安土桃山時代

桶狭間の戦いを分かりやすくカンタンに!

投稿日:

みなさんご存知の「桶狭間の戦い」ですが、今回はいったいどんな戦いだったのか、わかりやすくカンタンにご紹介します!

スポンサーリンク

 

 

桶狭間の戦いをわかりやすくカンタンに解説!

若き風雲児!ついに全国デビュー?

桶狭間の戦いは、東海の雄として君臨していた駿河の大名・今川義元を若干25歳の無名の若武者であった織田信長が倒した、わかりやすくいうと「ジャイアントキリング」な戦いでした。この桶狭間の戦いをきっかけに信長の名前は全国区に知れ渡るのです。

桶狭間の戦いは、永禄3年の5月19日に勃発します! 桶狭間の戦いにあたって、まずは織田家から迫ってみましょう。織田家は父・信秀の代では尾張の国の守護代の家臣の一人に過ぎなかったのです。国主ではなかったのですね。

当時、尾張の国の守護は、斯波氏という人がなっていました。守護の下が守護代、その守護代の家臣だった信秀は、かなり位が下の人だったのです。こういう家庭事情が信長に「天下人への野望」を募らせた原因だと私は考えます。親父は会社で出世できなかったから俺は社長になってやるみたいな。笑

そんな中、信秀は病でこの世を去ってしまいます。次に起こったのが、家督争いでした。信長には信行という弟がいました。兄弟仲はすこぶる悪く、母の土田御前は信行をかわいがっていたのです。しかし信長はある日仮病で寝込んでいるところへ信行が見舞いに来ます。そこへ信長の家臣たちが突如現れ、信行は暗殺されてしまいます。残酷な話ですが、戦国時代は特に親兄弟間での殺し合いは普通だったのです。

家督争いに勝利した信長は、9年もの年月をかけて守護の斯波氏などを滅ぼし、尾張の国主へ登りつめます!信長の目標はあくまでも「全国統一」でした。そんな中起きた戦いが「桶狭間の戦い」だったのです!

 

この世の春?三国同盟に安心していた?

続いては、もう一人の主要人物・今川義元です。義元は守護大名から出世した人で、この時40歳ぐらい。信長とは15歳ほどの歳の開きがあったので、義元も自分の勝利を疑わなかったと思いますね。「若造になにができるか!」と。

当時、義元は武田と北条に隣接した地域に所領がありました。そして、桶狭間の戦いの6年前に武田と北条とともに「三国同盟」を結びます。それぞれの息子や娘たちを政略結婚させ、姻戚関係を結ぶものでした。

さらに近くの三河も手に入れ、三河の国主だった家康(当時は元康)は服従せざる負えない状況でした。隣接する地域で残るは尾張に君臨していた若き国主・信長ただ一人になったわけです。

義元はもともと軟派な武将ではなく、眉を剃ったりお歯黒をつけたりと、公家趣味はあったと思いますが、少なからず油断していたと思うのですよ。中年の自分から見れば相手は小童。バックには三国同盟の武田と北条がいると。

 

桶狭間の戦いはあっけなく?所要時間2時間!

さて、どのような戦いだったのか!まずはお昼頃にスタートしてなんと2時間ほどで決着がついた戦いでした。案外早いですね。笑

織田軍の家臣・佐々政次と千秋四郎の30余名の部隊が単独で今川軍の前線に向かって攻撃しますが、あっけなく討ち死にしてしまいます。これが義元の「油断」の原因になったと思います。

午後1時ごろ、突如視界不良になるほどの豪雨が発生!これが織田軍には恵みの雨、かたや今川軍には無情の雨となりました。しかも普通の雨ではなく、桶狭間の戦いについて書かれてある史書「信長公記」によると「石水混じりだった」とあるのです。

つまりは、ひょうが降った可能性が高い。戦いだけでも大変なのにプラスひょう。苦笑 今川軍からしたら、某映画じゃないけれど「天は我々を見放したか!」って叫びたい気持ちでいっぱいだったろうと思います。笑

一方、俄然エンジンがかかった織田軍!豪雨の混乱に便乗して、義元の本隊に兵を送り込みます!今川軍は総勢2万ほどいたのですが、義元本隊軍は5000から6000兵しかいなかったのです。

はたまた、織田軍は2000兵とそんなに兵力に大差がない状況で、やれ刀だ槍だと両者乱戦となった戦いでした。

義元は、みこしを捨てて、本隊の300余りの騎馬隊に周囲を守られながら馬で退散しようとしますが、幾度となく織田軍の攻撃に合い、兵力はみるみるうちに少なくなります。

しまいには、信長の馬廻(大将の馬廻りについて、護衛や伝令を司る役職)に追いつかれてしまいます。義元は、馬廻の服部一忠を返り討ちにしますが、毛利良勝によって討ち取られ最期をむかえました。

突如、大将を失った今川軍は戦意を喪失し、桶狭間の戦いは織田軍の勝利で幕を閉じました。

 

 

まとめ

  • 織田家の家督争いに勝利した若干25歳の織田信長が、全国に名前を知らしめる戦いとなった。
  • 今川義元は、自らの勝利を疑わず、一回り以上年下の信長をなめていた。
  • 勝因が分かれたのは、義元のおごりと、信長の強い全国統一への執念、天候(ひょう混じりの豪雨)が原因だった。

いろいろと考えさせられる戦いだと私は思いましたね。いつなにが起こるかわからない。近頃の地震もそうですが、備えあれば憂いなし。もちろん、人の「おごり」に関しては自分で戒めたりはできますが、天候ばかりは、「お願いだから今日は晴れて!」と言っても無駄なわけで。笑 まあ、神のみぞ知るってところですね。

-安土桃山時代
-

Copyright© 【歴ペディア】歴史の人物、城、戦、ミステリーを分かりやすく! , 2019 All Rights Reserved.