明治時代

大久保利通の生涯を年表形式でわかりやすく!

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[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]大久保利通がどんな一生だったのか、年表形式で見ていこう![/voice]

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]人生を日本の将来のために捧げたと言っても過言ではないくらい、日本の心配をしていたことがわかります。[/voice]

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大久保利通の年表

1830年:薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に琉球館附役の薩摩藩士大久保利世と皆吉鳳徳のニ女・福の長男として生まれる

エピソード:後の明治維新の英傑と呼ばれた大久保利通の誕生です。

 

1831年〜1839年:幼名は正袈裟(しょうけさ)、大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士でした。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住、下加治屋町の郷中や藩校造士館で、西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となる。

エピソード:このときに、生涯をともにする西郷隆盛と出会います。

→ 大久保利通と西郷隆盛の仲や関係はどうだった?

 

1844年:元服し、通称を正助(しょうすけ)、諱は利済と名乗るが後に改名

元服し、大久保利通が大人としての仲間入りを果たす。

 

1846年:藩の記録所書役助として出仕

エピソード:この時、大久保利通は17歳です。西郷隆盛はすでに行政の職につき働いていました。

 

1850年:お由羅騒動で父・利世とともに連座して罷免され謹慎処分となる

以後、大久保家は貧しい生活を強いられ、この時の借金依頼の手紙や証文が現在残っている。

エピソード:この時に、大久保家の生活を支えていたのが西郷隆盛と言われています。経済的な支援はもちろんですが、大久保利通を禅に誘い、一緒に切磋琢磨していました。

 

1851年:・島津斉興が隠居し島津斉彬が薩摩藩主となる。

エピソード:斉彬が藩主になったことで、大久保家にも明るい未来が訪れそうです。

 

1853年:謹慎を解かれ記録所に復職し御蔵役となる。

エピソード:とうとう復職することができました。これで、大久保家が貧困から脱出できます。

 

1857年:西郷隆盛とともに徒目付となる。

エピソード:このとき、初めて西郷隆盛と一緒に働くことになります。西郷隆盛の方が先輩にあたります。

 

1858年:・斉彬の死後、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教(後の久光)に税所篤の助力で接近した。

エピソード:この時、西郷隆盛は流刑に処され、奄美大島にいました。その流刑から西郷隆盛を戻したのが大久保利通です。

 

1860年:重富邸にて忠教(後の久光)と初めて面会し、閏3月、勘定方小頭格となる。

エピソード:久光との初めての面会です。この久光をきっかけにして大久保利通はどんどん出世していきます。実はこの面会にたどり着くまでには、大久保利通はものすごい努力をしています。

国を変えるためには権力がなければならないと痛感した利通は、なんとかして久光に近づこうと考えます。当時、久光は囲碁が趣味でした。そこで、久光の囲碁相手である住職に囲碁を教えてくれと頼みこみます。

利通は囲碁を習いながら、久光に会えるチャンスを狙います。あるとき、久光が読みたい本があると住職から聞きました。その本を必死で探した久光は、住職に渡し、久光に届けてもらいます。そこには、利通の考えや利通の同志の名前がびっしり書かれたメモが挟んでありましまた。久光は自分が世に出ていくためには、この若者は使えると考え、この面会にたどり着いたのです。

 

1861年:御小納戸役に抜擢され藩政に参与、家格も一代新番となる。

久光から一蔵(いちぞう)の名を賜り通称を改める。

 

1862年:久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向します。一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主・松平慶永の政事総裁職就任などを進めました。御小納戸頭取に昇進、昇進により小松清廉、中山中左衛門と並んで久光側近となる。

エピソード:とうとう公武合体論が走りはじめます。日本が明治維新にむけて舵を切り出しました。

 

1863年:御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進する。

 

1865年:「利通」と改名する。

エピソード:このときに、ようやく大久保利通という名前になる。

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]大久保利通は何回も名前を変えて、ここでやっと利通になったよ[/voice]

 

1866年:第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否。

 

1867年:雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、四侯会議を開催

四侯会議が慶喜によって頓挫させられたため、公武合体路線を改め武力倒幕路線を指向。小松、西郷とともに公議政体派である土佐藩の後藤象二郎、寺村道成、真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟、浪人の坂本龍馬、中岡慎太郎との間で将軍職の廃止、新政府の樹立等に関する薩土盟約を三本木の料亭にて結びましたが、思惑の違いから短期間で破棄。

 

同年8月14日:武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松らは長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明ける。

 

同年9月8日:京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し出兵協定である三藩盟約を結びました。三藩盟約書草案は大久保の自筆によって書かれたもので、現存している。

 

10月14日:正親町三条実愛から倒幕の密勅の詔書を引き出す。

大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功する。

しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古のクーデターを計画して実行。

王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張。

 

1868年:太政官にて大阪への遷都を主張。

 

1869年:参議に就任、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。

 

1871年:大蔵卿に就任、岩倉使節団の副使として外遊。

 

1873年:征韓論論争で西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させました。内務省を設置、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握り、学制や地租改正、徴兵令などを実施。

富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進。

 

1874年:佐賀の乱が勃発すると、ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させました。

  • 台湾出兵が行われると戦後処理のために全権弁理大臣としてに清に渡る。
  • 清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた
  • 日清両国間互換条款・互換憑単に調印。

 

1875年・太政大臣の三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出。

 

1877年・西南戦争で京都にて政府軍を指揮。

→ 西南戦争を分かりやすく!

・第1回内国勧業博覧会を開催。

エピソード:かつての盟友である西郷隆盛との全面戦争になってしまいました。西郷隆盛を説得しようと鹿児島に向かおうとしますが、大久保利通が鹿児島にいくことは、向こうの思う壺であり、大久保利通が死ぬ可能が高かったため、周りからの大反対にあい、結局鹿児島にいくことはできませんでした。

西郷隆盛は西南戦争の責任をとって、城山で自決します。最後、大久保利通と西郷隆盛の再会はかないませんでした。この時の大久保利通の名言として、「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」と言っています。

大久保利通は西郷隆盛の市を非常に悔やんだそうです。

 

1878年・石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、杉村文一、脇田巧一および

島根県士族・浅井寿篤により紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて殺害された(紀尾井坂の変)。

→ 大久保利通の暗殺理由や死因はなんだった?

享年49〈数え年〉、満47歳没、墓所は東京都港区の青山霊園にある。

エピソード:大久保利通には16の傷がありました。その半数は頭部に集中していたそうです。凄まじい憎悪の念を感じたようです。現場に駆けつけた官僚は、現場のことを、「肉飛び骨砕け、また頭蓋骨裂けて脳の猶微動するを見る」と語っています。書簡にはこのようなことが書かれていました。・国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している・国会も憲法も開設せず民権を抑圧している。

  • 法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
  • 不要な土木事業・建築により国費を無駄使いしている。
  • 国を思う志士を排斥して内乱を引き起こした。

外国との条約改正を遂行せず国威を貶めている。思いはもっともだと思うことも思いますが、多くの人のために行うのが政治であり、部分最適するわけにはいきません。大久保利通も完成させるのは30年かかるといっているくらいです。明治はまだスタートしたばかりだったのです。

そのため、大久保利通の長期的視点は、一般の武士にとっては到底理解できるものではなかったのでしょう。どうしてみ一般の人たちは目先のことに焦点がいってしまったのでしょう。 政治の悲しい現実が浮き彫りになった事件と言えるのではないでしょうか。

大久保の暗殺犯は島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、浅井寿篤の6人です。市ヶ谷監獄に収監されたあと、その2ヶ月後に斬首刑に処されています。

大久保利通は暗殺されたときに、懐には西郷隆盛の手紙が2通あったと言われています。1通は外国人が王政復古の大号令を間違った内容で本国に伝えようとしないでほしいということを伝えてくれとのお願い」

2通目は写真を取るのはもうやめなさいという手紙であったと言われています。

大久保利通が常に西郷隆盛からの手紙を持ち歩いていたとは考えにくいですが、大久保利通が西郷隆盛のことをずっと気にかけていた様子がわかります。

 

 

まとめ

・久光のもとで出世していった
・西郷隆盛と明治時代切り開いた
・西郷隆盛が原因で暗殺される結果となった

大久保利通の人生には、西郷隆盛ありと言えることができるでしょう。それだけ、西郷隆盛なくては、大久保利通を語ることはできません。

最後は、皮肉にも暗殺という形で幕を閉じましたが、暗殺があったからこそ、大久保利通がここまで現代でも多くの方を魅了する人物として語り継がれているのかもしれません。

→ 大久保利通の性格は?エピソードから性格を考えてみる

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