江戸時代

大久保利通と西郷隆盛の仲や関係はどうだったの?

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[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]歴史に名を残す二人、どんな関係だったのだろうか?[/voice]

大久保利通と西郷隆盛の関係はどんなものだったのでしょうか。

今回は大久保利通と西郷隆盛の関係についてご紹介させていただきます。

一般的に大久保利通と西郷隆盛は仲が悪いイメージがあります。なぜかというと、大久保利通と西郷隆盛は征韓論争の時に対立し、西郷隆盛がやめて故郷である鹿児島に帰ってしまったためです。

これが世間のイメージですが、実際のところはどうだったのでしょうか。

二人は、鹿児島の城下町である下加治町でともに育ちました。大久保利通はもともと高麗町というところに生まれたのですが、下加治町に引っ越しました。

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大久保利通と西郷隆盛の出会い

大久保利通の父である利世は陽明学を極めており、西郷隆盛は教えを請いに大久保家に通い詰めていました。薩摩藩には、町単位で年長者が教育を担う仕組みがあったため、必然的に顔を合わせていました

西郷隆盛は大久保利通よりも3つ年上です。西郷隆盛は17歳になると、郡方書役助という仕事につきました。農村行政の一つで、作柄から年貢を割り当てる仕事です。今の市役所のような公務員の仕事でしょうか。もしくは、税務署のような仕事でしょうか。

納品の年貢は20%〜30%であったため、年貢を収めるために日々苦労をしていました。その苦労を目にした西郷は、現場主義である徳治政治という政治の仕組みを理想としていきます。大久保利通も17歳になると記録所書役助という仕事につき、行政を学んでいきます。

あるとき、島津藩主の後継者問題がおきました。正室の子である斉彬を押す派閥と、側室の子である久光を押す派閥が激突します。大久保利通の父は斉彬派でした。結果的に斉彬派は敗れ、大久保利通の父は流刑になってしまったのです。そのため、利通も記録所書役助の仕事をクビになりました。

 

西郷隆盛が救いの手を差し伸べる

大久保家の皆が仕事を失い、大久保家は困窮しました。そんなとき助けの手を差し伸べたのが西郷隆盛です。西郷家も経済的に余裕があったわけではありませんが、援助や、禅の修練に誘い、大久保利通と一緒に鍛錬を積んでいきました。

そんなおり、薩摩藩主にとうとう島津斉彬が就任しました。それと同時に大久保利通も復職することができたのです。西郷隆盛も島津斉彬に才能を買われ、大久保利通と一緒に、幕政改革を掲げ、知見と人脈を広げていったのです。

しかし、島津斉彬は井伊直弼に異論を唱え、上洛を計画したところで急死してしまいました。この時、西郷隆盛も失脚し、奄美大島に流されてしまいます。

薩摩では島津斉彬の死後、久光の子である忠義が藩主として就任しました。久光は後見役に就任です。大久保利通は島津久光に才能を認められ、藩政の中核の一人としてみるみるうちの出世していきます。

時は安政7年。桜田門外で井伊直弼が暗殺されました。すると、長州藩が幕府を中心とした「公武合体開国論』を唱え、国策に乗り出してきたのです。長州藩に対抗しようとした大久保利通は、朝廷工作を行おうと試みますが失敗に終わりました。

薩摩は朝廷主体での公武合体を目指していました。島津久光と大久保利通は上京を計画します。これに合わせて、過激派に討幕運動を起こすような動きを見せました。過激派は武力で血の討幕をこころみます。これをやられては、島津久光と大久保利通が計画していることがうまくいきません。

 

過激派を抑えられるのは西郷隆盛しかいない

そこで、過激派を抑えることができるのは西郷隆盛しかいないと利通は考えます。

願ってもないことに西郷は朝廷にも人脈がありました。利通は久光を説得します。そして、西郷隆盛は、鹿児島に戻ることを許されました。西郷隆盛は、始め、久光に協力することに乗り気ではありませんでしたが、大久保利通が説得しました。

にもかかわらず、4ヶ月後に西郷隆盛は久光の待機命令を無視して上洛をしてしまいました。そのため、捕縛命令が出されてしまったのです。

久光の兵が到着したら攘夷派は暴動を起こすかもしれないと西郷隆盛が判断したためです。しかし、このことを久光は聞き入れませんでした。

大久保利通は浜辺に西郷隆盛を呼び出し、罰を受けるように言いました。この時、利通は西郷隆盛と刺し違える覚悟でいたようです。西郷隆盛は利通の考えを受け入れました。そして、再び流刑となってしまい、沖永良部島に流されてしまったのです。

西郷隆盛が流刑にされている間も、世間は尊王攘夷論と公武合体論で揺れ動いていました。薩摩藩は孝明天皇から依頼されたこともあり、幕府側である会津藩と手を組んでいました。会津藩と手を組んでいたのがもう一組。かの有名な新撰組です。

薩摩藩が掲げていたのが公武合体論です。公武合体論を唱えているのにもかかわらず幕府側と手を組んだため、諸藩からの信用を失いました。諸藩からの信用を失ったため公武合体論も行き詰まってしまったのです。この危機に利通は西郷隆盛の力が必要だと考えました。そのため、沖永良部島から呼び寄せるように久光を説得します。

利通の計らいで沖永良部島から戻ることができた西郷隆盛は、早速、会津との連携を破棄しました。そして、京都での情報収集と兵の訓練を行ったのです。

その一方で利通は、長州征伐にむけて、朝廷への許可を求めるように動きました。その際には西郷隆盛と密に連絡を取り合っていました。

長州を征伐した利通は京都に向かいました。朝廷での発言力を強めていきます。利通は岩倉具視と協力し合い、西郷隆盛はその人望で他藩の武士を集め、お互いが討幕に向けて動き出しました。

利通と西郷隆盛は薩長同盟を経て討幕に成功します。大政奉還ののちに、明治時代を迎えることができました。

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征韓論での大久保利通と西郷隆盛の対立

明治政府発足後、大久保利通と西郷隆盛は征韓論をめぐって対立するようになりました。武力による開国を求めた、西郷隆盛らと、それに反対した大久保利通らの構図です。

そんな時、大久保利通は、岩倉施設団の一員としてオランダに旅立ち、政府を留守にしました。

内閣に残ったのは西郷隆盛です。利通は西郷隆盛らと自分の留守中は重要な施策は行わないとする「十二ケ条の約定書」を結びました。しかしながら、視察を終えて日本に戻ってくると、徴兵令、地租改正などの社会改革が行われていたのです。

西郷隆盛らは反対勢力がいないのをいいことに思う存分政治を行っていたのです。また、当時西郷隆盛の朝鮮派遣は決まっていたのですが、朝鮮は過去の日本と同じように鎖国政策を維持しており、日本からの外交を拒否していたのです。

この態度にしびれを切らした一部のものが武力開国を唱えだしたのです。西郷隆盛も同じ考えと言われていました。

しかし、西郷隆盛の本当の考えは少し違いました。あくまで、大使を派遣した中で、平和に開国させようとしていたのです。そして、もしも朝鮮にいって自分が殺されたとすれば、それを理由に戦争をしかければいいというのが西郷隆盛の考えでした。

利通らは欧米諸国の視察を終えれ、圧倒的な力の差を見せつけられていました。一刻も早く内政を整える必要があり、他国と戦争なんてとんでもないと考えていました。この考えの違いが大久保利通と西郷隆盛の対立です。

結果として、西郷隆盛の朝鮮派遣は取り消しになりました。西郷隆盛は仕事をやめ、故郷の鹿児島へ帰ります。新政府に不満を持つ旧藩士を集め、外国との戦争が起きた時のために準備していたのです。

 

武士たちのガマンの限界

そんな時、明治9年に廃刀令が出されました。これで、武士は刀を持つことができません。これに我慢の限界がきた武士たちの中には決起を唱えるものが現れました。

その度に、西郷隆盛は血の気盛んな武士たちをなだめていたのです。

そんな中、政府も各地の状況を知る必要があります。状況を知るために密偵を派遣しました。しかし、私学校の生徒が密偵の存在に気づき、逮捕しました。密偵が持っていた電報には「ボウズヲシサツセヨ」と書かれていたのですが、「視察」を「刺殺」と解釈してしまいました。

普段から不満がたまっていた武士たちにはいい火種となってしまい、爆弾は爆発。西郷隆盛の名の元に挙兵しました。これが西南戦争です。

→ 西南戦争を分かりやすく!原因はなんだった?

これを聞いて大久保利通は最初、理解することができませんでしたが、本当だとわかるとかなり落胆したそうです。利通は西郷隆盛を説得しようと鹿児島に向かおうとします。

しかし、周りからの反対と、多忙すぎる政務のため、鹿児島へは行けず、利通と西郷隆盛は再開することができませんでした。

西郷隆盛は城山で自決して生涯の幕を閉じました。西郷隆盛を知るものは、彼の死を惜しみ、彼の才能を惜しみました。利通は西郷隆盛を死に追いやった長本人として旧藩士に恨まれた結果、明治11年に暗殺されてしまいます。

ともに討幕を目指してきた英傑二人の死としてはとても残念な最後でした。もともとは同じ志を持っていた二人ですが、大久保利通は中央集権国家を目指し、西郷隆盛は徳治国家を理想に掲げていました。最終的なゴールの違いが、このような死を二人にもたらせたのかもしれません。

大久保利通が最後に読んでいたのは西郷隆盛からの手紙だったと言われています。利通は何を考え何を思い、西郷の手紙を読んでいたのでしょうか。

 

 

まとめ

[aside]

  • 大久保利通と西郷隆盛の出会いは陽明学だった
  • 大久保利通はなんども西郷隆盛を救った
  • 征韓論で対立した
  • 最後は敵同士になってしまった

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大久保利通と西郷隆盛は明治時代を切り開くまでは共通の目的がありお互いを助けあいながらゴールに向かって突き進んでいました。しかし、いざゴールしたときには、根本の考え方は違いました。理想が違えば対立します。二人の運命はとても残酷なものになってしまいました。

お互いが悔やんでも悔やみきれなかったかもしれません。最後に出会えてさえいれば話し合いで解決したかもしれません。意地もあったのでしょう。男のプライドは時として非常にやっかいなものになります。

もっと違った終着点があったように感じます。

いずれにしても、大久保利通と西郷隆盛は仲が悪いとかいいといったような次元の関係性ではないことは間違いなさそうです。そういった世間の価値観とは別のレベルの高い関係性であったことは間違いないでしょう。

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