約260年間の太平の世と言われた江戸時代。反乱もほとんどありませんでした。ですから、江戸末期に起きた大塩平八郎の乱は有名です。インパクトのある名前ですよね。
この大塩平八郎に関しては、身長がとても大きかったとか、塩漬けにされたとか、そんな噂が飛び交っています。果たして、本当なのでしょうか?調べてみました。

大塩平八郎の身長は2メートル超えって本当!?
一つ目の噂。「大塩平八郎の身長は2メートル17センチあった」というもの。
結論を言いますと、これは信憑性が乏しいです。
「尺」の単位計算ミス!
「大塩平八郎の身長が2メートル17センチあった!」という噂が出回っています。しかし、発育の良い現代でさえ身長2m越えは珍しいことです。まして江戸時代となると、ちょっと疑わしいですね。
で、ひとつ考えられるのは、単位換算の段階でのミス。
江戸時代に用いられていた長さの単位は「尺」なので、大塩平八郎の身長に関する史料があったとすれば「尺」で表記されていたはず。
ここで気を付けたいのは、「尺」にはいろいろあったということです。「曲尺」の他に「鯨尺」、「竹尺」、「鉄尺」などなど。煩雑だったので明治政府は「曲尺(かねじゃく)」に一本化しました。
曲尺では 一尺=30.3㎝ となっていますが、鯨尺では 一尺=37.8㎝。例えば、曲尺で測った数値を鯨尺でセンチメートルに換算すると約1.25倍大きくなってしまいます。逆算すると、大塩平八郎の身長は 217㎝ ÷ 1.25 ≒ 174㎝ となります。
これでも、当時としては大きい方ですね。
大塩平八郎は中肉中背?
ところが、出所が明らかでない217㎝という数字よりも信憑性の高い史料があります。大塩平八郎が乱に失敗して逃亡している時、町奉行所が全国に手配書を配っていますが、その中に容貌に関する記述があるのです。
「年齢四十五六斗 顔細長キ色白キ方 眉毛細ク薄キ方 額開キ月代厚キ方 眼細キ有之鼻常躰 背格好常躰中肉 其節之着類鍬形付甲着用黒キ陣羽織其余着用」
最大の特徴であるはずなのに「背がデカい」って、どこにも書いてないですね。それどころか「常躰中肉」。これは174㎝ さえも怪しいところです。
大塩平八郎は塩漬けにされていた?
二つ目の噂は、「大塩平八郎は塩漬けにされていた」。こちらは本当です。
大塩平八郎の他にも塩漬けにされた人がいた!
江戸時代は、重罪人が審理中に亡くなった場合、遺体は塩漬けにして長期保存されていたようです。
例えば、吉良義周。あの有名な赤穂浪士の討ち入りで殺された吉良上野介義央の養子。討ち入りの時は18歳で、屋敷内で応戦。負傷しましたが、命は助かりました。それでも、その時の対応は「不届き」と判断され、吉良家は改易。義周は高島城(長野県諏訪市高島)に幽閉。ここで亡くなったため、遺体は塩漬けにされて運ばれ、検死を受けています。
他にも、シーボルト事件に関与したとして投獄された天文学者の高橋景保は、獄死したために塩漬けにされています。約一か月後に改めて引き出されて、罪状申し渡しの上斬首刑に処せられました。この場合、公式記録には死因は斬罪という形で記されるので、塩漬けになったことは分かりにくくなっています。
つまりは、塩漬けは特筆することもない通常の処理。大塩だったから塩漬けというわけではなかったのですね。
塩漬け遺体をはりつけにした!
大塩平八郎の場合、火薬を用いて燃え盛る小屋で短刀を用いての自決であったため、遺体は本人と識別できない状態になっていました。そのため、生存説まで飛び交いました。
幕府の吟味は、乱の関係者が数百人に上ることに加え、未曾有の大事件であったため、大坂町奉行所で審問・調書作成を行ったものを江戸に上申しやり取りするなど手間がかかり、処分は事件発生後一年半後にようやく決定しました。
この間の勾留環境は過酷を極め、処分決定時まで生きていた決起首謀者は、門弟で同心であった竹上万太郎だけ。死亡した決起参加者の遺体は大塩と同様に塩漬けにされ保存されました。

そんなわけで、大塩以下18名の塩漬け死体と竹上万太郎の合計19名が引廻しの後に飛田刑場で磔となりました。
大塩平八郎の乱
大塩平八郎の乱は、天保8年(1837年)に、大坂町奉行所の元与力の大塩平八郎(1793年-1837年)とその門人たちが起こした反乱です。旗本が出兵した戦としては島原の乱(1637年 - 1638年)以来ということで、実に200年ぶりの合戦でした。
当時の状況
前年の天保7年(1836年)まで、天保の大飢饉のため、甲斐国の「天保騒動(郡内騒動)」や、三河国挙母藩の「加茂一揆」など、各地で百姓一揆が多発していました。奥羽地方では10万人の死者が出たとも言われています。
にもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していました。さらに、利を求めてさらに米の買い占めを図っている豪商もいました。
時代劇でしたら、黄門様とかが登場する状況なのですが、残念ながら現実はそうはいきません。
正義漢の平八郎
大塩平八郎は大坂東町奉行の元与力でしたが、この時には養子の格之助に家督を譲って隠居していたようです。歳は40過ぎですが、当時は隠居する年齢だったのですね。
陽明学者でもあり、私塾もやっていたようですから、悠々自適の楽隠居だったのではないでしょうか。しかし、正義漢の彼は困窮する民衆を黙って見ていることができませんでした。奉行所に民衆の救援を提言しましたが拒否され、仕方なく自らの蔵書5万冊を全て売却して救済に当てました。
しかし、奉行所の反応は冷ややかでした。
武装蜂起
怒り心頭の大塩は、家財を売却し、家族を離縁し、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えました。私塾の師弟には軍事訓練を施し、自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、決起への参加を呼びかけました。また、大坂町奉行所の不正や、役人の汚職などの告発状を書き上げ、江戸の幕閣に送付。
天保8年2月19日(1837年3月25日)に門人、民衆と共に蜂起(大塩平八郎の乱)。しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなったこともあって、当日のうちに鎮圧されました。
逃亡そして自決
大塩は戦場から離れて逃亡。数日後、再び大坂に舞い戻って下船場の靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏しました。1か月余りの後、美吉屋の女中がいつも2人分の食事が余分にあるのを不審に思い密告。役人に囲まれる中、養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自決しました。享年45。
まとめ
- 大塩平八郎の乱(1837年)は、島原の乱以来、200年ぶりの乱だった。
- 当時、天保の大飢饉で民衆はとても困っていたが、奉行所は無策な上に、米を買い占める豪商までいた。
- 大塩平八郎は私財をなげうって救済に当たったが、奉行所の態度は変わらなかった。
- 意を決した大塩は家財を処分、家族とは離縁し、門下生や農民には檄文を回し、幕府には告発文を送り、武装蜂起した。しかし、密告もあり、すぐに鎮圧された。
- 一か月余りの逃亡の末、大塩は養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自決した。
- 大塩平八郎の身長は、2メートル17センチだったという噂があるが、考えにくい。
- 江戸時代には長さの単位の「尺」もいろいろあったので、メートルへの換算ミスということも考えられる。
- 大塩が逃亡中に出された手配書には、最大の特徴であるはずの「背が高い」という内容は一切無い。おそらく、当時の基準でも中肉中背だったのではないか。
- 大塩が塩漬けにされたのは本当。江戸時代、重罪人が審理中に亡くなった場合、その遺体は塩漬けにして長期保存されていた。
- 他にも吉良義周(吉良上野介の養子)や高橋景保(シーボルト事件に関与した天文学者)などが塩漬けにされている。
- 大塩平八郎の乱の審理は一年半を要し、拘留中に首謀者は殆どが亡くなり、例によって塩漬けにされた。大塩以下18名の塩漬け死体が磔にされた。
戦国時代には、自分の手柄を示すために敵の首級を持ち帰ったようですし、大将の首であれば塩漬けにして保存して首実検したようです。検死のために塩漬けにするという方法は、その流れを考えれば納得はできます。
しかし、死体に対して磔をしたというのは驚きました。見せしめの意味もあったでしょうから、見物人もいたのでしょう。公開処刑ですね。焼死体を塩漬けにして一年半置いたものなんて…想像しただけでゾッとします。
さんまの塩焼きを食べる時、しばし考え込んでしまいました(笑)。