[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]偉業を成し遂げた人物の名言は深い![/voice]
大久保利通は生涯を閉じるまでに数々の名言を残しました。
今回は、大久保利通の数々の名言とその意味を合わせてご紹介いたします。
大久保利通の名言!
1.「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず」
この言葉は大久保利通の日記に書かれていた言葉です。
この言葉の背景には廃藩置県があります。日本は江戸時代まで幕藩体制をそのまま維持していたので、とても欧米列強に対抗することはできませんでした。そのため、欧米に対抗するには、中央集権で強い国を作る必要があったのです。
強い国を作るために考えられた案が藩という制度の廃止です。藩を廃止して、区分けのために県を設置するのです。
この廃藩置県の制度は、江戸時代における藩の領主や大名を否定するものであります。300年も続いてきた制度を否定することは、とてつもない反対を受ける可能性が非常に多く残されていました。
大久保利通は、廃藩置県に関して、西郷隆盛や木戸孝允らと何度も何度も議論を戦わせました。三者三様の意見のまま折り合いがつくことはありませんでした。このままでは、廃藩置県を行うタイミングを逃してしまう可能性がありました。そんな時、大久保利通が言った言葉がこのことばです。
廃藩置県は現代にも通ずる非常に大きな改革です。
今でいうとこの都道府県の制度がなくなり、アメリカのような州制度を作るようなものです。州制度に変わることで、法律はどうするのか。アメリカのように州独自の法律を認めるのであれば、各州に法律を作ってもらなわければなりません。
もちろん、民主主義なので、国民の同意も必要になります。制度を変えるということは細かいこと一つ一つを詰めなければなりません。しかし、細かくなればなるほど人の考え方に違いがでてきます。
しかし、タイミングを逃してしまえば、欧米に対抗する力をつけることはかないません。時間が迫ってくる中での説得には非常に困難なものがあったのでしょう。それでも現代まで残っているこの制度は本当に英断だったと思います。
2.「彼は彼、我は我でいこうよ」
今でいうオンリーワンの考えです。今でこそオンリーワンの考えが浸透していますが、この明治の時代にオンリーワンの考えをしていた利通はさすがと言えましょう。
3.「この難を逃げ候こと本懐にあらず」
困難な目の前のできごとから絶対に逃げてはならない。
4.「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が…」
これは、西郷隆盛が西南戦争の際に、城山で自決したことを知った利通が言ったとされる言葉です。
西郷隆盛の死を経て、日本は生まれ変わることができると言っています。
5.「外国勢力と戦おうとする方法はただ筆と墨を用いるにある。武器を用いてやるのではない」
外国勢力に対抗するためには、内政を強くする必要がある。武力で力だけをつけてd
これは、岩倉具視らと欧米を視察してきた利通だからこそ分かったことなのでしょう。
6.「人材を挙ぐるは政の本なり」
出身や身分にこだわらず、「優秀な人を採用するべきだ」という意味です。利通ももともとは下級武士の生まれです。そして、お家問題で、ひどい目にもあっています。
その時に、血筋にこだわる日本人の本質をよく見抜いていたのでしょう。
身分や出身といった看板には何の意味がないということも小さい頃から分かっていたのでしょう。
7.「11年から・・・内事を整えて民産を殖する」
この言葉が大久保利通が暗殺された明治11年にはなされた言葉です。
「世の中も落ち着いてきて、明治維新の目標を貫き通すためには、それには30年以上の月日が必要になるだろう。
明治元年から10年くらいは軍隊を頼る必要がある。
11年から20年にかけては最も重要な時期に入る。国政を整えて、民間の産業を育てなければいけてない。最後の10年は後任に任せられるように優秀な人材を育てなければいけない」といった意味です。
8.「政治も戦争も正当な根拠なしに行って成功することはない」
幕府が薩摩藩に無理難題を押し付けたときの名言です。このとき、利通は討幕を決意したと言われています。
9.「二人で刺し違えて死のう」
西郷隆盛が久光の命令を無視して上洛したときのことです。利通が久光を説得して、せっかく西郷隆盛の流刑を解除した矢先、西郷隆盛は久光からの命令を無視して上洛してしまいます。
これには、さすがの久光も激昂しました。利通ももうこの怒りを抑えることはできないと思ったそうです。
浜辺に西郷隆盛を呼び出した際に、西郷隆盛に言った言葉とされています。
西郷隆盛は、利通が死んだら誰が討幕を成功させるのかといい、久光からの罰を甘んじて受けたようです。
10.「非義の勅命は勅命にあらず」
この言葉は、第二次長州征伐の勅命を幕府が受けたことに対して放った言葉です。天皇の勅命は国民のためにあるべきだといい、国民のためではない道理に反した勅命は勅命ではないと言っています。これは吉田松陰の考えに通ずるものもありました。
11.「御行列は壮麗で天威堂々として」
これは天皇が東京遷都の行幸の途中で、いく先々で人々と出会い、70才以上の老人や困窮者に金品まで与えていて、感極まった利通が口にした言葉です。天皇の存在と権威を大いに広めることができたと非常に感激して日記に綴りました。
12.「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」
西郷隆盛とは子どものころから切磋琢磨してきた仲です。
そのため、自分が西郷隆盛のことを書き残して置かなければ、後世に西郷隆盛という人物は誤って伝わるだろうと言っていました。
大久保利通と西郷隆盛は、お互いに魂の部分まで理解しあっていた仲なのでしょう。
だから『西郷のことはおれしかわからない』と言ったのです。
13.「最善を得ざれば次善、次善を得ざれば、その次善と、できる程度において、出来うる事をなし」
これは大久保利通の執念の言葉です。当時、利通が属していた若手の精忠組は島津久光から嫌われていました。
利通は権力がなければ大きなことはなせないと痛感していたので、何とか島津久光に近づこうと模索します。たまたま久光が碁が好きだと聞いた利三は久光の囲碁相手だった住職に囲碁を教えてくれと頼み込みました。
何がなんでも、目的のためには何でもするというのが利通の執念です。
その際、久光が国学者である平田篤胤の『古史伝』を読みたがっていると聴き出します。利通はその本を探しだし、住職を通して久光に差し出しました。
このとき、本に抜かりなく、時事への意見や、同士の氏名を書いたメモを忍ばせていたのです。
久光はなんとか中央集権で働きたいと考えており、この若い力は利用できると思ったようです。
この時の名言が、 「最善を得ざれば次善、次善を得ざれば、その次善と、できる程度において、出来うる事をなし」でした。
14.「為政清明」
政を成すには、清くかつ透明でないといけない。
これは、大久保利通の座右の銘です。
利通が暗殺されたとき、残されたのは借財だけでした。
私利私欲のために政治をやっていたわけではなく、本当に日本のために政を行っていたのが大久保利通という人物です。
15.「堅忍不抜」
明治のジャーナリストである池辺三山が大久保利通を評価してつけた名言です。
堅忍不抜とは一度決めたことは一度思い極めたことは非常な執着力を持ってそいつを実行するということです。
幕末から約18年間、脇目もふらずに政治家をやり続けた大久保利通だからこそ与えられて名言でしょう。
最善と信ずる手段をもって必ず実行している。
16.「およそ国の強弱は人民の貧富により、…いまだ勝手政府政官の誘導奨励の力に依らざるはなし
大久保利通の政治の基本方針です。
国力は国民の貧富で決まる。国民の貧富は国の物産の多さで決まる。物産は国民の産業従事に励むかどうかが分かれ道だと言っています。
この方針は、欧米視察時にドイツの宰相ビスマルクから話を聞いた時にヒントを得た施策でした。弱小国から、成功し強くなったドイツの成功物語が日本に当てはめることができると考えたのでしょう
まとめ
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- 「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず。」
- 「過ぎたるは及ばざるにしかず」
- 「この難を逃げ候こと本懐にあらず」
- 「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が…」
- 「外国勢力と戦おうとする方法はただ筆と墨を用いるにある。武器を用いてやるのではない」
- 「人材を挙ぐるは政の本なり」
- 「11年から・・・内事を整えて民産を殖する」
- 「政治も戦争も正当な根拠なしに行って成功することはない」
- 「二人で刺し違えて死のう」
- 「非義の勅命は勅命にあらず」
- 「御行列は壮麗で天威堂々として」
- 「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」
- 「最善を得ざれば次善、次善を得ざれば、その次善と、できる程度において、出来うる事をなし」
- 「為政清明」
- 「堅忍不抜」
- 「およそ国の強弱は人民の貧富により、…いまだ勝手政府政官の誘導奨励の力に依らざるはなし」
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大久保利通の名言はまだまだあります。さすが大久保利通ですね。こうも影響力のある人はなかなかいないのではないでしょうか。大久保利通が理想とした国に今の日本はなれているのでしょうか。今の日本を見て、大久保利通はなんて言うのか、ぜひ聞いてみたいものです。