁御物

その7:津田遠江長光(つだとおとうみながみつ)国宝

などが知られていて、現在もその姿を見ることが出来るものはあります。

実際本能寺の変でのくだりなどでは、「信長公は自ら刀を持ち戦い、それが折れると太刀や長槍をも用いて奮戦したが銃弾を受けて、もはやこれまでと本能寺の奥深い部屋まで下がった」とありますので、武将クラスは常に刀は持っていたのでしょう。

しかし鉄砲の様な飛び道具を使われると殺傷能力も高いので、流石の信長も具足をつけているわけでは無かったので太刀打ちできなかったのでしょう。

今回は“織田信長の愛刀”について見ていきましたが、これが皆さんの戦国好き魂に火をつけると、嬉しい限りです。

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