安土桃山時代

桶狭間の戦いの真実は?奇襲と言われているが真相は・・?

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いろいろと謎が多き桶狭間の戦い。そこで今回は、桶狭間の戦いの真実はなんなのか?奇襲と言われている真相などについて迫ってまいります!

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桶狭間の戦いは正々堂々正面からの激突だった?

桶狭間の戦いの通説は、織田信長の奇襲作戦だったといわれています。しかし私はそうじゃないと思うのですよ。

なんと実際は正面からの戦だったという説が出ているのです。そもそも桶狭間の戦いは信長の戦力が2000兵であったのに対して、今川義元の兵が5000から6000の兵だったのです。織田軍の方が少ないので、「奇襲作戦」説が出たのではと考えられますね。

もともと、義元本隊が桶狭間で一時休んでいる間、気づかれないよう信長が兵を迂回させて、豪雨とともに近づいて、桶狭間の丘の上から今川軍に奇襲をかけたというのが、ざっと今日まで語り継がれている内容です。

けれども、江戸時代初期に完成された信長に関する史料「信長公記」(しんちょうこうき)には、「織田軍は中嶋砦からまっすぐに今川軍に正面攻撃をしかけた」と記載されています。

確かに今川軍は、大勢いたのですが、まとまった大軍ではなく、案外散り散りになって桶狭間に向かっていたのです。その上駿河(現在の静岡県)からの遠征だったので、疲れが出ていたと思いますね。

その昔、大軍と戦う戦のときは平坦な場所より、起伏のある見通しの悪い場所で戦ったほうが有利だと考えられていました。

今川軍はこのとき、6キロほどの大軍を展開しており、先頭が松平元康時代の徳川家康だったのです。笑 このときは、まだ義元の人質時代で「元康」の「元」の字も義元からとられたものでした。

つまり、縦にかなり間延びした大軍だったのですよ。しかも、桶狭間山は東に行こうが西に行こうが狭かったので、死角だらけでした。この死角に目をつけたのが信長。信長は、鷲津の砦を攻め、今川軍を散り散りにさせることに成功したのです。

なので、桶狭間の戦いは全く奇襲作戦ではなく、地形の問題と天候の条件、今川軍の疲労の蓄積と重なる状況があって、信長は2000兵という少ない戦力でも勝てたと私は考えますね。

 

奇襲作戦として広まったのはなぜ?

それは、明治期の陸軍参謀本部が、戦国時代の戦を調べていたときに、信長の代表的史料である「信長公記」ではなく、江戸時代の資料である桶狭間合戦記などをもとに、信長の奇襲作戦説を唱えて世間に広めてしまったからなのです。

歴史は勝者で作られるとよくいわれますが、よく調べて見ると実は違っていたとかよくありますよね。せめて、「俺はこう戦った!」と本人たちに手記を残してほしかったですね。笑

桶狭間の戦いに勝利したことで、若干27歳の若造だった信長は全国的に知名度を上げた歴史的な戦いとなりました。

桶狭間の戦いといえば、私は大河ドラマ「武田信玄」で今川義元を演じた、今は亡き18代目中村勘三郎さんの演技が忘れられないですね。それまでの桶狭間の戦いを扱った大河ドラマや時代劇や今日の大河ドラマを観ても、いつも義元は情けない殺され方だったのです。

ところが、「武田信玄」は違ったのです。義元が大立ち回りの末、亡くなるのです!勘三郎さん自身こだわりがあったらしく、「本当は無様な死に方ではなく、ある程度武士らしく亡くなったのでは」と後年トーク番組でおっしゃっていましたね。

奇襲作戦があったのか、なかったのかというと私はなかったと思うし、義元は無残な殺され方ではなくある程度応戦したと思いますね。

 

 

まとめ

  • 桶狭間の戦いは奇襲作戦ではなく、正面からの突撃だった。
  • 明治時代の陸軍参謀が桶狭間合戦記をもとに、奇襲作戦を唱えてしまったため、世間一般では奇襲作戦が定説となったしまった。

人間の一言で歴史が変わってしまうというのも、怖いところがありますね 笑 しかし、義元も信長も命をかけて戦った「男たちの魂」は感じとっていきたいなあと私は思いますね。

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