明治時代

坂本龍馬の妻・おりょうとは?どんな人物だった?

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幕末のヒーロー・坂本龍馬

激動の時代を駆け抜けた彼にも一人、最愛の妻がいました。

彼女の名前は楢崎龍(おりょう)

幕末のヒーローが惚れ込んだ女性は、一体どんな女性だったのでしょうか。

 

龍馬とおりょうの出会い

おりょう」こと楢崎龍は、京都で生まれ育ちました。

父親は皇族も担当する医者であり、幼少期は華道や茶道を習う裕福な生活をしていました。父親の楢崎将作は勤王活動も行なっており、脱藩浪士の面倒をよく見ていました。坂本龍馬もお世話になっており、その時におりょうと出会ったとされています

しかし父親が亡くなると生活は一変。

あっという間に生活は苦しくなり、おりょうは5人兄弟の長女として家族を養うために奮闘しました。妹が借金取りに連れて行かれ、女郎にさせられそうになったのを、おりょうが刃物を持って助けたという話は有名なエピソードです。

そんなおりょうを見て龍馬は、お世話になっていた京都・伏見の寺田屋の女将、お登勢に彼女の一家の面倒を見るように依頼をします。

お登勢はこの依頼を引き受け、おりょうを養女にし、寺田屋で働かせていました。寺田屋は坂本龍馬が定宿にしていた船宿で、ここで働き始めたおりょうをさらに深く知ることとなり、元治元年(1864年)二人は結婚しました

 

寺田屋事件、おりょうの有名すぎるエピソード

坂本龍馬とおりょうといえば、真っ先に「寺田屋事件」を思い起こす人は多いのではないでしょうか?

慶応2年(1866年)1月の深夜。犬猿の仲だった薩摩と長州を自身の仲介で軍事同盟(薩長同盟)を結ばせた直後の出来事でした。普段は賑やかな寺田屋周辺も深夜となれば、物音は皆無となります。

しかしこの日、仕事がひと段落し入浴中だったおりょうが外の異変にいち早く気がつきました。

浴室の窓から外を伺うと、片手に提灯、もう片方の手に槍を持った役人数名が、寺田屋の周りをうろついていたのです。

浴室からの物音に気がついた役人の一人が、槍を指し浴室の壁を突き破りました。おりょうは周りに聞こえるように大声を出す一方で、役人は脅しつつもなだめるように「騒ぐと突き刺す」と彼女に伝えました。

かつて借金取りに立ち向かうために刃物を持って行ったおりょうですから、この脅しにひるむことなく「お前らにやられる私ではない」と啖呵を切って裸足のまま庭先へ飛び出して行きました。

その後、建物内に入ったおりょうは裸のまま2階に駆け上がり、龍馬の元へ危険を知らせに行ったというエピソードは有名すぎますね。

ただしこれも、何も着ていなかったわけではなく、着物をひっかけて帯は巻かずに階段を駆け上がったというエピソードも後から出てきています。

どちらにしても自分の身の危険を顧みず、大切な人を助けるためのこの行動は、同じ女性として尊敬してしまいます。

 

日本初の新婚旅行

坂本龍馬とおりょうは、日本で初めて新婚旅行をした夫婦としても有名です。

上述した寺田屋事件で負傷した龍馬は、傷を癒すために、切り傷の治療に良いと伝えられていた薩摩(鹿児島県)の霧島市の「塩浸温泉」へ行き入浴したと言われています。今でも龍馬が入浴したとされている湯船が残っているそうです。

二人は高千穂峰の山頂にある御神体として崇められている、「天の逆鉾」を見るために山へ登っています。坂本龍馬はマメに土佐にいる姉の乙女に手紙を送っており、この新婚旅行についても手紙にしたためています。

この高千穂峰登山については、絵付きで感想を述べています。天の逆鉾について龍馬は「天の逆鉾には天狗の面が付いていて、それはとても面白い顔をしていたので、おりょうと二人で笑った」と手紙に書いています。

また御神体と崇められているにもかかわらず、二人で天狗のお面の鼻の部分を引き抜いて元に戻したことも、手紙に書いています。(あかんやつ)

そして二人は霧島市牧園町にある「犬飼滝」も訪れています。「約100メートルの高さから落ちてくる様子は、この世のものとは思えない」と手紙に残しており、犬飼滝のことを「陰見の滝」と呼んでいます。

龍馬はこの滝を非常に気に入り、約10日間滞在しました。そこで川で魚釣りをしたり、ピストルで鳥を撃つなど楽しく過ごしたと言われています。

二人は旅行中、霧島市霧島田口にある、国の重要文化財にも指定されている「霧島神宮」も訪れてお参りもしています。

乙女にも「とても立派で、歴史を感じさせる雰囲気があるお宮だった」と手紙に書いています。龍馬と一緒だったらどこに行っても楽しい旅になりそうですね…!!

 

永遠の別れ、その後

慶応3年(1867年)11月15日、京都の近江屋で坂本龍馬は、同じ土佐藩出身の盟友・中岡慎太郎と共に何者かによって暗殺されました。その時おりょうは、亀山社中の拠点があった長州(山口県)の下関にいました。

おりょうの元に、龍馬が亡くなったということを伝えられたのが12月2日。おりょうはしばらくは気丈に振る舞っていましたが、法事を済ませ、髪を切り落として仏前に供えると、堰を切ったように号泣したと伝えられています。

龍馬が亡くなった後おりょうは、龍馬と親交のあった三吉慎蔵らの面倒を見てもらっていましたが、1868年(明治元年)には土佐の龍馬の実家に迎えられました。

しかし、義兄夫婦とソリが合わず、わずか3ヶ月ほどで坂本家を立ち去っています。

その後海援隊の菅野覚兵衛と結婚した実の妹を頼りましたが、覚兵衛の米国留学が決まり、翌年土佐を離れます。その後元薩摩藩士や、元海援隊員を頼りますが、長くは同じところにとどまりませんでした。

実はおりょうは、元海援隊士の中ではあまり評判が良くなかったのです…

お世話になっていた菅野覚兵衛ですら、「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒は見られない」と拒否をしたそうです。

おりょうは後年、本当に自分に親切にしてくれたのは、薩摩の西郷隆盛、幕臣・勝海舟、そして寺田屋の女将のお登勢だけだったと語っています。

おりょうは晩年はアルコール依存症状態で、その時に結婚していた西村松兵衛によく、「私は坂本龍馬の妻だ」と絡んでいたそうです。

その後、実の妹の光枝が夫に先立たれておりょうを頼るようになり、松兵衛と3人で暮らし始めますが、やがて夫の松兵衛と妹の光枝が内縁関係となり(最低)、二人でおりょうの元を離れて行きました。

おりょうは明治39年1月、横須賀の長屋で亡くなりました。死因は脳卒中だったそうです。本当に、本当に、おりょうの人生の最良の時は、龍馬と一緒にいたわずかな時間だったのです。

 

まとめ

坂本龍馬の妻、おりょうについて調べてきました。

 

  • 京都の裕福な家庭で生まれたが、父親が亡くなった後は非常に苦労して家族を支えた。
  • 妹を借金取りから救うために、刃物を持って立ち向かうくらいの気丈な性格
  • 寺田屋では自分も危険な目に遭いながらも、龍馬を危機から救った。
  • 龍馬と二人で日本で初めて新婚旅行へ行った。
  • 龍馬が亡くなった後はあちこちに身を寄せたが、最期は一人で亡くなった。

 

おりょうの写真を見ると涼しげな顔をした京美人の印象を受けますが、一方で意思の強そうなキリッとした印象も受けます。

当時の女性としては、自分の意見をはっきり持った、気の強い女性だったのではないでしょうか。だからこそ龍馬という人間に愛されたのかもしれません。

幕末のヒーローが愛した女性は、「男性の後をついていくだけの女性」というわけではやっぱりなかったんですね。

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