そもそも鎖国ってなに?江戸時代の出来事だっけ?なんとなくこのようなイメージがあると思います。
そこで、鎖国とはどんな目的や理由で行われたのか?メリットはあったのかをご紹介していきたいと思います!
鎖国の目的とは?幕府を守らねば!秀忠が行った大政策とは!
鎖国というと、なんか難しいかも。そう思う方もいるかもしれません。
今ではなんと言い方が、「鎖国」から「幕府の対外政策」って名前に変わったようなんです!心なしか淋しいです。笑 私は鎖国のほうがしっくりきますね。
この鎖国。始めたのって誰?なんの目的のために?そう思う方も多いと思います。
具体的には、二代将軍・徳川秀忠と三代将軍・徳川家光親子で完成された、日本と他の国々との貿易や交通を禁止した対外政策のことなんです。まずは、秀忠がどのような目的で鎖国の原型を作ったのかをご紹介します!
家康は征夷大将軍になって二年余りで、あっさり将軍職を息子の秀忠に譲って隠居しちゃうんです。信長と秀吉があれほど渇望した将軍の座を。笑
後を受け継いだ秀忠。秀忠は家康と比べると愚鈍なんですね。関ケ原の戦いでも、遅刻をしてしまうという大失態をやらかすんです。家康は激怒ですよ。笑
ここは、大河ドラマの「葵徳川三代」の津川雅彦さんの「秀忠ー!!」って怒っているイメージですね。お笑いの松村邦弘さんも幾度となく物まねしていました。笑
けれど秀忠。根は真面目なんですよね。真面目で親に逆らわないだろうと、長男は早くに亡くなっているから別として、三男なのに跡取りに選ばれたんです。
偉大な父から将軍職を譲り受け、意気揚々なんですね。「自分も父に負けないような政治をしていかないと」と。
その時日本では、キリスト教が浸透していたんです。キリスト教を脅威に感じていた秀忠。西国のキリシタン大名の動きや外国の動きも気になる。将軍になったとはいえ、また関ケ原みたいな戦いがあると困りますよね。まして、外国から侵略を受けたら日本どうすんの!って。
オトボケの秀忠が恐怖の政治家へ変貌・・恐怖政治のスタート
そこで幕府を安泰させるためにキリスト教を禁止して、貿易を独占してしまえと考えるんです秀忠。
一見人間的には、秀忠より家康のほうが怖い人物ではと思われがちなんです。ところが秀忠はヨーロッパの船の来航を長崎と平戸の2港に限定します。さらに元和5年(1919年)に秀忠は、京都の七条河原で、52人のキリシタンを火あぶりの刑に処したんです。その中には幼い子供たちも含まれていました。
秀忠の恐怖政治がスタートしたんです。
私は家康より秀忠のほうが底知れぬ人間の怖さを感じますね。真面目な人ほどたかが外れると怖いとか、そんな感じですね。同じく「葵徳川三代」で観た、秀忠役の西田敏行さんの容量が悪いけど憎めない青年時代から、冷徹な国のトップへと変貌した中年への演じ分けが見事であり怖かったです。
秀忠は鎖国の種を巻いたとすると、完全に鎖国の花を咲かせたのは生まれながらの将軍、純粋培養とも言える三代将軍・家光なんです!ここからは、家光が鎖国を確立させた目的や出来事をご紹介!
鎖国の理由はここにあり!?生まれながらの将軍VS謎の美少年!
家光の治世になっても、まだまだキリシタンはいたんです。
フランシスコザビエルの来日を皮切りとして、九州方面を中心にキリスト教は広まり、キリシタン大名なる者まで誕生。これは幕府にとっては脅威です!一大勢力になりつつあったんですよ。
この頃まだスペインとポルトガルとは、貿易がされていたんですね。しかしどうにかしてこの両国と手を切りたかったんですよ。それは、両国がキリスト教を布教しながら領土を拡大させていたからなんですね。「このままじゃ日本を取られる!」って警戒するんです家光は。
西国大名を中心にキリシタンが結構潜伏していたんです。
家光も秀忠同様脅威に感じていたんですね。なんとかして追い出したいって。
このまま放置すれば自分の代で徳川幕府は無くなると家光は焦るわけです。
幼少の頃おじいさんの家康に可愛がられていた家光。なんとしてでも、幕府を存続させる使命感に燃えていたと思います。
まさに鬼畜の所業!重税・忖度政治
一方で、西国の島原藩と唐津藩の飛び地になる天草諸島。もともとこの地域は小西行長や有馬晴信といったキリシタン大名が統治していた地域なんですが、この時すでに島原は、関ケ原の戦い後、領主が小西行長から寺沢堅高に代わり、天草は有馬晴信から松倉勝家って人に代わっていたんです。
松倉氏が有馬氏から代わって領主になり、松倉家初代領主になったのが、勝家の父・重政なんです。
重政は島原城を築城したり、東南アジアに遠征隊を送ったりしてなにかとお金がかかったんです。そのため農民に過酷な年貢取り立てを始めるんですね。自分で始末しろよって感じです。農民を利用するなと!いい顔したかったんですよ幕府に。現代にも通じる「忖度」ってやつです、、、
ここまではまだ序の口で、この勝家が史上最大の馬鹿息子なんですよ。作物だけじゃなく住宅税とか、ありとあらゆる税の取り立てを始めます!しまいには年貢を納められない農民から、妻や子供を人質に取るんですよ!もう鬼畜ですよね!私許せないです。
でも農民たちは黙ってはいません。前領主で武士から農民の身分になっていた有馬晴信の子孫に密かに相談するわけです。「有馬の旦那聞いてください!おいらたち毎日松倉の馬鹿息子に苦しめられているんです」話し合われた結果、一揆を起こして松倉氏を倒そうとなったわけです。
救世主登場!?若干16歳の少年
戦いとなると、必ず総大将がいますよね?そこで白羽の矢が立ったのが、キリシタンの中でカリスマ的な人気を博していた「天草四郎」という、わずか16歳の少年なんです!いくら人気があったとはいえ、なぜ16歳の少年を?ってみなさん思いませんか?
なんと、四郎少年は前の島原藩主だった小西行長の家臣の子供だったんです!驚きですよね!私も知った時は「マジか!?」って思いました。笑 現在では地元熊本で「小西行長しゃん」、「上天草四郎くん」とゆるキャラにもなっています。運命を感じますね。笑
さて、キリシタンの人々と藩主に苦しめられていた農民たちは結託して戦いを挑みます!乱の直後、島原藩主の勝家は江戸にいたんです。「農民たちのやることだからすぐに収まるだろう」勝家はキリシタンの人々や農民たちを甘く見ていたんですね。
もはやただ事ではない!!幕府も焦る
領民たちにも武器を渡して鎮圧部隊にしようと思いきや、なんとその領民たちも一揆に加わり、しまいには藩士までもが加担しちゃうんですよ。キムタクじゃないけど「ちょ、待てよ!」って勝家はなるわけです。苦笑
すでに三万を超える軍勢になっていたんですね。勝家及び家臣たちは自力で戦えなくなったんです!誰か助けてと、近隣の藩に援軍を願い出るですが、「内政干渉になるんで、自力でなんとかして下さい」と冷たくあしらわれるんですよ。自業自得ですよね。
とうとう、収拾がつかなくなったので、事態を重くみた幕府が乗り出して来ます!最初は、板倉重昌という人が幕府の使者として派遣されます。ところが、地元の大名より重昌のほうが大名としては1万5千石と身分が低かったんです。一大事だというのに大名たちは言うことを聞きません。笑
結局もっと偉い立場の老中・松平信綱が重昌に代わり、使者としてやって来るんです。真打登場です!笑 ここから、事態は急展開します。
キリシタンと農民の一揆軍は、島原城下を焼きつくなどしたんですが、征伐軍が近づいていることを察知して、これは不利だと悟るです。そこで、廃城なった原城という、かつて有馬氏が居を構えた城に、島原と天草の一揆軍が合流して大量の砲弾や食料を持ち込んで立てこもったんです!
この時は、「ポルトガルが援軍を率いて、我らを助けに来る!」と信じていたんです。ところがとうのポルトガルは一向に来ないんです。実は、オランダと葡萄戦争という戦争の真っ只中で、よその戦争まで手を貸せないんですね、、、ここが、連合一揆軍の大きな誤算でした。
そこを逆手にとった幕府軍。ポルトガルと敵対するオランダに力を借りたんです。やはり家康の孫、家光です。知恵があります。もともとポルトガルはカトリックで、オランダはプロテスタントの国。布教活動を行うこともなく、日本と純粋に貿易を望んでいたんです。
「ぐわぁあ・・・」多勢に無勢、連合軍ついに敗退!
とうとう最期の時が来ます。オランダからの攻撃にも奮戦した連合一揆軍ですが、70日目で食料や弾薬が底をついてしまうんです。こんな状態で12万の幕府軍と戦う気力は残されていませんでした。
総大将の四郎少年を始め、一揆に参加した3万人もの人々が皆殺しにされたんです。なんとも悲しいですね。大人になった四郎少年の姿を見たかったものです。
収束した「島原の乱」ですが、幕府は一揆を鎮圧できなかった藩主である勝家に矛先を向けます。「お前がちゃんとしなかったからこんな大変なことになったんだよ!」と。結局、勝家は武士の死に方である「切腹」を許されず、「斬首」という形で最期をむかえました。
農民から見れば極悪人の勝家。自身は江戸から遠く離れた藩の藩主で、なんとか幕府に認められたくて「忖度」したんです。その結果が斬首ですよ。これぞ武士道残酷物語だとも思いましたね。
島原の乱から一年後、幕府はポルトガル船の入港を禁止。オランダと明(現在の中国)の二か国だけと貿易をすることを決め、完全に「鎖国」に踏み切りました。
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鎖国のメリットとは?世間は平和に飢えていた?
鎖国のメリットとはなんなのか?やはり私は「平和」につきると思いますね。
大阪夏の陣・冬の陣を経て、みんなもう戦はたくさんだと思っていたはず。昭和の戦争中も同じだと思うんですよ。長きにわたる太平洋戦争で日本が敗戦して、それから戦後、行動経済成長を経て、平和になりましたよね。
家光までは、武士って感じだけど、四代将軍・家綱からは戦いを知らない。武士から公家っぽくなっていったと思います。だからこそ元禄文化だとか、文化面が華開いたんだと思います。
まとめ
1.鎖国の目的は、キリスト教を禁止して貿易を独占するため
2.理由は、キリスト教を信じる九州のキリシタン勢力及び、ポルトガルなどの諸外国の侵略を防ぐため
3.メリットは、日本に長い平和をもたらし、元禄文化などの独特の文化が華開いた
鎖国って、近代化を送らせた原因みたいな負の見方があるけど、違った見方をすると、戦争はだめ!平和が一番って日本人の平和思想は、案外この鎖国が発端なのではと私は思いました。