[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]大久保利通は歴史に名を残す偉人の一人だよ[/voice]
大久保利通とは、明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称されるほどの人物です。
1830年9月26日に鹿児島県で生まれました。昔の薩摩です。大久保家はもともと下級藩士でした。大久保利通は武術においては体が弱かったためパッとしなかったのですが、討論や学問は他より抜きん出た才能がありました。
大久保利通は誰もが知るすごい人です。皆さんも名前くらいは聞いたことがあると思います。
そんな大久保利通の子供や子孫について見ていきましょう。
大久保利通の子供や子孫について
大久保利通は、正妻 満寿子の間に3男1女を授かっていました。
そして、なんと愛人 おゆうとの間にも子供がいたのです。4人の男の子です。
つまり、なんと7男1女の計8人の子供がいました。見た目に似合わなく、強靭な体力です。
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- 長男:利和
- 次男:伸顕
- 三男:利武
- 四男:利夫
- 五男:石原雄熊
- 六男:駿熊
- 七男:七熊
- 八男:利賢
- 長女:芳子
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実は大久保利通の子孫には麻生太郎がいます
今回は大久保利通の子どもの中から、特に優れた功績を残した人物についてご紹介させていただきます。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]大久保利通の子供はスゴくなった人ばかりです![/voice]
長男、大久保利和
大久保利和は、議員であり実業家として生涯活躍しました。
利通の国に対する貢献が認められたため、利和は華族になっています。
華族とは、明治2年から昭和22年まで存在した近代日本の貴族階級のことです。ちなみに木戸孝允の貢献も認められ、木戸家も華族として認定されています。
大久保利和は実業家として、あの有名な岩倉具視と一緒に、日本初の私鉄である日本鉄道を作りました。そのあと、甲武鉄道の副社長に就任し、社長まで上り詰めています。
次男、牧野伸顕
牧野伸顕は、長男と同じく、政治家の人生をまっとうしました。伸顕は生まれてすぐに大久保利通の親戚に養子に出されたため、名字が牧野になっています。
伸顕は、最終的に第一次山本内閣で外務大臣に就任して、貴族議員としても活躍しました。伊藤博文とも交流があり、大正天皇からも大きな信頼を寄せられていたとされる人物なのが伸顕です。
三男、利武
利武も長男、次男と同様に政治家として活躍しています。
利武は語学に精通していました、アメリカのイエール大学やドイツのベルリン大学で学んだからです。語学に精通していたため、日清戦争では、本営付通訳官を務めました。
そのあとは、台湾総監督秘書官や、内務大臣の秘書官を務めています。内務大臣の秘書官のときに、西郷隆盛の弟である西郷従道の秘書官をしていたそうです。このことからも、大久保利通の血の匂いが多いに感じられますね。
その後は、鳥取、大分、埼玉、大阪の知事を勤め上げ、最終的には貴族院議員として政治家の道をまっとうしています。なんと、日本赤十字社の理事も務めました。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]大久保利通の子供達の活躍ぶり、やばくないですか?(笑)[/voice]
長女、芳子
長女の名前は芳子といいます。芳子も政治に関わりがありました。伊集院彦吉という政治家に嫁ぎます。
この伊集院彦吉が第二次山本内閣で外務大臣まで務めた人物です。
八男、利賢
八男の利賢は愛人との間にできた子どもです。大久保家の末っ子にあたります。利賢は、東京大学を卒業するほどの秀才でした。東京大学を卒業後、横浜正金銀行(元三菱銀行)へ入行します。ロンドン支店の支配人も歴任し、頭取まで上り詰めました。ですが、ロッキード事件に関わったとして逮捕されてしまいました。
牧野伸顕の娘に雪子という人物がいました。この雪子こそ、かの有名な大物政治家である吉田茂の妻なのです。
吉田茂といえば、歴代でもっとも内閣総理大臣を務めた、日本の政治界きっての人物です。サンフランシスコ講話条約、安全保障条約を締結した、戦後の日本が進む方向を決定付けた人とも言われています。
そして、なんとなんと吉田茂の孫には現在の有名政治家がいます。現在の副総理(2018年5月現在)である麻生太郎です。
麻生太郎
麻生太郎は現在は副総理ですが、第92代総理大臣を務めた大物政治家です。世間からはお坊ちゃんのイメージで有名ではないでしょうか。
ですが、実際にはかなり質素な生活をしてきたそうです。お金持ちなのに倹約してきたことは意外ですね。非常に常識のある家庭だったのかもしれません。
ここで麻生太郎についてご紹介します。
麻生太郎は、麻生太賀吉のもとに生を受けます。この太賀吉ですが、麻生商店を立ち上げ、麻生セメントを一代で築き上げた実業家です。
麻生太郎の妹は皇族にまでなっています。天皇家の寬仁親王から結婚を求められ結婚しているのです。日本赤十字社名誉副総裁から始まり、社団法人東京慈恵会総裁、財団法人日本ばら会名誉総裁などを務められています。麻生家の家系は本当にすごい人ばかりです。
ということは、大久保利通の子孫には皇族までいるということになります。大久保利通の直系の親族は、まだまだすごい人がたくさんいます。
そんなすごい子孫を残したのが妻である満寿子と、愛人であるおゆうです。この二人と大久保利通はどう出会い、結ばれたのでしょうか。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]大久保利通の血筋はスゴイ人ばかり。どうなっているんでしょうね?”カエルの子はカエル”といわざるをえません[/voice]
妻、満寿子との出会い
大久保利通の妻である満寿子とはどのようにして出会ったのでしょうか。
満寿子の出身も薩摩です。父は薩摩藩士である早崎七郎右衛門です。大久保利通が28歳のとき、満寿子は21歳の若さで結婚します。
征韓論が議論されていた明治6年ころ、満寿子は故郷の鹿児島で子育てに明け暮れていました。西郷隆盛とも近所でした。その頃、薩摩では利通のかつての同志であった人たちが、利通の政治に不満を持ち、西郷隆盛らと一緒に戦争をしかけていきます。それを近くで見ていたのが満寿子です。満寿子はこのとき、どういった心境で子育てをしていたのでしょうか。
おそらく、私たちが想像もできないような辛さだったことは間違いないでしょう。満寿子は上京し、大久保利通と一緒に暮らしますが、一緒に暮らした期間はわずかに3年でした。利通が暗殺されてから体調を崩し、利通の死後、わずか7ヶ月、42歳という若さで亡くなってしまいます。
愛人おゆうとの出会い
そして愛人であったおゆうですが、おゆうはどんな人物だったのでしょうか。
おゆうは、祇園の芸妓でした。おゆうは京都で大久保利通と一緒に生活をしていました。おゆうは大久保利通のもとへ訪れる人を大いにもてなし、世話を焼いていたようです。大久保家にも「おゆうは大切な仕事をされた方」として伝わっているようです。実際におゆうは長生きしたそうですね。
当時権力を持った男性が妾をもつことは特別なことではなく、いたって普通だったようです。そのため、現代の価値観で当時の大久保利通の妾について議論することはできませんね。
いずれにしても、大久保利通という非常に才能ある遺伝子を後世に残したことは、日本にとっては大いにプラスのことではないでしょうか。
まとめ
・大久保利通の子孫はすごい人ばかりだった
・麻生太郎は大久保利通の子孫だった
・麻生家もすごい人ばかりだった
カエルの子はカエルというように遺伝子は争えないものです。よい遺伝子を持つ人は、無意識的によい遺伝子を求めます。それが世の常です。この世の常の仕組みがうまく回っているので、すごい人物の子孫はこれまたすごくなるのでしょう。
こういうところが人生のおもしろい所であり、また、残酷なところでもあります。
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