明治維新の英傑である大久保利通。大久保利通の最後は暗殺という形で幕を閉じました。今回は大久保利通がなぜ暗殺されることになったかについてご紹介させていただきます。
暗殺の原因となったのは西郷隆盛
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]大久保利通の死因なんだけど、結論から言うと不満を持った士族に待ち伏せされて、刺されまくって亡くなったのでした[/voice]
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]直接的な死因は待ち伏せ襲撃なんだけど、その根本的原因となったのは西郷隆盛だったのです[/voice]
西郷隆盛への優しさ
西郷隆盛は2回流刑に処されています。奄美大島と沖永良部島です。通常、流刑に流されるとそのまま、そこで過ごすしかないのですが、大久保利通の理想を叶えるためには、西郷隆盛がどうしても必要でした。西郷隆盛を2度の流刑から救ったのは大久保利通なのです。
実は、この二人、明治維新まではお互いの理想の元、討幕を目指し、明治時代を手に入れたのです。お互いがお互いを認め合い、協力し合いながら、困難を乗り越えてきました。
ですが、この二人の仲に転機が訪れます。その原因が朝鮮でした。朝鮮を武力で制圧しようと考えていたのが西郷隆盛です。そして、これに反対していたのが大久保利通でした。大久保利通がなぜ反対していたのかというと、大久保利通は欧米列強を訪問しており、日本との力の違いをまざまざと見せつけられていたのです。今外国と戦争を行っている場合ではない。早く内政を整えなくてはいけないと考えていたのが大久保利通でした。
大久保利通と西郷隆盛の対立
この両者の考えはどちらも一歩も譲りませんでした。さすが、歴史に名を残す人物たちです。自分の信念には確固たるものがあります。どちらも自分のためではなく、日本のためを骨のずいまで考えた結果としての意見なのでしょう。その意見であれば簡単に譲れるわけもありません。議論は平行線のまま時は過ぎてしまいます。
結果として、西郷隆盛は職を辞して故郷の鹿児島へ帰ってしまいました。鹿児島に帰ったあとは、私学校を開き、若手に人材育成に努めます。
この育成がのちの西南戦争の火種になってしまいました。西郷隆盛に育てられた人物は、西郷隆盛と同じように少なからず現在の政府に不満を持っている武士たちです。この当初の目的は外国と戦争になったときのために対抗するために育てていました。
西郷隆盛が育てているので、西郷隆盛の考えには賛同しています。そしてこの頃、本当に不運だったのが廃刀令が決まったことです。廃刀令とは武士が刀を持てなくなることです。刀は武士のほこりであり、魂です。それが政府に取り上げられたことで、政府に不満を持っていた武士の不満がとうとう爆発してしまいました。この爆発の向かった先が西南戦争です。
西南戦争の結果は、薩摩藩の敗北です。敗北により西郷隆盛は責任をとり、城山で自決します。明治維新の英傑とまで呼ばれた西郷隆盛の最後です。なんとも悲しい最後でしょうか。
この一報を受けた大久保利通は、「私ほど西郷隆盛を知っているものはいない」と号泣したと言われています。また、このときの言葉がのちに、大久保利通の名言として後世に伝わっています。西郷隆盛の死から数ヶ月後、大久保利通は、大久保利通の不平不満を持っている武士の手によって暗殺されてしまいます。
大久保利通の暗殺
暗殺当日、大久保利通はまたも名言を残しています。それは、「戦乱も収まってようやく平和になった。明治維新を完成させるにはあと30年の月日がいるが、自分は20年目まで内政に尽くし、あとの10年は後進に任せる」と言っています。
そして、そのあと、明治天皇に会うために赤坂御所に向かったところで6人の士族に襲撃されたのでした。馬車で赤坂御所に向かっていた大久保利通ですが、紀尾井町にさしかかったときに若者が二人立っていました。
馬車を降りて若者に道を開けてくれるように歩みよった瞬間、若者は隠しもった短刀で馬の前足を斬りました。これを機に、その他の仲間が飛び出してきて、大久保利通の乗った馬車を襲撃しました。刺客らが馬車から大久保を引き摺り下ろそうとすると、大久保は刺客たちに向かって「無礼者」と一喝しました。
刺客は手を緩めず、大久保の眉間めがけて短刀を振り抜きます。さらにもうひとりが腰を深く貫いたため大久保は動けなくなりました。そして、さらに頭部めがけてさらに斬り込まれます。大久保は馬車から転げ落ちましたが、その時、まだ意識はありました。立ち上がって歩き出したと伝わっています。そこに刺客たちはさらに刺しまくり、とうとう倒れた大久保利通の首を短刀で突き刺したのです。
刺客たちは、その足で赤坂御所に向かい自首したのです。赤坂御所の守衛に大久保利通の暗殺を告白し、書簡を差し出しました。その書簡には、大久保利通を始めとする多くの政治家に対する不平不満や、政策への批判、西郷隆盛を自決に追い込んだことへの抗議がびっしり書かれていたのです。
記録では、大久保利通には16の傷がありました。その半数は頭部に集中していたそうです。凄まじい憎悪の念を感じたようです。現場に駆けつけた官僚は、現場のことを、「肉飛び骨砕け、また頭蓋骨裂けて脳の猶微動するを見る」と語っています。
書簡に書かれていたこと
書簡にはこのようなことが書かれていました。
[aside]
- 国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している
- 法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
- 不要な土木事業・建築により国費を無駄使いしている。
- 国を思う志士を排斥して内乱を引き起こした。
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外国との条約改正を遂行せず国威を貶めている。想いはもっともだと思うこともありますが、多くの人のために行うのが政治であり、部分最適するわけにはいきません。
大久保利通も完成させるのは30年かかるといっているくらいです。明治はまだスタートしたばかりだったのです。そのため、大久保利通の長期的視点は、一般の武士にとっては到底理解できるものではなかったのでしょう。
どうしても一般の人たちは目先のことに焦点がいってしまったのでしょう。 政治の悲しい現実が浮き彫りになった事件と言えるのではないでしょうか。大久保の暗殺犯は島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、浅井寿篤の6人です。市ヶ谷監獄に収監されたあと、その2ヶ月後に斬首刑に処されています。
大久保利通は、暗殺されたときに、懐には西郷隆盛の手紙が2通あったと言われています。1通は外国人が王政復古の大号令を間違った内容で本国に伝えようとしないでほしいということを伝えてくれとのお願いでした。
2通目は 写真を取るのはもうやめなさい という手紙であったと言われています。
大久保利通が常に西郷隆盛からの手紙を持ち歩いていたとは考えにくいですが、大久保利通が西郷隆盛のことをずっと気にかけていた様子がわかります。
余談ですが、大久保利通が暗殺されたときに使用された馬車が現存しています。岡山県の五流尊龍院というお寺に奉納されているそうです。なぜ、大久保利通とゆかりのない岡山県なのかは分かっていません。
まとめ
[aside]
- 大久保利通は政治に不平不満をもった6人の武士から暗殺された
- かなりの憎悪が込められていた
- 大久保利通が暗殺されることになったのは西郷隆盛が関係している
- 死因は、待ち伏せしていた士族に刺されまくったこと
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明治維新の英傑である、大久保利通。大久保利通の死は本当に無念であったものでしょう。やっとスタート地点に立った矢先のことでした。
そして、当時の日本には、まだまだ大久保利通の力は必要だったに違いありません。大久保利通の死は、一人の人間の死ではなくて、国の財産的な損失であることは間違いないでしょう。大久保利通が生きていたら、今の日本はどうなっていたのでしょうか。もしかしたら、もっと世界に発言権のある日本になっていたかもしれません。
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