大谷吉継。頭巾を被った特徴的な外観が第一印象に残る歴史人だが、実は義の人である等、意外と心くすぐるエピソードが満載。
外見や病気の話など色々含めて、彼が今日まで語り継がれる理由だと思う。
さて、今回は大谷吉継の名言について。
最後、関ヶ原で裏切りにあい、切腹の前に強烈な恨み節を残していった彼だが、どんな名言があるのだろう?
また、大谷吉継の子孫はどうなったのかもチェックしていきます!
大谷吉継が遺した名言
戦国時代一の義人である大谷吉継が遺した言葉と意味をご説明していきます!!
「大将の要害は徳にあり。徳あるところ、天下これに帰す」
この言葉は、関ケ原の戦いに備えて、石田三成が居城である佐和山城を改修しようと考えていた所にかけたものです。
本当に固まった城とは大将が持つ人望であり、人望がある人のところに天下は巡ってくるという意味です。
石田三成は、はっきりと言ってあんまり人望がなく、慕われるような人間ではなかったようで・・・筋違いの行動をしようとしている彼を放置しておけなかったのでしょう。
言われたら「ガーン・・・」となる言葉ですが、熱い友情で結ばれた友人だからこそ、キビシい言葉をかけたのだと思いますね。
「金のみで人は働くにあらず」
大谷吉継が石田三成にかけた言葉。
三成は、利益(金や地位)によって人を働かすのは、得意だけど、戦いにおいて人を働かすのは金ではなく大将の能力と人望であるという意味です
この言葉、現代でも通ずる所がありますね。優れた企業のトップやリーダーは、人望や能力が優れているケースが多いです。当時でいえば徳川家康に当たるでしょう。
金や利権だけで人を動かすと、カンタンに崩れますし、関係も長続きしません。「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉もありますからね・・・石田三成はトップに立つ器では無かったのでしょう。現代にいたとしてもおそらく会社を潰すタイプですね。
(あ、でも石田三成にも良いエピソードがあるんですよ。タダのダメ武将ではありません)
人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん
これは大谷吉継が関ヶ原で破れ、切腹する前に残した言葉です。
戦のさなか裏切った小早川秀秋に対しての恨み節となっております。
「人の顔をしていても心はそうではない。小早川、お前の事を呪ってやるからな!!!!」という意味です。
小早川秀秋の裏切りのせいで戦に破れたとも言えますから、これだけの恨み節を残しても不思議ではありませんね。
大谷吉継の辞世の句
次は、大谷吉継が遺した辞世の句をご紹介します。
この句は、大谷吉継と主従関係にあったとされる平塚為広とセットになっています。
平塚為広が大谷吉継に送った句
名のために(君が)棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば
(意味)永遠に生きられる訳ではないのだから、君の為に捨てる命は惜しいはずがない
これに対して、大谷吉継は・・・
契りあれば六の巷にまてしばしおくれ先たつ事はありとも
(意味)約束通り来世の入り口でしばらく待っていてくれ、遅れて、また先に死ぬことがあっても。
と返しの句を読んで自害したと伝わっています。
義を重んじる大谷吉継らしい句ですよね。
大谷吉継の家族
妻は、居ましたが名前が不明・・・
側室が居たのかは判明しておりませんが子供はいました。
- 長男 大谷吉勝
- 次男 大谷頼継
- 三男 大谷泰重
- 長女 竹林院
息子三人、娘一人でした。
長男吉勝と次男頼継は、吉継と共に西軍に属し戦闘します。
長男の吉勝は、関ケ原の地から逃げ出す事に成功し、大谷領の敦賀へ落ち延びます。その後 放浪生活を送り、大阪冬の陣・夏の陳に参加し、真田幸村と前線で戦い戦死したと伝わっています。
次男の頼継は、関ケ原の戦いの後は行方不明で戦死又は病死したとされています。
三男の泰重は、産まれも亡くなった日も不明で謎が多いようですが、息子がいたらしく、息子は越前の武家に仕えていたとあります。
長女の竹林院は真田幸村の正室です。真田幸村との間に二人の息子、三人の娘に恵まれ、九度山にも幸村と移住しました。九度山での厳しい生活の中でも彼女は、幸村と幸村について来た家臣たちを支えます。
大谷家と真田家は、深い関係にあり、長男吉勝も夏の陳で真田幸村と前線で戦い戦死しています。
大谷吉継の子孫は現在もいるのか??
大谷家は、関ケ原の戦いの結果、大名家としての立場を失います。
しかし、関ケ原の地を脱出した長男吉勝は、放浪後大阪夏の陳に出陣する為、大阪城に入城します。
吉勝は夏の陳で100名の兵隊の指揮を任されるのですが真田幸村と共に戦死しました・・・
大谷吉継の直系の子孫は、大阪夏の陣で絶えましたが、大谷家には、夏の陳で戦い越前藩に仕えた子孫がおり、傍系の大谷吉継の子孫は福井県に残りました。
現在も大谷家は存在し、子孫が大谷家の当主となっています。
大谷吉継の首塚は?
吉継の首塚は、滋賀県長浜にあります。
吉継は敦賀に逃げる途中、敵に首を渡らないように部下であった湯浅五助に介錯を頼んで、この地に首を埋めたとされています。
当時の武将は死んだことを悟られないように首を残さなかったり、逆にカムフラージュとして複数の首を残したりしています。
自分が死んだ、死なないがその後の政治や戦に大きく影響することを考えてのことなのでしょう。当時は今のように本格的な捜査をできるわけがありませんから、本人が死んだという確証がなければ、死んだと判断するのは難しいです。
ただ死ぬだけでなく、知略をめぐらして色々考えているところが面白いですよね。
まとめ
大谷吉継の名言
- 「大将の要害は徳にあり。徳あるところ、天下これに帰す」
- 「金のみで人は働くにあらず」
- 「人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん」
大谷吉継の子孫
- 関ケ原の戦いで直系の子孫はいなくなる
- 傍系の子孫が越前藩に仕える
- 福井県に大谷吉継の子孫は残っている
- 現在も大谷家は、存続されている
大谷吉継の言葉は、石田三成を諭し考えるように言っている言葉です。吉継は三成の為を思って挙兵を止めたかったのかもしれません。
しかし吉継は、三成の意志を汲んで逆に挙兵に参加すると決意しました。当時、裏切りや陰謀が渦巻いた戦国時代で自分の利益より友情を取ることはどんなに苦悩したのでしょうか?
また、戦国時代、敗将の末裔が残っているのは、珍しい事です。当時は遺恨を遺されないように女、子供関係なく始末されている時代でしたから。
話は変わりますが、名言って現代でも通ずる所があるから不思議ですよね。金や利権で人を動かそうとする人、人望や能力で人を集められる人・・・戦国からかなりの年月が経っていますが人の本質は変わらないのかも知れません。