明治時代

沖田総司の病気・女説・子孫について

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新撰組一番隊隊長であった沖田総司。彼は、剣術の才能は一流で、イケメンであったと言われています。また、ある一部では女だったのではないかと噂が立っているくらいの美形でした。そんな沖田総司の家族関係はどうだったのでしょうか。

今回は、沖田総司の病気から子孫について詳しく解説させていただきます。

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 沖田総司の病気 肺結核

1868年、戊辰戦争が勃発しました。歴史にも大きく名を残すことになった鳥羽伏見の戦いです。しかし、沖田総司は鳥羽伏見の戦いに参戦しませんでした。というか参戦できませんでした。戦地に向かう途中で負傷してしまい、肺結核を発症してしまったのです。

肺結核とは結核菌という菌が肺に感染して起こる病気です。肺以外にもリンパ節、腸、骨などにも感染します。肺結核は人から人に感染します。せきをしたときに出る細かいしぶきに結核菌が含まれており、近くにいる人が吸うと感染します。食器などの物から結核がうつることはありません。

感染しても発病する人は10%程度です。多くの人は感染に抵抗して免疫が出来ますが、その後高齢になったり、免疫力が落ちたときに発病することがあります。せき、たん、血たん、だるさ、発熱、寝汗、体重減少などが出ることもあります。

せき、たんが出る場合、他人にうつる可能性が高くなります。結核は今でこそ治る病気になりましたが、当時は不二の病でした。結核に感染してしまったら治ることはありません。

沖田総司も幕府の医者である松本良順の看護を受け、ずっと療養を続けていましたが、症状は悪化する一方でした。

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]この当時は不治の病でした[/voice]

20代で無くなる

沖田総司の亡くなった年齢は不明です。24歳、25歳、27歳と色々な説があります。いずれにしても20代という若さでなくなったことは間違いなさそうです。

近藤勇が命を落としてから2ヶ月後の死でした。沖田総司は亡くなる前に、「近藤先生はそうされたんでしょうね、お便りは来ませんか?」と訪ねていたようです。

近藤勇の死を知らずに、沖田総司は旅だったのかもしれません。

沖田総司はいつ肺結核を発症していたのでしょうか。

肺結核の末期症状が吐血です。沖田総司は池田屋事件のときに吐血しています。肺結核の余命は半年から1年とされています。池田屋事件から沖田総司が死ぬまでには4年の月日が流れています。本当に肺結核となって4年も生きることができたのでしょうか。

 

 

沖田総司の直系子孫は存在しない!?

また、沖田総司の子孫についてですが、沖田総司は記録では結婚はしていません。そのため、直径の子孫はこの世に存在していません。ですが、沖田家自体はみつさんと林太郎さんが継いだので、明治の世を過ぎても無事に存続しております。

ここで、沖田総司の家族関係について少し触れておきましょう。沖田総司は沖田勝二郎の長男として生まれ、最初は宗次郎と名付けられました。長男なのに次郎と名付けられたのには訳があります。

当時、長男は太郎と名付けるのが一般的でした。おそらく、養子であり、義兄である沖田林太郎が沖田総司の生まれる1844年より前に沖田家を継ぐことが決まっていたからだと考えられています。沖田勝二郎がもう嫡男は生まれないだろうと考え、長女のみつにお婿さんをもらっていました。

それが、沖田林太郎です。養子が決まっていた時に思いがけぬ長男が誕生しました。しかし、すでに養子である沖田林太郎がいましたので、沖田宗次郎は次男として扱われたのでしょう。家督を継いだ沖田林太郎とみつの間には長男も誕生しております。

立場が微妙な沖田総司

そうなってくると、沖田総司の立場は非常に微妙なものになってしまいます。家のいずらさもあったのかもしれません。沖田総司が試衛館に入門したのも、ちょうど林太郎の長男が誕生した頃です。

新しく長男が生まれると同時に、わずか10歳の若さで家を出された沖田総司は当時何を思っていたのでしょうか。きっと、かなりの寂しさもあったのではないでしょうか。

こうして、家を離れた沖田総司ですが、このときすでに沖田総司の両親はなくなっています。つまり、沖田総司の心には家族の愛があまりありません。ずっと、寂しさを抱えていたのかもしれません。

いずれにせよ、沖田総司は家族との縁が薄かったようです。沖田総司が死ぬときも看取ってくれる家族はいませんでした。天才剣士の儚い最後です。

沖田総司に直系の子孫はいませんが、沖田家の末裔は現在もちゃんと生きております。それが、阿野典子さんという方です。祖父母から「沖田は人も斬っているから公の場で沖田総司の子孫だということを話してはいけない」と教えられていたそうです。現在はデイサービスの会社で正社員として働いているようです。

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沖田総司は女だったのかを検証

また、つかこうへいさんが作った演劇「幕末純情伝」では沖田総司が女だったらという設定で書かれていますが、これはあくまで架空の話です。沖田総司はまぎれもない男でした。

女と間違われても仕方のないくらいイケメンだったと言われています。たくさんのドラマや漫画で沖田総司が描かれていますが、どれもイケメンで人懐っこい性格で明るい性格で描かれているケースが多いです。

美形剣士としても名を馳せていました。だからこそ沖田総司が女だったという噂も流れるのだと思います。

→ 沖田総司はイケメン?写真とか肖像画はあるの?

 

余談〜上杉謙信の女説〜

余談ですが、本当に女だったのかもしれないとの説があるのが上杉謙信です。

上杉謙信の女説を唱えたのは作家の八切止夫さんです。八切さんの説は、スペインで発見されたゴンザレスという人物がフェリペ2世に宛てた報告書の中で上杉景勝は叔母が開発した佐渡のお金を持っていると報告していました。景勝は上杉謙信の姉の子供です。上杉謙信には他に姉妹はいませんでした。報告書にでてくる叔母というのが上杉謙信なのではないかということです。

また、徳川家康の外孫である松平忠明による「当代記」に上杉謙信の死因が大虫であると書かれています。大虫は味噌の中でも赤味噌にあたり、これは月経のことを指しています。上杉謙信の死因は婦人病や月経関連のものではとしています。男で月経はありえません。

これに加えて、瞽女(ゴゼ)歌という民謡の中で、「男も及ばぬ大力無双」と謙信のことを唄っているのだそうです。ですが、この説は確定的なものではありません。反論が多いのも事実です。

→ 上杉謙信に女性説!?その理由と真相について!

 

 

まとめ

・沖田総司は男だった

・結婚をしなかったため直系の子孫はいない

・沖田総司は肺結核でなくなった

・家族がいない寂しい最後だった

沖田総司はまぎれもない男で、新撰組の一番隊隊長として名を馳せました。私も「るろうに剣心」の大ファンだったため、沖田総司の強さには憧れがありました。「るろうに剣心」の沖田総司は俊足の使い手でしたが、本物の沖田総司もずいぶんと速かったようです。

そんな沖田総司を調べている中で、やはり沖田総司の最後を知るととても悲しい気持ちになります。新撰組の仲間は皆散り散りになり、家族もいなく、若くして肺結核で亡くなったのですから。沖田総司は最後に何を思い、何を考えていたのでしょうか。

やはり、最後は両親のことや近藤勇のことを考えながらなくなったのでしょうか。本当のところは分かりませんが、最後に普通であれば肉親に看取られたいと思うことでしょう。愛する人の元で死にたいというのが人間の本望でしょう。

まことに残念でなりません。

新選組の最強は誰だ!?沖田総司や斎藤一がやっぱり強かったのか?

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