大谷吉継は大谷刑部の異名でも知られており、石田三成と共に天下人豊臣秀吉に仕えた戦国武将です。
彼の肖像画を見た事ある人はあることに気がつくハズです。
「あれ?白い頭巾被ってる・・?」
「上杉謙信のパクリやん!」
実はこの白い頭巾、大谷吉継の病気が関係していたのです。
この記事では大谷吉継の病気・そして大谷吉継とよく一緒に出てくる石田三成についても合わせて解説していきます。
戦国時代一の義人 大谷吉継の見事な生き様をごらんあれ!!
大谷吉継の病気の真相
それはハンセン病だったからです。
ハンセン病は古くから差別の対象とされていました。
- 「業病(治りにくい病気)」
- 「天刑病(かつて不治とされていたハンセン病)」
と言われており、発病理由は前世の罪で発症するものだと考えられていました。どうしてそう考えられていたか・・・?それは病気による外見の問題です。
ハンセン病は、熱に弱いことから初期症状は、皮膚に白・赤・茶色の斑紋が出ます。そのままにしておくと腫れ物ものようなものが出ます。さらに悪化すると顔や手足の神経にも影響し、転倒しやすくなり、その時できた傷が化膿して、強い悪臭を放ちます。今では、治療法がありますが、戦国時代には、なかったので大谷吉継は、大変苦労したと考えられます。
大谷吉継が、白い頭巾を巻いていたのは、ハンセン病で崩れた顔を隠すためだとの説が有力です。
大谷吉継は、ハンセン病が進行しており、目も不自由にもなりました。関ケ原の戦いでは、足腰が弱り、輿に乗って指揮したという記録が残っています。
石田三成との関係は?
石田三成と大谷吉継は、お互い認め合い、深い絆で結ばれた友人同士でした。
2人はどのように深い絆で結ばれていったのでしょうか。
石田三成と大谷吉継の共通点
二人は、同じ近江国(現在の滋賀県)の出身と言われています。
豊臣秀吉が出世し近江国に拠点を移したとき、石田三成と大谷吉継が秀吉に仕えます。大谷吉継は、石田三成の口利きで豊臣秀吉の小姓(こしょう)になったと伝わっています。
また、2人は若い頃から交流があったとも考えられていますね。
[aside]
※小姓・・・昔、身分の高い人のそばに仕える人。平時には秘書のような役割もこなす。
[/aside]
共に行動する事が多かった
石田三成と大谷吉継は、共に豊臣秀吉の小姓になり、のちの関ケ原の戦いでも大谷吉継は、西軍で戦います。
仕事面でんまり衝突することはなかったと記録に残っており、仕事面でも二人で切磋託しながら豊臣秀吉を支えていました。
縁戚関係があった。
石田三成は、真田昌幸(真田幸村の父親)と義兄弟。大谷吉継は、真田信繁(真田幸村)の妻が大谷吉継の妻と縁戚関係がありました。
真田幸村も関ケ原の戦いで西軍に属し、戦死しています。真田家関係で縁戚だったと判ります。
次は、石田三成と大谷吉継の逸話をご紹介します。
豊臣秀吉が催した茶席での出来事
彼が、業病(治りにくい病気)になってからの事です。
豊臣秀吉主催で茶席を開き、大谷吉継は、参加していました。茶席では、お茶の回し飲みをして次の出席者が飲みます。
しかし、大谷吉継は、病気を患っており、お茶の回し飲みをすると病気が映ってしまうと、彼よりあとの出席者は茶碗に口をつける振りをします。これには、彼も気づいていました。
石田三成の番になると石田三成は、臆することもなく茶碗に口をつけて飲みました。
これに大谷吉継は感銘と受けたと言われ、石田三成と大谷吉継の逸話の中でも有名な話になります。
これは並大抵の人は出来ない行為だと思います。いくら交友関係があったとはいえ、当時差別の対象だったハンセン病患者の後に口を付けて飲むんですよ。
周りが口をつけたフリをする中、臆することなく口を付けて飲むとは・・・当時では並大抵のことではないでしょう。二人の関係がいかに深いかが窺えます。
石田三成と大谷吉継は、衆道
二人は、男色だったという逸話がありますが、この話は江戸時代から出て来た話です。
[aside]
※男色・・要するに今でいうゲイみたいなもの。当時は全然珍しくなかった。あの上杉謙信も男色として有名である。
[/aside]
関ケ原の戦いで挙兵を思いとどまらせるため、佐和山城を訪れる。
大谷吉継は、石田三成に挙兵をやめるように佐和山城を訪れ、優しく挙兵をやめるように言葉をかけますが、石田三成の強い覚悟を聞いて大谷吉継は、彼の味方になります。
彼の味方になったのは二人で豊臣秀吉に仕えた旧知の中で友情があったからでしょう。
二人は,どちらも豊臣家に恩があります。
恩を大事にして豊臣家を存続させようとしていました。二人共「義」を大事にしていたと私は、考えています。
大谷吉継の歴史
生い立ち
大谷吉継は、出自は、はっきりとしていませんが近江国(現在の滋賀県)で産まれたとされています。
豊臣秀吉の小姓となり、3年後に中国攻めに参加し、賤ヶ岳の戦いの前に敵を調落させることに成功にし、官吏面の才能を買われるようになりました。
大谷吉継の家紋は、二種類あった。
大谷吉継の家紋が使った二つの家紋についてご説明します。
一つ目は、北条早雲も使用した対い蝶紋(あかいちょうもん)を家紋にしていました。
対い蝶紋の蝶紋は、平家が仕えていた事で有名です。大谷吉継は、もともと鷹の羽を家紋としていましたが、豊臣秀吉が関白になってからこの蝶紋に家紋を変更しました。
最初に大谷吉継が家紋にしていたのは、鷹の羽です。鷹の羽ですが、多くの人物が家紋にしたことで有名です。五大紋の一つに数えられます。
そして鷹の羽には、勇敢という意味があります。
最期まで友情を大事にして戦場で散った大谷吉継らしいです。
大谷吉継の最後。
大谷吉継は、関ケ原の戦いで友である石田三成の西軍に属しました。
関ヶ原の戦いにも錚々たる大名たちが集まりましたが、その中の小早川秀秋に不穏な動き・・・!徳川家康の方に寝返るの可能性がありました。
結果は予想通り。
小早川秀秋は、西軍から東軍徳川家康の方に寝返り、西軍が不利になりました。
大谷吉継の陣営は、小早川秀秋の隣にあり、一気に大谷吉継の陣営に15000の大軍と裏切りに応じた4500が攻め込んできました。
大谷吉継は、指揮をとり、二度大軍を押し返す程の働きをしましたが、小早川秀秋の裏切りにより、西軍は、混乱し主力だった部隊が次々と壊滅していきました。彼は、西軍の敗北を悟り、小早川秀秋に恨み節を残します。
「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん(人の顔をしていても心はそうではない。小早川、お前の事を呪ってやるからな。)」
そう言って切腹。42歳で生涯を閉じます。
さすがの大谷吉継も裏切った小早川秀秋を許せずにこの恨み節を残したのでしょう。この恨み節のなんとも強烈なコト・・・!いかに恨んでいたかが伺えます。義の人 大谷吉継だからこそ裏切りが余計に許せなかったのかもしれません。
まとめ
- 大谷吉継と石田三成の間には友情があった
- 大谷吉継の病気は当時不治の病とされたハンセン病だった
- 白い頭巾はハンセン病による外見の問題を隠すためだったと考えられている
戦国時代最後の戦場を駆け抜け、義を重んじた戦国武将大谷吉継の病気の真相と、石田三成との友情をまとめてみました。
大谷吉継は、関ケ原の戦い前夜に石田三成と会い、お互い生きると約束を交わしましたが・・・お互い死を覚悟してこの約束を交わしたと思います。いつ裏切りで命を落とすか分からない時代でしたから。
この時代、裏切りが当たり前の仲で友情や義を重んじるからこそ、こうやって後世にも彼のコトが伝わっているのでしょう。白い頭巾を被った特徴的なルックスだけでなく、彼の義を重んじる性格も、歴史好きの間で語られ続ける魅力なのだと思います。