江戸時代

鎖国の期間は?オランダだけ貿易を続けた理由ってなんだろう?

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鎖国って諸外国との貿易を止めることなんですが、なぜかオランダとはずっと貿易を続けていたんです!

驚きですよね!?今回は、鎖国の期間オランダと貿易を続けた理由をご紹介します。

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鎖国の期間はいつから?血と涙の先にあるものとは・・!

鎖国の期間は寛永16年から嘉永6年(1639年~1853年)までのおよそ200年なんです。

長いですよね。笑 戦いの連続で、戦争は嫌ってなっていたのがあげられると思います。

人生も同じですよね。波乱万丈より平凡が一番。人々は「平和」を渇望していたと思うんですよ。

もう一つ考えられるのは、徳川家の血筋なのか「念には念を入れる」精神があったからではと私は思いますね。家康は、青年に成長した豊臣秀頼を恐れていたようです。当時としてはかなり大きく197cmもあったそうなんです。今でも十分でかいです。笑 そりゃ家康も恐れますよね。

ここで家康は、豊臣家を根絶やしにしなければ必ず報復されて徳川が滅亡してしまうと思ったんです!それから大阪夏の陣・冬の陣を仕掛けて勝利し、豊臣家は滅亡。その後徳川幕府は何百年もの間繁栄するに至ったんです。

歴史には必ず勝者と敗者がいます。豊臣家は滅亡し、多くの血と涙が流れました。その先には元禄文化という芸術や学問の繁栄をもたらしたと思います。浮世絵など代表的な一つですよね。派手な独特なタッチ。一見変わった手法です。

実は、ある外国人画家に多大な影響をもたらしたんです!なんと、かの有名なゴッホ。言われてみればゴッホの独特描き方は、浮世絵に通じるものがあります!

 

幕府危うし!?鎖国を決意させた理由とは?

鎖国の一年前に、島原の乱という「宗教一揆」が江戸から遠く離れた島原藩(現在の長崎県)と唐津藩(現在の佐賀県)の飛び地であった天草諸島(現在の熊本県)で起きました。

この地方は多くキリスト教を信じるキリシタンが住んでいました。キリシタンの数が段々と増えていくと、幕府は危機感を募らせるのですが・・・ついに恐れていたことが起きます。

天草四郎という若いカリスマが現れ、キリシタンや怒れる農民たちが集団で超弩級の一揆を起こすんですよ!

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家光や家臣たちも、江戸から遠く離れての一揆なのでなんとかなるだろうと軽く見ていたんです。「藩主である松倉勝家がちゃちゃっとやっつけてくれるだろう」てな感じで。しかし事態はなかなか好転しません。

「勝家なにやってんだよ!」と、家光はしびれを切らすんですね。とうとう、老中・松平信綱まで出動させます、、、一揆軍が籠城作戦を取ったことから、信綱は兵糧攻め(食料を途絶えさせて飢え死に追い込む作戦)を断行!

12万という大軍を率いて幕府軍は勝利します。「キリシタンの爪痕は一切残してはならぬ」幕府の強い意思が垣間見えるのが、一揆軍が籠城していた原城という城を跡形もなく破壊させた行為です。「念には念を」の徳川の精神は、島原の乱でも発揮されました。

この一年後に鎖国は開始されたのです。

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幕府は予告を無視した?怪しい船が現る!?鎖国の終焉!

鎖国は当たり前となっていた嘉永6年(1853年)のある日、浦賀沖に今までに見たことがない船が続々と停泊して来ました。その船体は黒塗りで、蒸気機関仕様だったため日本人から「黒船」と呼ばれたそうです。物珍しさから、すぐに見物人で浦賀沖は溢れかえったようで、小舟で黒船まで近づいて接触を試みる人もいたそうです。笑

黒船が浦賀沖に来航する前年の嘉永5年(1852年)に、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスが長崎奉行へある文書を提出しました。文書には「アメリカが日本と条約の締結を求めているので、艦隊を派遣する」との文言が記載されたいたのです。

鎖国から200年も経つと、徳川気質ともいえる「念には念を」は薄れてきたようで、せっかくオランダが「アメリカが来るよ。どうすんの?」って言ってきてくれたのに、奉行所レベルで留め置かれて、幕府上層部は気にも留めなかったようです。いわゆる平和ボケってやつですね。

予告通り、アメリカはペリー総督を率いて浦賀に来航しちゃうんです。どうしようと慌てるんですね幕府は。結局根負けして鎖国は終焉をむかえ、開国へと突き進みます。そもそもペリーは戦争しに来たわけじゃなんですよ。じゃあ目的はなんなのか?

 

【拝啓徳川様】俺たち焦ってます・・・ペリーが日本へやって来た目的とは?

この頃、ヨーロッパでは産業革命が起こっていました。大量に物を生産しなければならないので、どうしても人出が自国だけは足りなくなってくるんです。

そこで、イギリスやフランスが目を向けたのが・・・アジア!インドを中心に東南アジアや清(現在の中国)へ市場を拡大させて、その流れで植民地を狙っていたんです。

イギリスやフランスに比べるとアメリカは出遅れていました。自分たちもどうにかしてアジアに拠点を置きたい!そこで、「そうだ!日本へ行こう」となったんです。笑

人口もアメリカが1416万人なのに対して、日本のほうが2760万人!遥かに人口が多いですね。そんな部分も魅力だったようです。

もう一つの目的は、捕鯨。当時、アメリカでは捕鯨に積極的でした。今では考えられないですよね。捕鯨反対!の急先鋒なのに。笑

そもそもなんで鯨を欲していたのか?やはりここにも産業革命が関わってきます。革命なんで休む暇がありません。夜遅くまで営業を続ける工場が当たり前。夜になれば暗くなりますよね。暗いままじゃあ仕事はできない。まだ電気ではなくランプの時代だったんです。そこで目を付けられたのが、マッコウクジラの鯨油。ランプの灯火としてもってこいなんです。

日本は、「ジャパングラウンド」と言って伊豆諸島から小笠原諸島が捕鯨の格好の漁場だったんです!だからアメリカは漁場も狙っていたんですね。

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オランダと貿易を続けた理由とは?待ち受けたのはしたたかな罠?

鎖国を続けた日本ですが、なぜスペインやポルトガルとは断絶してオランダとだけ貿易を続けたんでしょうか・・・??

それはオランダが布教しない国だったからです。布教を全くしない国だったから貿易をしました。

ポルトガルは積極的にキリスト教を布教しようとしていて、オランダは全く布教しなかった。オランダは布教より貿易!商売繁盛だったんです。笑

日本は布教しない国だったら貿易OKなんですよ。

幕府の考えに私は大いなる誤算があったと思いますね。オランダは意外としたたかだったんです。そもそも、日本の種子島に鉄砲を伝来したのはポルトガルでした。

それから、

アジアでの貿易は日本とマカオを拠点にしていました。日本も、ポルトガルと貿易を深め、朱印船貿易(海外への渡航許可の朱印状を持つ朱印船によって行われた貿易)を推し進めるなどアジアの各地に拠点を置いていたんです。

ポルトガルの順風満々な姿に、快く思わない国が一つ。そう、オランダです。貿易の観点で、この時ポルトガルに差をつけられていました。「俺たちが貿易で優位にたつにはポルトガルと日本邪魔なんだよ」とオランダは考えていたのです。

オランダはアジア貿易を独占したくてしょうがなかった。そこで、幕府に対し再三に渡って

俺たちはあなたたちの見方だよ。布教もしない。だから俺たちとは貿易を続けて、日本からポルトガルは追い出して、鎖国しちゃいなよ

と悪魔のささやきを続けるんです。

オランダ手段を選びません!島原の乱にも援軍を送っています。貿易独占のためならなんでもやります。結果、日本は鎖国を決意し貿易場所は出島に限定されたものの、オランダはポルトガル追い出しに成功するんですね。

日本は、オランダの「罠」にまんまとはまったわけです。よく「島国根性」とか言われたりしますが、視野が狭かったなあと思いますね、、、

 

 

まとめ

  • 鎖国の期間は、島原の乱の一年後の寛永16年(1639年)から黒船来航の嘉永6年(1853年)まで
  • オランダと貿易を続けた理由は、キリスト教を布教しないと約束してくれたから。実際は貿易を独占したいというオランダ側の思惑が隠されていた。

バブルがあっという間にはじけてしまった平成の世から見ると、200年あまり鎖国が続いたっていうのは改めて凄いなあと思いました!

なにより、オランダのしたたかさ、怖いです。テレビドラマのタイトルにもなった「フレネミー」だと思いましたね。友達を装って近づいて来る敵!みなさんフレネミーには気をつけましょう。笑

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