「鳴かぬなら殺してしまえ ホトトギス」の俳句で有名な織田信長。
性格を現していると言われていますね。でもどうなんでしょ。ほんとにこんな暴君ネロ的な性格だったのでしょうか?とても気になりますよね。あれだけ歴史に名を残していると言っても私たちと何ら変わりない人間の1人なので、長所も短所も有ったでしょう。
で、信長って本当はどんな性格なの??とっても気になるので調べてみました!
あなたの思っている信長像はどんな信長ですか?史実に則りながら、見ていきましょう。
信長くんの解剖、始まりまーす。
《目次》
・信長は田舎の成金ボンボン⁈
・信長の戦い方から見る性格
・株式会社 織田カンパニーの社長として
・信長は短気なのか⁈その真実は‥
・信長はとっても弱い!でもとっても優しい
・失敗だらけ・欠点も多かったけど‥
〜信長は田舎の成金ボンボン⁈〜
信長くんは尾張国(現在の愛知県)の生まれです。
こんな事は知っているわーい!と言わずに読んでください(笑)。
現在の愛知県名古屋市は政令指定都市でもあり、のぞみも止まるまぁ大きな都市では有りますが、信長くんの生まれたところは、名古屋市の西にある「愛西市」の「勝幡城(しょばたじょう)」と言うところです。
名古屋城でもないし、清洲会議の清洲城でも有りません。どちらかと言うと、田舎なところです。
彼が「尾張の大うつけ」と呼ばれていた事は、聞いたことがある人も多いかもですね。
「うつけ」と言うのは“常識に外れた事をする”と言う様な意味ですから。そこに大がつくと、比較級の中の最上級。
信長の側近くに仕えた家臣の太田牛一が書いた「信長公記(しんちょうこうき)」に信長くんの日常姿が描かれてます。
《信長公記に見る信長くん像には深い訳が!》
「帷子の袖をはずして半袴を履き、火打石の入った袋や色々なものを腰にぶらさげて髪は紅や萌黄の糸で巻き立てて茶筅髷(ちゃせんまげ=茶せんの形に似せた髪の結い方)に結い、朱色の鞘の太刀を指していました。街中を人目もはばからずに栗や柿、瓜などにかぶりついて食べながら歩き、立ちながら餅をほおばり」と有ります。
分かりやすく言うと風呂衣を普段着にして不良仲間と練り歩き、品のない立ち食いしたり、挙げ句の果てには父 織田信秀が仕えている守護代の織田大和守の家に放火しちゃったりしてます‥
太田牛一は基本的に信長くんの都合の悪い事は書かない主義ですが、その太田牛一がわざわざ書くくらいですから相当なものだったのでしょう(笑)
要するに今風に言えば、田舎のちょっとしたお金持ちの三代目であり、ボンボンのヤンキーだったと言うわけです。でもこの時一緒につるんでいたヤンキー仲間は、実は後々「御馬廻衆」と呼ばれる親衛隊になっていきます。池田恒興・前田利家・毛利新介・服部小平太という面々ですね。毛利と服部は桶狭間の戦いで今川義元の首級を挙げた事で一生遊んで暮らせるだけの恩給を貰ったのでその後は歴史には名前は出ませんが(笑)
ただこの大うつけになって街を練り歩いていたのも理由があったようで1つは「一般民衆の気持ちや生活ぶりを知る」事ともう1つは先に書いた「親衛隊」作りだった様です。
ヤンキーだけど本当はめちゃ賢いって子居ませんでしたか⁈
要はそんな若者が信長くんだったんです。
信長の戦い方から見る性格
信長くんは、意外と思われるかも知れませんが実は戦に関しては「基本に忠実」な性格でした。
そして緻密で慎重な戦をしています。
信長くんのモットーは「弱いヤツから徹底的に潰す、そして進撃速度を速く」です。
史実に沿って見てみると、まず本拠地岐阜城から大津に出て、兵を琵琶湖の船で運びます。運び先は京都です。そこで挙兵して居た足利義昭をぶっ飛ばします。
それから福井県に移動して、言う事を聞かないグダグダな朝倉義景をもぶっ飛ばします。
最後にまた滋賀県に戻って、朝倉義景同様言う事を聞かなくなった浅井長政も一気に叩き潰します。
普通なら近い所から先にぶっ飛ばした方がコスパ良いのでは?と思うんですが、信長くんはその辺は考えてません。コスパ悪く見えても勝てる所から確実に潰して実績上げしてます。
これは試験などでよく言われる“簡単な問題から先にやれ!”と同じ考え方で、時間の掛かりそうな問題(相手)はとりあえず置いといてってやつ。信長くんはずっとこのセオリー通りにやってきています。
《戦いません!弱くなるまでは⁈》
これは、対武田信玄や対上杉謙信にもあらわれていて、どんなに相手に挑発されても決して彼らとは直接対決はしてません。
ひたすら回避する姿勢を貫いて居ます。
難しい難問は最後の最後に取っておいた方が時間の無駄になりません。そう言う事を信長くんは知って居たのです。
「謙信か〜。絶対無理!負けるに決まってるから関わらないでおこっと」とか。
信玄に対しては養女を送って「敵対する気なんかないです!」と尻尾ふってみせます(笑)
結果的に信玄亡き後、武田家はぶっ潰されますが好機が来たら逃さず、今は無理そうなら手は出さないと言う徹底した戦への考えがあったので、登りつめて来れました。
謙信との手取川の戦いは、柴田勝家を総大将としてますが、信長くん自身の被害ではないからまぁいいかって感じの様です。実際、この手取川で大敗した勝家に関しては何ら御咎め無しですから。
世間的には信長くんは「圧倒的武力で徹底的制圧していった」と言うイメージがついて回っているみたいですが、史実を追って見てみると全く正反対でむしろ基本に忠実な人でした。
〜株式会社 織田カンパニーの社長として〜
ハッキリ言うならば、信長くんはカリスマかも知れませんが、天才では有りません。
信長くんが尾張の大うつけながら、あそこまで登って行けたのは、前述した通り徹底した努力と工夫・すばやい行動力が有ったから最終的に「カリスマ」と呼ばれる様になりました。
では、信長くんは自社−織田カンパニーをどの様に経営し、まとめ上げたのでしょうか。
信長くんは、「人間とは、本質的に働くのが嫌いな生き物だ」と言う事を知っていました。
ウンウン、確かにそりゃそうだ。わたしなんか今、いきなり宝クジで億単位のお金が転がり込んで来たら、すぐに長野県へ移住して毎日南アルプスを眺めながら鳥のさえずりで起きて、日が暮れたら眠る生活へ移行しますね(笑)南の島や海外へ移住なんて人もいるのではないでしょうか。
そう!人間の本質は今も昔も変わらず「出来れば毎日お気楽に好きなことだけして過ごしたい」訳ね。
なので、信長くんは部下たちが“最低限の働き”しかしなくっても決して罰したり、リストラしたりしてません。
その代わり、自分が寝ずに働いて経営資金やみんなのお給料の元になるお金を稼いで来ます。
金策にいつも苦心していた事も、信長公記には書いてあります。
結論から言うと、信長くんは常に自分が先頭に立って、末端の兵士たちと一緒に泥まみれになりながら仕事をしていた という事です。接待に明け暮れる世のボンクラ経営陣や政治家には耳が痛いかもね。
《ヤル気スイッチを入れろ!》
そして信長くんは、今流行りの「個別指導」でした。
その点で、かの吉田松陰と信長くんの共通点は、「人を塊で見ずに一人一人と向き合う」です。
吉田松陰の松下村塾も、信長くんの織田カンパニーも人の集まりですが、一人一人に彼らは向き合い、その一人一人の個性を発揮できる様に心を砕いています。
だからこそ、「佐久間信盛宛織田信長折檻状」と言う、個人宛の書状が残っていたりします。
信長くんは、「成果が出せる様なノルマ」を部下それぞれに与えて、それでカンパニー全体としての成果を生み出していました。
そして面白いのが、そのノルマと言うのは「働かない人間を基準」に作ったノルマなので(笑)、非常にノルマとしては緩いです。
例えばですね、100人兵隊が必要だよと言う時、信長くんは10人の武将たちに各々10人ずつ人を集めて来てねと言うノルマを与えます。
そこからが信長くんの面白い所なんですが、借金したけど1人で50人・100人集めたっす!とか言う人は驚く程、どんどん出世させます。かと言って、やっぱ10人しか集められなかったっす‥と言う人に対しても別に怒ったりなんかしません。それで十分だよってヨシヨシします。
けど、9人しか集められなかった人には、ものすごくキツく怒ります。ノルマ達成を厳しく求めます。
このノルマ達成できない人への叱責が厳しいのでは⁈と言うイメージがあるから、信長くんは怖い人認定されてるみたいですけどね。でも、このノルマと言うのは「働かない人基準」なので基本的には誰でも普通に出来る物ばかりだった様です。
だからこそこのユルユルなノルマすら達成出来なくてどうするんや!やるなら今でしょ⁈って信長くん怒ったり怒らなかったり(笑)
《社長自ら、右往左往⁈》
その証拠に羽柴秀吉は農民の息子なのに・滝川一益も忍者みたいで得体知れないのに・明智光秀に至っては名門の出らしいがあやふやな過去多すぎ!と言う、出自にも関わらず良く働いた人はどんどん出世出来たわけです。織田五大武将の内、この3人の履歴書はもう中国人並みに怪しいですよ(笑)
それが、お隣の三河国徳川家康くんの所になると正反対。三河武士団と言われていて、縁故無き者は入れません。みんな三河出身の人で固めていました。
織田カンパニー経営者の信長くんは、基本的には商人です。
織田家は尾張津島港の海運事業などの利を得て大きく成長していました。だからそれを見て育った信長くんは、見た目は怖かったかも⁈ですが部下の為に自分が寝ずに働いて金を持ってくる。
中途採用社員でもいいから沢山養い、その為に自転車操業でもなんでも良いからとにかく領土を奪って、獲られたらさらにまた獲りに行く。ノルマをキツくすると働かなくなるからノルマを緩く、社員は多く。
子会社が3個潰れても、新しく6個新会社を立ち上げられたら大成功!ってなノリです。
前述の家康くんの会社は三河武士団で固めていると書きました。
いつ滅びるか分からない精神状態最悪の状況で働いてますから、みんな必死です。胃潰瘍なって当然の職場です。脱落したら2度と上がれません。
三河武士団はしぶとい武将のみが生き残っていますが、それが理由です。
〜信長は短気なのか⁈その真実は‥〜
冒頭の俳句では、1番短気なのは信長くん認定になってます。
そう思っている人も多いでしょう。
結論から言いますと。信長くんは短気なんかでは有りません。
ここに信長くんから、同盟国の徳川家康くんに送った書状があります。
これは、元亀3年の三方ヶ原の戦いに際してのものです。
内容はこうです。
「お前(家康くんに対してです)は短気だから先に注意しておくぞ。
城からは絶対に出るな!何があっても出るな!絶対に無謀なことはするな!」。短気なのは実は家康くんの方だったんです。
信長くんは、信玄の挑発に乗って無謀な戦いなどしてはならん!と先に注意しているのです。
それだけ、家康くんの短気っぷりは見事だったのでしょう。
信長くんの戦い方でも書きましたが、信長くんは基本に忠実な戦い方をする慎重な姿勢の武将です。
武田信玄とまともにやりあって勝てる訳はないと知っていました。
余談ですが、この信玄とまともに渡り合えたのは北条氏と、上杉謙信くらいなもんです。
北条氏康においては、静岡県の現在は東名高速道路由比パーキングエリアに隣接する薩埵トンネル上、薩埵峠の戦いで信玄をぶちかましてます。信玄は大敗です。謙信も引き分けが殆どですが負けてはいません。信玄と謙信クラスになると超常現象でも起きない限り勝てないっ!と信長くんは普通に理解していたので、避けまくり。
でもでも、短気な家康くんは信長くんにあれだけ忠告されていたにも関わらず飛び出して行っちゃいます。
信長くんも、援軍は送っていました。でも無理無理。
ここで「折檻状」を書かれた佐久間信盛くんは早々に逃げ出しています。同僚が討死してるにも関わらず。
その時の事を折檻状では怒っているのです(他にもまだあるけど)。
家康くんは命からがら浜松城まで帰りますが、これが家康くんの初めての大敗だったようです。
短気は損気と言う言葉がありますが、まさにこの様な事を言うのでしょうね。
《それでもやっぱり怒る時も‥》
もう一つ、信長くんが短気ではなかったエピソードを。
先程からちょいちょい登場する、「天正八年八月十二日佐久間信盛宛織田信長折檻状」の受取主である、佐久間信盛くんに対しての信長くんの対応です。
佐久間信盛くんと言う人は、先代からの重臣−つまり父である信秀に仕えていた重役だった訳です。
この折檻状の現代語訳は、ウィキペディアにもあるので興味ある方はご覧になると良いかと思います。
かなり信長くんはこの折檻状の中では怒り爆発させてます(笑)。
お前がケチだと言うことは、唐・高麗・南蛮でも有名だ!とか八つ当たり気味です(笑)佐久間信盛のケチが唐や高麗、はたまたポルトガルまで名を馳せていたとは思えないのですが、それまでの余りの働かなさに堪忍袋の尾が切れたのでしょうね、
でも、こんな佐久間信盛くんに対しても信長くんは即刻リストラや切腹などを求めていません。
2つの選択肢を与えています。高野山へ頭を丸めて出てくか、戦って手柄を立てるかどちらかです。
佐久間信盛くんは、信長くんには30年間仕えてきています。
でも結構働かない方です(笑)
刀根坂の戦いの時などは、信長くんに口ごたえして怒らせたりしてます。本願寺との戦いの時も5年間ただ包囲してるだけで何もしてません(笑)それでも信長くんはギリギリまで〜この折檻状まで〜、黙って見ていました。三河武士団だったら即刻クビでしょうね。
短気な性格なら、30年間も置いておかないでしょう。
繰り返しますが、信長くんは短気なんかでは有りませんでした。
〜信長はとっても弱い!でもとっても優しい〜
信長くんを強いと思っている方も多いでしょう。戦国BASARAでも驚異的に強いキャラになってます。
でも実は泣きたくなるほど弱くて、戦は下手でした(涙)
ここにこんなデータがあります。
・武田信玄:50勝2敗
・上杉謙信:70勝0敗
・織田信長:130勝30敗
勝率で言えば信長くんの130勝はすごいけど、30敗もすごい(笑)。とにかく自分が寝ずに働く人ですから、必然的に戦いは多くなりますね。そして信長くん史上大きな戦いは33個の戦いが有りますから、これ以外に100近くの戦闘があった訳です。
織田カンパニーは自転車操業ですからとにかく忙しいです。
ですから戦国時代最強武将と言うのは、実際のところは信玄と謙信だった訳です。信長くんの名前は有りません(笑)
では何故弱かったのに名を馳せていたのか。
信長くんは幼い頃から賢かったんです。自分の軍が弱い事なんて当然知ってた。だから自分が戦って勝てないと言う相手には絶対戦いは仕掛けなかった。むしろ“そっちに行かないから、こっちにも入ってこないでね”という感じで、お願い態勢を貫いていました。
でも弱い相手と分かれば一気に攻め入ります。その辺りの判断の仕方が上手かったと言うのがホントのところ。
まぁたまに判断ミスとかしてましたね(笑)長島一向一揆攻めは二回負けてますから。
自分の力量を十分知った上で、強い武将たちとどうやってその差を埋めようかとなった時に、信長くんはとにかく努力と根性で戦い続け学びます。それが兵の数です。
信長くんの兵は(武将は除く)、殆どお金で雇った傭兵軍団です。お金目当てですから弱い。でもその弱っちい傭兵達でも数多くなれば話しは別です。とにかく力はなくても数なら負けないよ!て感じで集める事に心を砕いています。
そして負ける度に研究して学習します。だから最盛期の頃は信長軍団は、傭兵達はとても長い槍を持って戦場で暴れまわっています。
勝てばお金が貰えるので頑張ります。勝ち続ければお金の心配は無用です。信長くんは弱いけど、弱い兵を以ってして生きていくための術にかけては素晴らしかった。だからこそカリスマがあったのです。
《比叡山焼き討ちは残虐なんかじゃなかった!》
信長嫌いな人がまず口を揃えて言うのは、「信長は残虐で殺戮者だから嫌い」です。
信長くんの名誉の為にひと言言わせて頂くと、彼は残虐でもなければ、殺戮者でも有りません。
多分に、その原因は「比叡山焼き討ち」と「長島一向一揆門徒殺戮」にあるでしょうけど。
まず、信長くんは理由の無い殺生や快楽目的の殺人や拷問は決してしていません。
比叡山焼き討ちに関して言えば、あれは比叡山が元凶なのです。
信長くんは宗教に関して弾圧などしていません。むしろ自身は熱烈な神道家だったくらいです。仏教も保護してますしキリスト教も認めましたね。では何故比叡山が標的にされたのか。
それは比叡山が偉そうに宗教の名を使って私利私欲は欲しいまま。そして中立せよと言われているのに、朝倉義景を庇って匿ったりする。要は「政治に寺社連中が口出しして来るんじゃない!(怒)」と言う事なんです。非武装中立と言いながら、思いっきり武装して女子供という“非戦闘員”を盾にして信長くんの敵に味方をしたからなのですよ。
長島一向一揆門徒の場合も同じく。
要は政教分離が望ましいと考えていた信長くんの言う事を聞かずに、本業を疎かにして武装したりするのが許せなかった。
ここに1つのエピソードがあります。
「信長の一銭斬り」と言うものです。
信長軍は、初めて足利義昭を奉じて京に入ります。
その際信長くんは全軍に、「一銭たりとも盗むな。婦女子に話しかけるな」と厳しく言い渡しています。しかし、1人の兵士が今の通貨単位で100円くらいのお金を盗み、もう1人は婦女子の笠をめくると言ういたずらをしちゃいました。そこで信長くんは即刻その2人の首を自ら斬り落として、改めて全軍にそれを見せます。
その意味は「やるなって言ったよね⁈」です。やったやつはこうなるです。信長軍はこの行為のおかげで軍紀正しい軍として知られて、京で信用されるようになりました。何の為に?
田舎者の信長くん達が、当時の都〜京で認めてもらえる為には、まず信用を築かないといけないからね。それは大成功だった事は言うまでもないですが、この行為だけ見て信長は残虐だと思う人は歴史を語る資格はありません。
《優しい信長くん》
信長くんは無意味な殺生はしていないどころか、外国人にも優しかった史実が残っています。
信長くんは、宣教師の奴隷だった黒人を譲り受けてます。
名前は「弥助」。彼の事を大変気に入った信長くんは家臣にまでしています。
弥助は本能寺の変時の時も側にいましたが、危険になった時女性達と共に逃がしています。「お前は日本人ではないので逃げろ」と。
弥助は色々な戦いにも参加していますが、甲州征伐の際に徳川領を通過する信長軍の弥助を見た、徳川家臣の松平家忠が「家忠日記」の中で“彼は奴隷などではなく、1人の武士の様であった」とはっきり書いています。
人種的なものにも何の偏見も持たず重用していたエピソードです。
また近江から岐阜城へ帰還の途上の関ヶ原山中と言う地域に「山中の猿」と呼ばれていた身体の不自由な男性が、乞食となって物乞いをしていたのを度々見ていた信長くんは、天正3年6月京へ向かう途中、山中の人間を集めて木綿20反を山中の猿に与えて、その上で「これを金に換えてこの者に小屋を建ててやる様に。この者が飢えたりしないように毎年麦や米を分け与えてやってくれれば自分はとても嬉しいから」と、お願いしています。
信長くんは、名も知らぬ庶民にも優しかったのですね。
「信長公記」には彼が身分分け隔てなく付き合ったり、一緒に踊ったりなどの様子がよく書かれています。
戦国時代の常識と現代の常識にはかなりの違いがあるので、信長くんの1つの行動だけ取って「残虐だ」とか言うのは無理があります。経営者ですから多少は厳しいのも仕方ないでしょう。
ただ、イメージとして持たれている多くの「残虐非道」などは一部分だけ切り取って見て言っているに過ぎないので、史実に忠実に見て行くと信長くんはとても人間臭い武将だって分かると思いますよ。
〜失敗だらけ・欠点も多いけど〜
一般的によく言われるのが、信長くんは気まぐれだとか他人に厳しすぎるとか、執念深いとかマイナスイメージも多いのが信長くんです。
でもこれらの一部は確かかもしれませんが、人間誰しも欠点なんて一つや二つあるもんです。
じゃあ、父親である武田信虎を有無を言わせず駿河に追放した武田信玄の行為は?あれって親を見殺しにするようなもんですよ。それだって十分糾弾されるべきですけどね。
信長くんは失敗だらけです。良く手痛い仕打ちにもあってます。裏切りとか謀反とか。
弟の反逆、異母兄の裏切り、松永久秀・荒木村重からの裏切り‥数えたらきりがありません。
金ヶ崎城の戦いでも失敗して命からがら逃げてます。それでもついてくる家臣達は居たし、彼は自分から盟約を結んだらそれを破る事は決してしませんでしたよ。
正義感が強すぎちゃったかもしれません。それが裏返しになると厳罰や処刑になる。
でも戦国時代なんてこんなもんです。現代の常識スケールで見て、あーだこーだ言う方が間違ってるんです。
《人を信じやすい信長くん》
信長くんの欠点は「人を信じやすい事」。それは浅井長政攻めの小谷城の戦いのあとに現れてますが。
言っておきますが、信長くんが朝倉義景・浅井長政・久政の頭蓋骨を盃にしてお酒飲んだと言うのは、後世の創作です(笑)
ただ、浅井長政の離反を最後まで信じなかったのは事実です。
「信長公記」には、浅井長政が寝返ったと知らせても「長政は縁者だ(妹のお市の方をお嫁に出しているので)。そして北近江全てを任せているので不足もあるはずないから、そんなのただのデマでしょ」と全く信じなかったと書いてあります。
信長くんは、それ以降人を信じる事に臆病になり猜疑心強い人物になったのではないかと言われています。
要するに、性根はボンボンですから余り人を疑う事なんかなかった。
松永久秀にしても、2回は謀反起こされてるけどその度に許してます(笑)
人が良すぎる。異母兄の信広の謀反も結局は許してます。
殺されたのは、殺意確定で信長くんを狙い続けてた弟の信行ですね。その違いはよくわかりませんが、当時はそんな事ザラにあったんじゃないですか?
失敗が沢山あったけどその度に学習して乗り越えて来たからこそ、歴史に名を残す大きな武将になったのだと思っています。
良く言えば型破り。悪く言えば分不相応(笑)。
でも、熱烈神道家の信長くんは120年途絶えていた伊勢神宮の式年遷宮を復活させたり、神主に神社の作法を教えてたりもしてます。
《信長くんは、3Kではない(笑)》
ただちょっと、猜疑心が強過ぎて晩年には家臣の謀反が続いたり、かなり前の戦の事に関して言及したりと執念深く忘れないと言う、「ネガティブな一面」も有るのは事実です。
本能寺の変も、明智光秀の信長くんへの恨みが原因とか言われていますが、それも事実無根の様です。
単なる突発的な出来事と言うのが1番有力な説です。光秀も67歳という高齢でしたからね。
先を苦にしたのだろうと。でも心の中なんて誰にもわかりません。
大体、肝心なところ信用のおける資料が無いのですから。
別にそれはいいんじゃないですかね。突然の裏切りなんて今でもよくある事です。
信長くんは頑張って頑張ってここまでやって来ました。
尾張の田舎侍が、天下(畿内を指します。全国なんて意味ではないです)布武までほぼ目前まで来れたのも、みんな努力の賜物です。欠点くらい誰だってあります。
余談ですが、若い頃の信長の家臣であった、平手政秀が信長くんの余りの「おおうつけ」ぶりを嘆いて自害した時、信長くんは大いに嘆き悲しみ大声で泣き叫んだそうです。
そして、僧である沢彦(たくげんー岐阜城や天下布武を信長くんに提案した、偉いお坊さま)に「政秀寺」を建立する様命じています。多分、信長くんにとって平手政秀は「爺や」的存在だったんでしょう。
信長くんは、欠点もあるけど普通に人間の血も通ってます。
どうしても、欠点イメージの方ばかりが一人歩きしちゃって、怖い・キツい・厳しいの3k扱いになってしまうのが残念です。
まとめ〜織田信長の性格〜
- お金持ちの三代目でありながら、ヤンキー息子。でも結構賢かった。
- 戦いにおいては、基本に忠実なセオリー通りな戦い方をしていた。
- 家臣を沢山抱えながら、自分が寝ずに働いて一人一人に向き合う経営者だった。
- 信長くんは短気などではなく、むしろ短気だったのは家康くんだった。
- 戦には弱かったが数を集めて対抗していた。
- 宗教弾圧などはせず、政教分離を唱え、その約束を守らない者に対してはきっちりと対処していた。
- 意味の無い殺生や殺戮などはしておらず、一つ一つに史実に則った理由がある。
- 庶民・外人など分け隔てなく向き合っていた優しい心の持ち主だった。
- 人を信じやすい性格だったので、度々痛い思いもしたが基本的には器は広い人間だった。
これまで信長くんは、明治時代辺りまでは本当に人気のない武将でした。
だって頓死してますからね。みっともないねってな感じで。
でも昭和に入り戦後は一気にその評価が高まりました。相変わらず賛否両論ありますが、それもこれも信長くんが放つ魅力のせいではないでしょうか。
人間臭さって、歴史上の人物からは中々感じ取れないのに信長くんはなんだかいつもバタバタして、失敗して、でも立ち上がって最期もやっぱり劇的でした。
彼はスターダムにのし上がっていける星のもとに生まれたんでしょうね。
この記事が、信長くんをもっと理解できる手助けになれたら幸いです。