安土桃山時代

織田信長の死因は何だったのか? 遺体は見つかっていない?

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日本史の中で、「鳴くよウグイス平安京(794年)」と共に、語呂合わせで覚えた方も多いかと思われるのが織田信長が明智光秀に討たれた、「イチゴパンツ(1582年)」の本能寺の変。

では、この時の織田信長の死因や遺体の在処ってどうなったんでしょうか。織田信長が今も魅力を放って止まないのは、彼の人生もさる事ながら、むしろこの最期のシーンだったと言っても過言ではない位です。これ、本当に日本史上未だにミステリーなのですが、実は色々な説が有ります。

織田信長の死因や遺体がどうなったのかを追ってみようと思います。

 

《目次》

・何で織田信長は死んだのか?

・二つ考えられる死因

・今なお揺れる織田信長の死の真相と遺体

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織田信長の死因は?

歴史上、とてつもなく名を馳せた人物は?と聞くと、まず10人中8人位は名を挙げるのが「織田信長」。

他にも、武田信玄や上杉謙信、楠木正成、源頼朝、徳川家康、豊臣秀吉など人によって違うかも知れませんが、織田信長の名前を知りませんと言う人はまず小さな子以外では居ないでしょう。

それだけ織田信長(以下、信長くんとします)の名を知らない人はいません。

そして、彼が命を落とした人生最期の戦い−本能寺の変−も未だ謎めいた事件として名を知られています。

そうですね、現代で言えば迷宮入り事件とでも言いましょうか。

では何故この信長くんの死因が「迷宮入り」なのか。

 

〜信長殺人事件としての本能寺の変〜

本能寺の変の主犯は「明智光秀」54歳(1528年生説の場合)。

出身は現在の岐阜県可児市の明智城で生まれたとされ、家柄は清和源氏の流れを汲む土岐氏一族と言われています。

信長くんに仕える様になる前は、越前一乗谷の朝倉義景を頼ってそこで10年仕えてたみたいですが、謎です。

永禄11年(1569年)の信長くん初上洛の際の「信長公記」に初めてその名前が登場するので、信長くんに仕えるようになったのは、結構中年になってからの40代だと思われます。

但し、朝倉義景に仕えるようになった事もそれまでも、経歴が非常に怪しいのでどこで何やってたのか殆ど記録がない状態。

ホント、この光秀と言う人は「蝮の道三」と呼ばれた美濃の斎藤道三並に履歴書は怪しいです(笑)

その明智光秀が自軍の兵約1万3千を率いて、1582年6月2日早朝、京都本能寺に宿泊していた、主君織田信長を急襲。

信長くんは自害。享年49歳。

ついでに近くの妙覚寺にいた信長くん嫡男の信忠も自害。

享年26歳。

ここまで見るとただの良くある家臣による謀反事件です。

問題は、信長くんの死に様が未だに確定されない事や、遺体が見つかっていない事などがミステリーの元になっています。

 

 

《2つ考えられる死因》

信長くんの死因は2つ考えられています。

1つは切腹による自害、そして火を放った御殿内での焼死です。

そのどちらも正しいと現代の歴史学会では定説になっています。

 

〜フロイス日本史に見る本能寺の変〜

まずここで最初に、信長くんに信任を得ていた、ポルトガルから来たカトリック司祭であり宣教師でもあった、ルイス・フロイスの記した「フロイス日本史」の一部を紹介します。

「本能寺の変の時、手と顔を洗い終え手拭いで身体を拭いていた信長に明智の兵士が、その背中に矢を放った。

すると信長はその矢を引き抜いて、鎌のような形をした長槍(薙刀か)を手にして出てきてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると自らの部屋に入り戸を閉じ、そこで切腹。

その際信長は放火したので生きながら焼死したが、火事が大きくどのようにして死んだかは正確には分からない。

毛髪も骨も全て灰になって彼のものとしては地上に何も残存しなかった。」(フロイス日本史 日本語訳抜粋より)

 

〜「信長公記」に見る本能寺の変〜

次に太田牛一の書いた「信長公記」に見る本能寺の変の下りです。

「(省略)信長は小姓たちに囲まれ朝の支度をしていた。

外が騒がしい。“はて、これは?誰かは知らぬが下々の者が喧嘩を始めたのだろう”

そう思ったが騒ぎは収まるどころではなく、ますます激しくなる一方だった。しかも鉄砲を撃ちかける音が交じり始めた。

驚いた信長が、“この騒ぎは謀反か?一体誰が企てた!城之介か(嫡男信忠の事)”と叫ぶと、様子を見に出た森蘭丸が急ぎ戻り、「明智の手の者と見えます」血相を変えて驚くべき報告をした。

それを聞くや「是非に及ばず」信長は声を振り絞った。

ついで急ぎ家来たちを集めた。そして雲霞のごとく押し寄せる敵勢を自らの手で防ぐのであった。

明智ほどの男が起こした謀反である以上、もはや逃げ切れる術はないと思い切ったのである。

初めは弓もて戦っていた信長だったが、弦が切れるや得物を槍に持ち替えてなお戦い続けた。だが、衆寡敵せず、敵が繰り出す鑓が肘を傷つけるに及び、万事ここに休したと悟ったのである。

信長はまず女たちを逃した。ついでひとり御殿の奥深くに引き退き、戸を引き立てた。そして何とも無念なことにそこで切腹して果てたのである。誰が放った火だろうか、猛火が御殿を焼き尽くした後には、信長の形見は一片の骨とて残っていなかった」

 

〜共通する死因は〜

フロイス日本史と信長公記では、若干の表現の差はあれど、ほぼ同じ事が描かれています。

  • 朝起きての支度の時間に急襲されている。
  • 信長は最初は戦ったが致命傷を負って部屋の奥に入り切腹した。
  • 信長の切腹後は御殿が火災となり、信長の遺体は見つからなかった。

この2つが共通しています。

フロイス日本史も信長公記も、日本史においては重要な一次史料として高く評価されているので、信長の本能寺の変での出来事はほぼ確定でしょう。

ですので、信長くんは本能寺の変の際においての死因は2つになります。では何故それがまだミステリーのままなのか。

それは、火を放った事で御殿が大火災になってしまったので、遺体は全て燃え朽ちてしまい、発見されていない事にあります。

現代でも大火災などあると、そこに焼死体を発見しても性別はおろか、誰なのか?住民なのか?すら判別できない事はままあります。

日本家屋の大きな木造建築物が焼け落ちてしまったら、そこには当然膨大な量の残骸が残るだけ。現代の捜査科学力を以ってしても、焼死体の身元不明が出るくらいですから、今から446年前のその当時の調査能力で、信長くんの遺体判別や遺体そのものを見つける事は、ほぼ不可能だっただろうと言う説もあります。

ましてや、本能寺は当時は寺というより「城郭」のような立派な防御施設も兼ね備えた建物で、そこには鉄砲の弾の硝石や爆薬などの備蓄物も相当量保管されていたと言います。

そんな建物が火災になったら⁈推して知るべしです。

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〜これぞ武士の美学〜

当時の武士の常識的観念として「負けて首を取られて晒し首になるくらいなら、自害して首は渡したくない」と言う、一種の武士の美学がありました。最早これは武士たちの間でのテーマです。

大将が切腹して果てたら、家臣たちは素早く大将の着衣や身につけてるもの全てを剥ぎ取って捨て去ります。そして首は足で渾身の力を入れ踏み潰し、だれのものか判別不能にした上で土に埋めます。これが当時の「忠臣の鏡」と言われたものです。

関ヶ原の合戦の際に西軍に属していた、大谷刑部吉継や島左近たちも方法で、自分の首級が東軍に渡る事を防いでいた様です。

 

 

〜飛び交う憶測〜

一説によれば、本能寺が燃え盛る中本能寺の僧たちが、信長くんの遺体をこっそり運び出したとか、僧侶のふりをした信長小姓たちが信長の遺体を近くの阿弥陀寺に運び出し、そこで火葬だけしてもらって残ったお骨を貰い受けて岐阜に帰ったと言う説などもあります。

風変わりな説としてあるのが「信長爆死説」です。

これは、信貴山に籠城して信忠軍に抵抗を続けた松永弾正久秀が、信長くんへの最期の抵抗で、信貴山城で爆死したと言う話に基づき、信長くんもこれを真似て爆死したのでは?と言うものです。

残念ながらこの説は全く信憑性ゼロ。まず、松永弾正久秀は茶の湯の名器平蜘蛛を抱いて爆死なんかしていません。あれは後世の創作である事が分かっています。松永父子はきちんと武士らしく切腹自害して果てています。

それに仮に信長くんがいくら火薬や硝石の沢山備蓄している本能寺で爆死したとしても、それなら相当の音や煙が上がるはず。それなのに一級史料には残念ながら一切その様な事は書かれていません。

「祖父物語」によると、森蘭丸が敵方に信長くんの遺体を渡してなるものか!と、切腹して果てた信長くんの遺体の上に畳を5〜6畳覆い被せたと有りますので、それを真実とすれば畳が上に乗った遺体は更に強く燃え上がり、灰になってしまう事は十分有り得る事でしょう。

 

 

《今なお揺れる織田信長の死の真相と遺体》

前項で信長くんの遺体は、切腹後火災の中で燃え朽ちて、何も見つからなかったと書きました。

本当に見つからなかったのでしょうか。

残念ながら当時の資料に頼っても、信長くんの遺体発見!は現在に至るまで見つかっていないのが現状です。

ただ、遺体のないまま信長くんの葬儀は、羽柴秀吉が天正10年10月15日に大々的に京都大徳寺で行なっています。

この大徳寺は臨済宗五山派といって、単純に言えば足利将軍家のお寺です。そして五山派の中でも特にこの大徳寺と妙心寺は別格で朝廷の寺として名高いのです。

そして今もなお、信長くんの墓所が京都大徳寺総見院内にあります。

 

〜死の真相は?〜

明智光秀の謀反が原因で間違いは有りません。

そして、彼は信長・信忠父子の命を奪ったにも関わらず、「信長の首級を取っていない(確認できていない)」と言う事実から、味方を付けることが出来ず2週間後に秀吉と直接対決。琵琶湖の坂本城へ敗走の途中落ち武者狩りの農民の槍によって命を落とします。

その場所は、今も京都市伏見区小栗栖に「明智藪」として残っています。

信長くんの死因も、焼死と切腹までは分かっていても、どちらが先なのか未だハッキリと判然としていません。

ただ言えることは、現代も火災で死亡する原因は一酸化炭素中毒と全身への火傷によるダメージです。

恐らく、信長くんは奥の部屋で切腹後、回ってきた火の勢いで全身火傷若しくは一酸化炭素中毒で、絶命したのだと考えます。

 

 

《まとめ》

  • 織田信長の死因は、本能寺の変での切腹と、火災による一酸化中毒や全身への火傷によるもの。
  • 織田信長の遺体は、残念ながらその際の火災で全て焼失したと思われる。

信長くんは、この劇的な最期が有るからこそ今もなお私たちの目を惹きつけて離しませんね。歴史に「もし〇〇だったら・〇〇してれば」の類いの「たら・れば」話しは禁物ですが、信長くんがもしあの時死んでいなかったら。信忠くんが助けに駆けつけて光秀を討って居たら。こう考えると「信玄があと10年長生きしていたら」よりももっとスリリングでワクワクする歴史になった様な気がしてなりません。

良く岐阜城へ訪れる事が有りますが、あの山頂から見る岐阜の城下一帯と長良川の景色は最高です。あそこへ行く度に、信長くんも信忠くんもこの景色を眺めながら、何を思い何を話していたのかなと考えます。

安土城は次男の信雄(のぶかつ)が本能寺の変後に燃やしてしまったので何も語りません。今後まだ信長くん研究は続くでしょう。

その中でまだ見ぬ何かが発見される事を切に願うのみです。

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