安土桃山時代

織田信長の歴史を年表形式で詳細に見ていこう!

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[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]天下人になった織田信長はどんな一生だったのか?順を追って見てみよう![/voice]

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]織田信長もラクに天下をとれたワケではなく、大敗することもあったりして苦労しながら天下をとった人みたいだよ[/voice]

押しも押されぬ戦国時代のヒーローと言えば、織田信長と思われる方も多いですよね。そう、織田信長は散り際も衝撃的ながら生まれ持ってその人生そのものが、波瀾万丈爽快痛快な生き様のヒーローでした。

「いちごぱんつ(1582年)」とゴロで覚えた本能寺の変を題材にした、綾瀬はるかさん主演の映画「本能寺ホテル」有りましたけど、私も行ってみたい!タイムスリップ出来るなら、本能寺の変の前に織田信長に会って絶対本能寺に泊まっちゃダメ!その日京都に行っちゃダメ!と喚きそうです(笑)

そんな織田信長ですが、彼の人生って一体どんな風に来たのでしょうか。本能寺の変だけではない、彼の足跡を今日は年表的イメージで辿って行こうと思います。さながらタイムスリップした気分で覗いてみましょうね。では「織田信長号、これより発車いたします!」

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織田信長の歴史を年表形式で順を追って見てみよう!

《出生~美濃国平定まで》

■ 誕生:天文3年(1534年)5月12日、尾張国(現在の愛知県)那古野(なごの)にて生まれる。

父は織田信秀、母は土田御前で兄弟姉妹は全部で14人!信長は2番目ですが、すぐ上の兄にの信広は異母兄である事から、正室である土田御前の産んだ信長が、嫡男となります。

他の兄弟で有名な人物には、後の徳川幕府二代将軍 徳川秀忠の正室となる、“江”の母親で大変美しかったと言われる、お市の方がいます。

 

■ 天文18年(1549年)2月24日、信長16歳の時、隣国の美濃国(現在の岐阜県)領主の斉藤道三の娘である、濃姫と結婚

濃姫と言うのは美濃の姫君というザックリとした呼び名で、本名は「帰蝶」と言います。濃姫は信長より1つ下だそうです。

 

■ 天文20年(1551年):信長18歳。父の信秀が死去。家督相続で信長派と弟の信行派に分かれて大揉めしますが、嫡男の信長が相続することになり、ここに織田家当主 織田信長が生まれます。

ちなみに有名な、父親の位牌に焼香をぶち撒けたのもこの時ですね。6年後、弟の信行は清洲城にて暗殺されています。

 

■ 永禄3年(1560年)信長27歳

5月19日、尾張国へ侵攻して来た駿河の大名 今川義元との桶狭間の戦い起こる。実は信長にとってこれが初陣と思われがちですが、実はこの戦いが信長の生涯戦33戦中6番目で、「桶狭間の戦い」です。

「信長公記」などによると、午後1時、幸若舞敦盛のを舞った後湯漬け(米飯に熱めのお湯をかけて食べる、出陣前の武士の習わしの食事)を食べてから熱田神宮にて必勝参拝して、善照寺砦(愛知県名古屋市緑区鳴海町)へ向かってそこで体制を整えて、今川義元を奇襲攻撃。

その日はゲリラ豪雨のようで、信長はその豪雨を利用して奇襲し、今川義元の首を討ち取っています。

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※この桶狭間の戦い・厳島の戦い・河越城の戦いの3つは、「日本三大奇襲」と呼ばれている。

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■ 永禄5年(1562年)信長29歳

今川家支配より独立した、徳川家康と初めて同盟を結ぶ。これを「清洲同盟」と言います。

 

■ 永禄6年(1563年)信長30歳

尾張国小牧山に、信長としては初めて城を築城。小牧山城と呼び、以後暫く美濃を平定するまでの間、ここが本拠地となりました。

 

■永禄10年(1567年)信長34歳

美濃国斉藤道三嫡男の、斉藤龍興と井之口(現在の岐阜市)で戦い、勝利。龍興の居城の稲葉山城(現在の岐阜城の旧名)を手中に収めます。

そしてこの時、本拠地を尾張から京により近いここ、美濃に移すと同時に、地名を「井之口」から「岐阜」へ変更。

この岐阜城は安土城に移るまで信長の本拠地となりました。

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※「天下布武の印判」はこの時に作った事で有名ですが、意味は武力で天下を~なんて意味ではなく、本当は「“七徳の武”と言う為政者の徳を実現する」と言う意味なのです。

※この“七徳の武”と言うのは中国史書からの引用で、①武を用いて暴を禁じ②戦を止め③大を保ち④功を定め⑤民を安じ⑥衆を和し⑦財を豊かにするの七つの徳を実現する」と言う意味だとか。

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(岐阜城天守から臨む岐阜の街並みと長良川)

 

 

《天下平定への道~策略と第一次信長包囲網》

■ 永禄11年(1568年)信長35歳

10月:政情不安定の為、越前朝倉義景の所に身を寄せていた、足利義昭を奉じて、京都に入り15代将軍として擁立する。

これが意味するものは、天下を取ると言う欲望を少しづつ信長が意識し始め、その為の道具として将軍足利義昭を利用しようと決めたところにあります。

だから、翌年永禄12年の1月に早速将軍の権力抑制のために、「殿中御掟」9ヶ条と追加7ヶ条を発令し、足利義昭に有無を言わせず認めさせています。

 

■ 元亀元年(1570年)信長37歳

4月:再三にわたり上洛命令を出しているにも関わらず上洛しない、越前の朝倉義景を討つべく織田・徳川連合軍を結成し、越前へ侵攻する。

これは、妹お市の方の婿である、北近江の浅井長政との約束を破った事に当たります。浅井家と朝倉家は代々同盟関係で仲良かった訳です。だから、長政は義理の兄に当たる信長に“朝倉と戦ったりしない“と言う約束を取り付けていました。でも信長には上洛命令を無視したと言う大義名分があるので、この約束は反故にされました。

長政は信長に対して兵を挙げ、朝倉も反撃して行くうちに、敦賀国(現在の福井県)敦賀の金ヶ崎城で信長連合軍は挟み撃ちされます。

全軍撤退し、信長は命からがら京へ逃げ戻ります。これが「金ヶ崎崩れ」「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる敗退劇です。

これを皮切りに、反信長の気運が高まり第一次信長包囲網が始まります。

 

■〈姉川の戦い〉

(姉川古戦場跡)

同年6月28日、近江国(現在の滋賀県)姉川の河原にて、4月に戦った朝倉義景・浅井長政と織田・徳川連合軍が再度戦います。

両軍共、兵力はほぼ同じでしたが、信長軍の勝利で終わります。

 

■〈第一次石山合戦〉

同年8月26日~9月23日、摂津国(現在の大阪府北中部)の三好氏家臣達~三好三人衆と呼ばれる~と浄土真宗本願寺の石山本願寺が信長に対して兵を挙げます。信長と本願寺勢力の戦いはここから10年間続いて行くことになるのですが、この第一次石山合戦では信長軍は苦戦を強いられ、一旦全軍撤退してます。

 

■〈志賀の陣〉

同年9月26日~12月17日。先の姉川の戦いで負けた、朝倉・浅井軍が信長に対し再度挙兵。近江国志賀(現在の滋賀県大津市旧志賀町域)で行われたのでこう呼びます。

石山合戦で摂津に出向いている信長の隙を突こうとしたが、それを知った信長が転進して近江に来た為、朝倉浅井軍は比叡山へ後退して籠城したため、信長は2ヶ月に渡り比叡山を包囲。浅井朝倉とも降伏の様子も無いので、業を煮やした信長が朝廷と将軍を動かして、講和に持ち込む事に。

そして12月13日正親町天皇の調停で、漸く講和となり、朝倉軍は越前へ帰りこの戦いは終了しましたが、この時朝倉軍を支持して籠城に協力した比叡山はのちになって痛い目に合うことになってしまいます。

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]この元亀元年は信長にとって「悪夢の1年」だったでしょうね。 [/voice]

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《第二次信長包囲網~比叡山の受難と信長の敗北》

元亀2年(1571年)信長38歳

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]この年も反信長勢力に悩まされます。[/voice]

■ 5月:伊勢国(現在の三重県)長島へ五万の兵を以って出陣。目的は長島の一向一揆勢力の一掃だったのですが、この長島の一向一揆衆は非常に強く、合計3回信長は戦っています。しかし勝ったのは最後の3回目のみで、残り2回とも苦戦を強いられ大敗しています。

この1回目の際は、撤退中の殿軍(最後尾の軍勢)までもが襲撃されると言う損害を受けました。信長は信玄と違って良く負けるんです(笑)

 

■ 9月:前年の“志賀の陣”の際に、朝倉軍に味方して籠城を手伝った比叡山に対して信長は、武装解除して中立の立場を取るよう勧めていましたが、全く聞く耳持たずで寧ろ抵抗し続けたので、12日早朝比叡山を包囲し、比叡山延暦寺の根本中堂と大講堂を一斉に焼き払いました。

この時の死者は、僧侶・僧兵・住民など併せて3000~4000人。

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信長の目的は、比叡山の宗教勢力の武装解除と過剰な経済活動中止であり、宗教弾圧ではない事は現代の研究結果でも認められています。

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■ 11月:美濃東部の岩村城が、武田軍の秋山信友に襲撃され信長軍が援軍に着く前に、信長の叔母であり岩村城主のおつやの方は秋山軍に降伏してしまい、後に信長は岩村城奪還及び秋山信友を討ち取り、おつやの方も磔に処してしまいます。

 

■ 12月:徳川軍と信長連合軍、甲斐武田信玄軍との間で「三方ヶ原の戦い」が起こるが、織田軍はここで信玄に大敗。信玄強し!

→ 武田信玄と織田信長……2人の猛者の関係はどうだったのか?

 

■ 元亀4年(1573年)信長40歳

2月:将軍足利義昭が、信長に挙兵。

4月:正親町天皇の調停で一旦和睦。

 

 

《室町幕府滅亡~新しい時代と戦に追われる日々》

■ 7月:前年度に挙兵して一旦は和睦した将軍足利義昭が、再度信長に対して挙兵。二条城に籠城後、山城国(現在の京都府)槙島城にて抵抗を続けるが、信長は攻め続け足利義昭を敗走させる。

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]ここで室町幕府は事実上滅亡となります。[/voice]

 

■ 7月28日:元号を「元亀」から「天正」に改める事を朝廷に話し実現させました。

 

■ 8月8日:3万の兵で北近江の浅井長政居城の小谷城を包囲。

8月13日援軍に来た朝倉義景軍を信長自身が奇襲攻撃して、朝倉領地の越前一乗谷(いちじょうだに)へ敗走した朝倉軍を攻め、朝倉義景は身内の朝倉義鏡(あさくらよしあきら)の裏切りにより自害。

一連の戦いを「一乗谷の戦い」と言います。

 

■ 8月28日~9月1日:越前から戻り、再度小谷城攻めを開始。浅井長政を始めとする浅井家は自害。信長の妹で浅井長政の正室だったお市の方とその3人の姉妹は救出され保護される事に。

この戦いを「小谷城の戦い」と言います。

 

■ 9月24日:伊勢国長島の一向一揆勢力を再度攻めるが、またしても敗退。

 

■ 12月26日:家臣の松永久秀が足利義昭に味方して、信長に反旗を翻すが、信長が徹底抗戦したため降伏。多聞城を明け渡す。この城は日本城郭史上初の「櫓」が使われていて、天守閣は信長の安土城より早いと思われる。現在は城跡はない。

 

天正2年(1574年)信長41歳

■ 7月~9月:3度目の伊勢長島一向一揆勢力制圧に。

今回は一揆衆の立て籠もった城に柵を巡らし包囲して火を放ち焼討ちにすること、長島一向一揆衆2万人を全滅させました。

が、信長の異母兄の信広や、弟の秀成など織田一族の犠牲者も出しながらの勝利となりました。ちょっと後味は悪いですね。

 

天正3年(1575年)信長42歳

■ 4月:再度、石山本願寺との争い勃発。しかしその後本願寺と一時的に和睦する。

 

■ 5月17日:徳川家康家臣となった、奥平貞昌の長篠城を甲斐の武田勝頼が攻めて来たため、3万の軍勢を率いて織田・徳川連合軍は三河の設楽原へ。甲斐の武田勝頼との「長篠の戦い」が始まる。

ここで、信長たちは勝頼に大勝します。父の信玄には勝てませんでしたが‥この大敗をきっかけに、武田軍は弱体化し滅亡の道を辿っていきます。

 

■ 11月7日:信長は朝廷より「権大納言」に任じられ、「右近衛大将」と兼任する事になる。これは武家の棟梁のみに許されていた特権で、ここで初めて信長は、そのしきたりを壊して新しい世の中に変えていくことを感じたと思います。

 

■ 11月28日:嫡男の信忠に家督を譲り、尾張・美濃の織田直轄地全てを譲っています。隠居という事になりますが、実際にはまだ信長は健在だし、実行権も持っていました。

 

天正4年(1576年)

■ 2月:安土城、完成。美濃の岐阜城よりこちらに移る。

 

 

《第三次信長包囲網と中国地方進出》

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"] 更なる、反信長勢力にまたもや戦いに明け暮れる信長です。 [/voice]

天正4年(1576年)信長43歳

■ 4月:石山本願寺再挙兵で、天王寺周辺で戦います。

 

■ 7月13日:石山本願寺援軍の毛利軍水軍に、織田軍はひどくやられます。この戦いを「第一次木津川口の戦い」といいます。

 

天正5年(1577年)信長44歳

■ 2月:紀州(現在の和歌山県周辺)の雑賀衆征伐に向かい、これを平定。

※雑賀衆(さいがしゅう)とは、鉄砲傭兵や地侍の集団で紀伊国北西部に見られます。

 

■ 10月:家臣の松永久秀が2度目の謀反を起こし、信長は嫡男信忠を総大将として、久秀の居城である大和国(現在の奈良県)信貴山にある信貴山城を攻めます。

信長は、久秀の持つ茶の湯の名器「平蜘蛛釜」を差し出せば許すと条件を出しましたが、久秀は徹底抗戦して父子で切腹自害して果てました‥

※この事件は、久秀が平蜘蛛釜を抱いて爆死したなど良く言われますが、あれは全くの創作です。

 

■ 11月20日:信長、正親町天皇より、“従二位・右大臣”の昇格を貰い、更に翌年1月、“正二位“までも昇進しています。

そしてこの年、羽柴秀吉を中国地方征伐へ出兵させ、明智光秀を丹波地方征伐に出しています。信長の勢力拡大は止まるところ知らずのように思えていました。

 

天正6年(1578年)信長45歳

■ 11月6日:先に大敗した毛利水軍に対し、九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を用いて見事に撃破します。これを「第二次木津川口の戦い」と言います。

 

 

《天守閣完成~京都馬揃え~本能寺の変》

ここからは、一気に見ていきましょう。

天正9年(1581年)信長48歳

■ 2月28日:朝廷の要請により、京都御所周辺にて馬揃えを行います。この馬揃え、軍馬を集めてその威力を誇示するために行いました。

 

■ 3月5日:再度名馬500騎を以って、馬揃えを行いました。これは朝廷の要請ではなく、信長自らの意思でやったようです。

 

■ 8月:高野山が信長の元家臣で謀反の疑いからその身を追われていた、荒木村重の浪人を匿ったと言う罪で、信長は“高野聖(こうやひじり)“と言う、高野山に本拠を置く遊行の僧侶数百人を処刑しました。

 

天正10年(1582年)信長49歳

■ 2月~3月:甲斐の武田攻めのため、嫡男信忠を出陣させています。

最後は、信長家臣の滝川一益が甲州の天目山にて武田勝頼父子を追い詰め自害させ、こうして甲斐源氏嫡流の武田家は滅亡します。

「甲州征伐と天目山の戦い」と呼ばれます。

 

■ 4月:安土からはるばる甲斐に向かってやって来た信長は、来る途中の台ヶ原と言うところで、生まれて初めて富士山を見たと言われています。不思議ですね。山梨は信長のいる岐阜や愛知からそれほど遠くないのに。やはり、武田信玄が居た頃は近付く事を避けていたのでしょう。

 

■ 5月:備中高松城攻めをしている羽柴秀吉から援軍要請があったので、信長は明智光秀に中国出兵を命じています。

 

■ 同月29日:信長自身も中国出兵準備のため、京へ入り本能寺に泊まります。

本拠地は安土ですが、当時の本能寺は信長が京へ来た時の常宿していたところで、中には火薬や爆薬などの戦道具を貯蔵していてとても大きな要塞化された寺でした。

また、兵も身の回りの小姓や近衆などだけと言うとても少ない人数で、10数人だったと言う事ですが、信忠は妙覚寺に数千の兵を以って泊まっていたので、身の回りを案ずる事は無かったと思われます。

 

■ 6月2日早朝:明智光秀率いる大軍に襲撃され、信長自身も槍や薙刀を以って奮戦しますが、防ぎきれず銃弾を受けた後、本能寺の奥深くまで下がり、そこで自刃します。享年49歳。

→ 明智光秀と織田信長は不仲?本能寺の変はなぜ起きたのだろう?

 

 

信長の歴史からみる生き様

大好きだった「敦盛」の一節、“人間50年 下天の内を比ぶれば”の言葉の通り、あっという間の一生だったと感じていたのではないでしょうか。

ただ、信長の偉業は数々あり、その中でも「楽市楽座」や「関税撤廃」「関所の廃止」は、それまでの封建的な社会を打ち壊し新しい世界を打ち立てました。それが民衆及び社会の活性化に繋がり、引いては今日に繋がる民主的な社会の礎になったと思います。

「神になりたかった男」と信長は言われます。

それは、神となって人間を支配する西洋的なものではなく、神となって人間たちの行く道を照らしていきたい。そんな願いだったのではないでしょうか。

事実、信長の夢は「戦のない世の中にする事」でした。自分が全てを投げ打って戦い、そして全ての戦の種を摘み取るまでは歩みを止める事はしないと決めたのでしょう。

信長は、残忍でもなく非道でもなく、きちんと血の通った志高い武士でした。彼がいたお陰で、その先の行き先が良いものへと変わって行ったのは言うまでも有りません。

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