江戸時代

桜田門外の変をわかりやすく

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桜田門外の変って何?

簡単に言うと、江戸城の桜田門の外で、井伊直弼(いいなおすけ)が殺されました。ということなんですが、なんで井伊直弼は殺されたの?誰に殺されたの?という疑問がわきますよね。ここではその疑問をわかりやすく、紐解いていきたいと思います。

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はじまりは…

幕末期、幕府は問題を抱えていました。

アメリカなどが、開国を求めてきていたことと、将軍の後継者問題です。

正式には「将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)」と「勅許(ちょっきょ)なしの条約調印」です。                           この将軍継嗣問題。十三代将軍・徳川家定の体が非常に弱く、それを危惧した、水戸藩と井伊直弼大老が、対立をしていました。

水戸藩は藩主の子で聡明な一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ→第十五代将軍・徳川慶喜・一橋派)を推します。

ですが血統論から、紀州の徳川慶福を(とくがわよしとみ→第十四代将軍・徳川家茂いえもち・南紀派)井伊直弼は推していました。井伊直弼は自分が大老の地位に就くと、まず慶福を将軍の継嗣にしました。               そして自分を批判する一橋派に、井伊直弼は「幕府を批判するとは何ぞや!全員処罰!!」という行動にでます。

これが「安政の大獄(あんせいのたいごく)」です。

 

安政の大獄について

「安政の大獄(あんせいのたいごく)」とは、朝廷の許可も得ないまま、「日米修交通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)」を結んでしまったり、大老の地位を利用し自分が推す、徳川慶福(のちの徳川家茂)を将軍の継嗣にしたりと、井伊直弼に多くの批判が寄せられます。

それに対して井伊直弼は、この批判をした人々を次々に処罰していくのです。このことを安政の大獄といいます。

「勅許(ちょっきょ)なしの条約調印」。これが「日米修交通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)」のことです。
朝廷の許可なしに勝手に、治外法権や関税自主権などを、日本が持たないといった、不平等条約をアメリカと結んでしまいました。           当然ながらこれには反発がでます。

特に強硬だったのが、継嗣問題でもめていた、一橋派の水戸藩などがあげられます。「日米修交通商条約」の調印からすぐに一橋派の徳川斉彬(とくがわなりあきら)松平慶永(まつだいらよしなが)達は井伊直弼の責任を問うべく、江戸城に向かいます。

これに対して井伊直弼は不当な登城であると、処罰。また孝明天皇も井伊直弼に対して説明するように命令しますが、これも、無視!!すごいな、井伊直弼。  

このまま放置しておくと幕府の存在自体が危ないと判断し、当時、自身の暗殺計画の噂まで耳に入っていた井伊直弼は、水戸藩を中心に徹底的な制裁を加える決意を固めます。

これが「安政の大獄」の全容と言えるでしょう。

また安政の大獄で最後に処刑された人物は、幕末に活躍する多くの弟子を育てた吉田松陰(よしだしょういん)です。松陰は尊王攘夷の思想を持っており、倒幕を唱えていました。松下村塾から多数の人材を、輩出していました。わずかの間でしたが、高杉晋作(たかすぎしんさく)・伊藤博文(いとうひろふみ)などその後の、明治維新の礎や原動力となり、明治新政府において活躍する多くの人材を、排出することになりました。その塾生名簿は現存していませんが、総計で約90名余りが松陰の教えを受けたと言われている 

しかし、井伊直弼があの時、条約を結んでいなければ、フランスなどの諸外国の、植民地になっていた可能性もあった…ということも考えあわせると、一概に批判はできません

 

そして桜田門外の変に

1860年3月3日、その日は「桃の節句」の祝賀のために、大名が揃って江戸城へ登城する日でした。「桜田門外の変」は、その名の通り、江戸城の入り口となる桜田門のすぐ近くの場所で起こった事件です。

午前9時頃、井伊直弼の行列は、桜田門から500mほどの所にある井伊直弼の屋敷を出発して、桜田門にちょうど入ろうとしたその時、異変が起こります。

桃の節句の大名登城を、見物していた町人や武士に、井伊直弼を狙う水戸脱藩浪士が紛れており、その内の一人が行列の前に立ちはだかりました。

これによって注意を逸らされた、警備兵が前方に移動した時、水戸浪士の一人が、井伊直弼の駕籠を狙って拳銃を発砲し、それを合図に、隠れていた残りの水戸浪士が、同じく駕籠を目がけて切り込みました。

襲撃してきた水戸浪士ら18名に対し、直弼の行列は警備兵20名と駕籠を担ぐ足軽40名の計60名から成る行列。襲撃当時は激しいぼたん雪が降っていたため、警備兵は刀に黒い柄袋と、全身に重い雨具を着ており、水戸浪士の襲撃に素早く対処することが、できませんでした。

その結果、警備兵は次々とやられて、残りの兵士も突然の襲撃を恐れて逃げてしまったため、井伊直弼の駕籠の周りには誰もいなくなってしまいました。井伊直弼自身も最初の発砲で全身に傷を受けており、まともに動ける状況ではありませんでした。                               なぜ水戸藩の浪人が大半かというと、「安政の大獄」で処罰された徳川斉彬が一橋派であり、水戸の藩主だったからです。また十五代将軍になる徳川慶喜も隠居謹慎を命じられています。(地位を退かせ、得た給与を子孫に譲らせること )ちょっとびっくりしました。

 襲撃の戦闘に参加した18人のうち1人が討死に(うちじに)、4人が自決(じけつ)8人が自訴(じそ・自首)残る3人が大きな怪我もなく、のこりの見張り役等と、一緒に京を目指そうとしたのですが、幕府も追跡の手を伸ばし、結局かかわったすべての人が斬首や獄死しました。                    

 

その後は…ちょっと寄り道…

井伊直弼の子孫は今どうなっているのでしょう。お墓は、世田谷区の豪徳寺にあるのだそうです。他にも彦根(滋賀県)に、血がしみ込んだ土を埋めた、供養の場などがあるそうです。家臣は籠の近くにいたものは、最後まで守ろうとした者もいるそうです。 他のものも、深く悲しみました。後は彦根以外の領地栃木にも供養塔があるそうです。ここまで慕われることを考えると、藩主として井伊直弼は、いい藩主だったのでしょう。

また井伊直弼の後は二男が継ぎましたので、血統は守られています。二男の孫が彦根市長になったそうです。

 

 

まとめ

1、「将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)」と「勅許(ちょっきょ)なしの条約調印」が問題の発端だった。

2、安政の大獄で、100人近くの人を処罰した。それにより恨みをかった。特に、一橋派と呼ばれる水戸藩寄りの人達の恨みが大きかった。

3、1860年3月3日に桜田門外の変がおき、井伊直弼は殺害されてしまう。

4、井伊直弼の血は続いている。

悪徳大老と書かれがちな井伊直弼ですが、強引なところも確かにあります。

ですが、諸外国が開国をせまりその中で、もしかしたら、誰よりも一生懸命、幕府を支えようとしていたのかもしれません。いえ、たぶん自分でそうしなくてはならないと、考えていたのでしょう。

たらればになってしまいますが、もし、条約を結ばなかったら、日本は、今日本語を、話していないかもしれませんね。

いえ、日本語自体消えてしまっていたかもしれません。そう考えると一概に、井伊直弼を批判出来ない、嫌いになれない自分がいます。

皆さんはどうかんじましたでしょうか?

少しでも皆さんのお役に立てたのならうれしいです。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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