幕末の歴史の中でも人気がある武士がいます。それが、新撰組一番隊隊長である沖田総司です。歴史好きではないけど、沖田総司のことは知っているという方も多いのではないでしょうか。沖田総司は多くのドラマや漫画でも取り上げられている人物です。そして、イケメンだとも言われています。
沖田総司は本当にイケメンだったのでしょうか。今回は沖田総司のイケメン説を検証していきたいと思います。
そもそも沖田総司はなぜ人気があるのでしょうか。
それは、剣術の才能にすぐれ、とてつもなく強かったと言われているからです。
まずは、どれほどの強かったのか詳しく見ていきたいと思います。
沖田総司の強さ
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]彼のイケメン要素の一つである強さから検証していくよ[/voice]
沖田総司は9歳のころに天然理心流の道場である試衛館に入門します。その強さは子どものころからすでに頭角を表していました。
沖田総司が親戚の井上源三郎の家に遊びにいったときのことです。天然理心流の剣術を習っていた井上家の人と竹刀で立ち会って勝ってしまったのです。そうしたところ「筋がよいからすぐにでも道場に入門させたほうがよい」と進められ、試衛館に入門したのでした。
これは、沖田総司の強さを表す有名なエピソードです。沖田総司は幼くして両親をなくしており、とても貧しい暮らしをしていました。この環境が沖田総司を天才へと変わらせたのかもしれません。
沖田総司の強さを示すエピソードは他にもたくさんあります。例えば、1852年、沖田総司が12歳の時に白川藩の剣術師範と対戦して勝ってしまいました。1856年には近藤勇と出稽古に出向き、指導もしていました。
そして、新撰組のメンバーであった永倉新八は、「土方歳三にしろ、北辰一刀流の目録をもつ藤堂平助にしろ、沖田総司にかかると子供同然にあしらわれた。総司が本気になったら師匠の近藤勇も敵わないだろう」と語っています。沖田総司の剣術の才能は他を圧倒するほど抜きん出ていたのかもしれません。
→ 新選組の最強は誰だ!?沖田総司や斎藤一がやっぱり強かったのか?
新撰組時代には副長助勤筆頭、一番隊隊長の要職についており、剣術の師範なども務め、新撰隊士の指導にあたっていました。
1864年の池田屋事件のときのことです。ある一人の武士が沖田総司に斬りかかりました。斬りかかったと同時にその武士は沖田総司に2、3回斬られてしまったのです。このエピソードも永倉新八が目撃し、後世に語り継がれているものです。
沖田総司の剣術は速さでも有名です。速すぎて太刀筋がまったく見えないほどです。そのため、敵は自分が斬られたのか斬られていないのか、わからなく死んでしまったこともあったのかもしれません。やはり、飛び抜けた才能があったのでしょう。
沖田総司のプライベートにせまる
ここで、沖田総司にプライベートについて触れてみたいと思います。
やはり気になるのは沖田総司は結婚していたのかということについてでしょう。
沖田総司が結婚していたという記録は残っていません。
ただ、沖田総司の恋愛についてはあるエピソードがあります。試衛館道場での修行時代に、沖田総司に想いを寄せた一人の少女がいました。その少女は沖田総司を道場の隙間からずっと見ていたのでしょう。想いは日増しに強くなるばかりです。
とうとう少女は沖田総司に想いを告げます。これに対して、沖田総司は「修行中の身だから断る」と伝えたそうです。少女は恥ずかしさのあまり、自殺未遂を図ったそうです。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]修行を理由に女性を拒むなんて現代メンズからしたら考えられないですね。[/voice]
告白を断られたから死ぬというのは、なんだか現代っぽい話にも聞こえます。現代では、LINEやメール、そして電話を使って女性からの告白もあると思うのですが、当時はまだまだ男社会です。そのため、女性からの告白は相当珍しかったのではないでしょうか。
さすがに、自殺未遂を図られた沖田総司もまいってしまいました。この件が、思春期の沖田総司の大きな心の傷になったと言われており、京都時代に仲間が遊郭に遊びにいくのに、あまり好まなかったと言われています。
沖田総司には内縁の妻がいた!?
正式な結婚の記録はないのですが、少しだけちょっと気になる記録があります。1867年に新撰組の菩提寺とも言える京都の光緑寺にひとりの身元不明の女性が葬られていて、その墓碑銘が「沖田氏縁者」と記されていたのです。
この沖田氏が沖田総司の可能性が非常に高いと言われていて、縁者という記述が、恋人、あるいは内縁の妻のような存在である可能性が残されています。
実際に、この身元不明の女性の戒名と沖田総司の戒名を並べると、とても釣り合いがよいことが見て取れます。
沖田総司の戒名は「賢光院仁誉明道居士」であり、身元不明女性の戒名は「真明院照誉貞相大姉」です。
とはいえ、この女性が亡くなった同じ年の秋から冬頃には、総司自身も重い肺結核の病状となり、翌年の1868年には短い生涯の幕を閉じています。
沖田総司は果たしてイケメンだったのか?
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]さて本題![/voice]
ドラマや漫画で描かれている沖田総司は、天才剣士の上に人懐っこい性格で描かれていることが多いです。その反面、病弱でも色白なイケメン剣士としても描かれています。
沖田総司は本当にイケメンだったのでしょうか?その真相にせまっていきます。
沖田総司の容姿について記録が残っているのは、「ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒」や「肩の張り上がった」といったものが有名で、現代のイメージである美青年というより、体格のいい体育会系の青年というイメージが強いかもしれません。そんな世間のイメージがあるのですが、沖田総司の実家では、「総司は色の白い、小さい男だった」と真逆なイメージで伝えられているそうです。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]イケメンと程遠い感じやん [/voice]
沖田総司は新撰組の一番隊隊長として、鬼神として世間を震え上がらせていました。そんな活躍をしていた沖田総司は、小柄で病弱では無理かもしれませんね。
ここで実際に沖田総司の現存している写真を見てみましょう。
それがこちらです。
これはどうなんでしょうか。まず、現代のイケメンのイメージはヨーロッパ系が強いと思いますので、この肖像画をイケメンとは呼べません。
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江戸時代のイケメンの基準は以下のようなものだったと言われています。
- 頭頂部は青味がかかってたほうが色気がある
- 眉の薄いのは顔がボンヤリと見えるから、眉墨でクッキリ描くのがよろしい。
- ヒゲの剃りあとの青いのは美しくない。ことに鼻と口の間の青いのはひどく田舎じみて見えるから
- ヒゲの濃い人は剃るより抜く方が良い。
- 口臭は女のコにきらわれるトップ。うがい歯みがきはこまめに。
- 髷はいつでも「二日前に床屋へ行ったような」状態を保つのが良い。
- 頬はスベスベなのが良い。洗顔は日に三度。
- 耳は意外に目立つので念入りにみがき込んでおく
- エリアカはことに見苦しいので注意のこと
※出典:杉浦 日向子『一日江戸人』(新潮文庫)
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これを見ると、沖田総司はモテたのかもしれません。この肖像画からは、顔は置いておいて、清潔感があることは伝わってきます。眉毛もくっきり書いてあります。頬もすべすべなような気がします。
沖田総司は現代の感覚でいうと決してイケメンとは思いませんが、天才的な剣術や、人懐っこい性格、新撰組一番隊隊長という肩書きからすると、モテる男であったことは間違いないのではないでしょうか。
とてもこの肖像画からは強そうな感じが伝わってこないので、おそらく当時も一見すると強そうには見えなかったのではないでしょうか。強そうに見えないからこそ、実施にとんでもないくらい強いのであれば、ギャップに魅力がでてきます。いつの世もこの男のギャップに世の女性たちは虜にされてきたのかもしれません。
沖田総司が結核で若くしてなくならなければ、結婚して、今頃は沖田総司の子孫も生きていたのかもしれませんね。
まとめ
- 沖田総司はイケメンではなかった
- イケメンではなかったがモテた可能性があった
- ちなみに結婚はしていない
私の感覚ですが、沖田総司は現代の感覚ではイケメンとは言い難いと思います。今の現代人の感覚は戦後にアメリカの文化が大量に入ってきてから成り立っている感覚なので、仕方がないといえば仕方がないのかもしれません。
反対に、現代のイケメンと呼ばれる人物が、沖田総司の時代にいくとイケメンではないと判断される可能性が高そうです。
いずれにしても、イケメンとは個人の主観が大半を占めます。当人がイケメンと思っていればその人はイケメンです。
みなさんは沖田総司をどう判断されますか?