応仁の乱は室町幕府の将軍跡継ぎ問題や、守護大名同士の争いが複雑に絡み合って起きた戦いです。
ただ、戦国時代の戦いに比べると少し地味で、世間一般からはあまり注目されていなかったりします。
応仁の乱と言えば、戦国時代のきっかけを作った重要な戦いでした。
しかし、その勝敗については賛否両論あります。
今回は歴史マニアの私が、応仁の乱の結果について、私のなりの解説を加えて紹介していきたいと思います!
応仁の乱ってどんな戦いだったの?結果は?
応仁の乱をおこした主要な対立としては、
- 足利家の将軍争い(義尚vs義視)
- 畠山家の家督争い(政長vs義就)
- 斯波家の家督争い(義敏vs義廉)
- 赤松家と山名家の領地争いと細川勝元と山名宗全の対立
このあたりを挙げることができます。
1 足利家の争い
これは8代将軍足利義政の弟義視と、将軍と日野富子との間に生まれた息子足利義尚との9代将軍をめぐる対立です。
戦いの3年目以降、義視は西軍に、義尚は東軍に属していました。
結果的には足利義尚が9代将軍に就任し、義視は西軍方の土岐成頼に連れられて、美濃へと下りました。
2 畠山家の争い
また、畠山家の争いが最も根深いものですが、これは基本的に将軍義政の優柔不断な命令が原因でした。
1460年に義就が将軍の命で失脚すると、政長が家督を継ぎ、管領に就任します。
しかし、1466年に今度は山名宗全を筆頭とする義就派によって政長が失脚。将軍はそれを追認してしまいます。
戦いの末、管領の職は東軍の畠山政長が手に入れましたが、実権はあまりなかったようです。
2人はその後も争いを続け、河内や大和、山城を巡って戦を繰り広げていきました。
3 斯波家の争い
斯波家では、惣領家が早死を繰り返したため、遠い親戚が家督を争いました。
結果、東軍の斯波義敏が家を継ぎますが、領国のうちの越前を朝倉孝景(西軍、のちに東軍)に奪われ、尾張国・遠江国を支配するのみとなってしまいました。
一方で西軍の斯波義廉は戦後の1478年に勢力を失って消息不明となり、以後記録から姿を消しています。
4 赤松家と山名家の領地争いと細川勝元と山名宗全の対立
赤松家と山名家による播磨をめぐる争いは、嘉吉の変で山陰の山名宗全が播磨の赤松満佑を滅ぼし、それを領土に編入したところから始まりました。
細川家は赤松家と姻戚関係にあったため、赤松家を復興させようとして山名家と対立したのです。
結局、一族の赤松政則が細川の意を受けた将軍義政の命で大名に復帰するのですが、播磨をめぐる赤松と山名の争いは乱後も続いていきました。
また両家は四職の家柄ですが、侍所頭人には東軍の赤松政則が任じられました。
三管である旧勢力の細川家と、明徳の乱で勢力を落としたのち、持豊一代で急速に勢力を伸ばした山名家との間の争いは、共通の敵であった畠山持国が失脚してから始まりました。
伊予国河野家の家督争いに対して、山名宗全が細川勝元とは別の人物を推したり、先述のように細川勝元が山名家の仇敵赤松家の復活を目指して山名が反発するなど、多くの軋轢が発生しています。
いずれも将軍が調停することで解決していたのですが、その将軍も1466年の文正の政変で政治力を失うと、翌年両家は戦闘へと突入していきました。
この争いは乱の途中で二人が死去すると落ち着きます。
戦争を主導していたはずの両家は、乱の途中で他の家を差し置いて勝手に和睦してしまったのです。
当然、乱以前にもこのような家督争いなどの対立はありますが、いずれも将軍による調停で解決していました。
将軍が優柔不断であったことが乱の発生の最大要因でしょう。
乱を拡大させた2つの理由
その乱を拡大させた理由としては、次の2点があります。
ひとつは、主導する細川家と山名家の両家がそれぞれ別の大姻族集団を率いる立場であったことで、多くの大名を戦争に巻き込んだこと。
ふたつめに、全国におもねく様々な対立が、応仁の乱を利用して、逆の陣営として戦うことでの解決を目論んだことです。
さらに、両陣営が新興勢力を今までのようにつぶすのではなく、むしろ積極的に味方にとりこんだため、それが下剋上の風土を作り上げていったことも乱の結果として非常に重要です。
その結果、将軍権力は弱体化し、在京していた大名はほとんどが領国に戻りました。
実力で領国を広げていく時代、戦国時代が始まったのです。
ここまで解説してみても、なんだか複雑でよくわからないといったところが現状です。
応仁の乱は1つの戦いだけでなく、多くの人物が対立関係にあったため、どの戦が勝ったとか、負けたとかが判断しにくいのです。
専門家の見方としては、山名家は以前ほど幕政に関与できなくなったことを考慮に入れ、実質東軍の勝利ではないかと言われています。
応仁の乱のその後は⁉︎
応仁の乱で官職があがったり、領地が増えたりしたような人物は誰ひとりいませんでした。
これって戦なのに、なんかちょっと変ですよね?
というのも、元々将軍の後継者を決めるだけの話が、あいつが気にくわないとかやっつけてやろうみたいな気持ちが増大して、天皇まで巻き込んじゃった戦いです。
最終的なゴールはあまりなかったように思います。
次期将軍の希望を奪われた足利義視は、はじめこそ義政に協力する形で東西両軍の和睦に奔走していました。
しかし、義政の側近によって義視の立場は徐々に危うくなってしまいます。
すると義視は、宗全の誘いに応じて西軍に寝返り。義政も義視を賊だとみなし、攻撃するように命じるようになるのです。
また、宗全や勝元に誘われた守護たちは、それぞれがお家騒動や領地争いを抱えている身であり、自分が領地を留守にしている間に騒動が余計複雑になったり、同じく京にいる敵に領地を攻められたりしていました。
本当は帰りたいけど仇が目の前に……というジレンマで、後に引けなくなっていたのです。
さらに1473年、乱の首謀者であった山名宗全と細川勝元が相次いで病死しています。
応仁の乱は11年もの長い年月の間、両者が対立していました。
なので、そんな事が起きてもおかしくはないですよね。
両者の死後、すぐに両家の後継者同士で和睦が進められ、この時点で戦をやめればよかったのですが、和睦反対派が大勢いました。
特に西軍の事実上の総大将になった大内政弘は義視を自邸に匿い、戦を続行する姿勢を見せました。
同じ頃、将軍家では義政が正式に義尚に家督を譲ることを決めて隠居します。
これによって次期将軍は正式に義尚に決定し、将軍家の後継者争いは終わります。
義視も早々に富子を通じて義政と和睦しようとしていました。
この流れに続いて、戦闘をやめて帰国する守護がやっと現れはじめます。
ところが大内政弘だけは、依然として勝元の息子・政元と戦いを続行していました。
大内氏は代々細川氏に邪魔ばかりされてきたので退くに退けず、また手ぶらで帰ってしまっては自分の地位が危機にさらされる可能性があったためです。
しかし大将の義視が義政に臣従する意思を示すと、政弘もついには戦う意味を失います。
最後は富子が朝廷に働きかけ、政弘の領国と官職をそのままにし、生きて帰ることを許可します。
こうして政弘は誇りを守ったまま領国に帰ることができました。
これに合わせて残った西軍が一斉に撤退。応仁の乱はようやく終わりを告げたのです。
この乱をきっかけに、日本各地で戦乱が恒常化するようになります。
各地で守護同士の利害がぶつかり合い、権威を失った国主が家臣に殺されるなど、下克上が当たり前の時代になっていくのです。
一方、京の都でも将軍家と管領細川氏の対立が徐々に鮮明になっていき、ついには将軍家が細川氏の家督争いの道具にされるという事態に陥ります。
こうして、わずかに残っていた将軍家の実権は完全に失われました。
ここから日本は、100年以上も続く戦国時代に突入するのです。
私が思うに、この戦いは最初から勝敗がつかない戦いだったので、引き分けも何もないだろうという考えです。
ただ、両者引くに引けない事情があったため、戦いが長引いた。
それを終わらせたのはこの長い年月だったのではないでしょうか。
1467年に始まった応仁の乱は、歴史の授業でこう覚えるそうです。
『人よ空しい(1467)、応仁の乱』
戦いのきっかけはいつも、人の強欲さから生まれるものなんですね。
まとめ
- 応仁の乱は勝敗をつけられるような戦いではなく、その結果は長い年月を経て徐々に終結していった。
というのが、今回のまとめです。
なんだか悲しい終わり方ではありますが、真実はいつも私たちの意表をつかれるものばかりです。
この記事をきっかけに、この戦に興味を持った方はもう少し調べてみてください。
また面白い真実がまた出てくるかもしれませんよ。
今回は応仁の乱の結果について、歴史マニアの私が自分なりの視点で解説させていただきました!