戦国時代

真田幸村の兜の角やデザインは何なの?

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兜は戦で命を守る意味もありましたが、同時に戦国時代の一種のファッションアイテムの一つでもありました。例えば伊達政宗の三日月の形をした兜とか、直江景継の兜はずばり「愛」です。笑 そこで、今回は真田幸村の「兜」についてご紹介します。

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まるで鹿の角みたい!隠された意味とは!?

みなさん、上記の真田幸村の写真を見て「兜の角が鹿そのものじゃん」と思ったのではないでしょうか。

当時、鹿の雄々しい角が「強そうに見えるし、戦にもってこいじゃない?」と武将たちの間に流行ったのです。幸村は、幽閉生活を送った時期があるのですが、一緒に幽閉されていた父・昌幸から兜を授かったといわれています。

おそらく昌幸は、今は大変だけれど必ずこの苦難を越えられると激励の意味をこめて息子へ贈ったのではと思いますね。

幸村が「鹿の角」を鍬形にしたのは、鹿がいにしえの時代から神の消印とされ、敬われていたからではと考えますね。獣道を雄々しく駆ける姿が神に見えたのではないでしょうか?同じく速ければ、猪でもいいじゃないと思うかもしれませんが、猪では見た目が様になりません。笑 やはり鹿がいいですね。

 

独特のデザイン、六文銭とは?

鹿の角も目にとまりますが、真ん中の銭の目立ちますよね?これは六文銭といい、真田家の家紋でした。六文銭は、副葬品の意味もあったのです。仏教では、あの世で三途の川を渡るときに、一銭もなければ川を渡れなくなります。それで困らないようにという意味があり、亡くなった死者の棺桶に一緒に火葬される風習がありました。

では、なぜ真田家は家紋に六文銭を決めたのでしょうか?それは、「我らは殿とのためなら死ねる!」と主君を守るためいつでも死ぬ準備はできているとの、覚悟を表したものだといわれています。

偶然か戦略は定かではありませんが、もともと北条氏との戦のときに白地の旗に永楽通宝という銭を描かせ、夜討ちをしたところ、それが北条氏の家臣・松田尾張守の家紋と同じだったのです!

「松田が謀反を起こしたか!」と北条氏は怒りに震えました。混乱の最中、真田軍は植田状に退却することができ、それ以来家紋にしたようです。

六文銭は、真田家の「お守り」のようなものなので、兜のデザインにも採用されたといわれます。

 

幸村死すとも、兜は死なぬ?

幸村は、豊臣勢として大阪夏の陣に参加します。疾風怒濤の勢いで徳川勢と激突しますが、惜しくも戦死してしまいます。幸村には、多くの子供がいました。嫡男の大助は父とともに戦死しましたが、次男の大八はわずか3歳だったので、姉たちと一緒に陸奥国の白石(現在の宮城県白石市)に落ち延びます。

姉が片倉家に嫁いだため、そこで養育され、元服してからは「片倉守信」と名乗りました。そして、幸村が亡くなってから100年後、真田家再興が許され「仙台真田家」が復活するのです。なんとこの仙台真田家に幸村の兜が所有されているそうなのです!

仙台真田家で所有されている兜は、幸村がかぶっていた兜よりだいぶ小さく、色も赤くなく六文銭もついていないのです。おそらく子孫たちが、「今は真田と名乗れなくてもいつかは」との思いをこめてレプリカを作っていたようです。

本物は、幸村は命を落とした後、徳川勢の前に首を持って行かれてしまいます。その際に兜をかぶっていたので、幸村本人の首と判別できたそうです。

 

 

まとめ

1 真田幸村の兜の角は、鹿の角で雄々しさがあり、鹿は古代より神の消印とされていたから採用された。

2 兜の特徴的デザインである「六文銭」は、真田家の家紋で、もとは三途の川を渡る際の船賃を表していて、死ぬ気でいつも戦っているのだという意思を表現したものだった。

3 大阪夏の陣で幸村が戦死した際、兜をかぶっていたため、徳川へ召しだれた首が本人のものと判別された。よって現在、幸村の次男が宮城県白石に落ち延び、その子孫の仙台真田家が所有しているのはレプリカ。

こうして振り返ると、戦の際の刀除けとか、ただ目立ちたいというわけではなく、兜にも深い理由があるのだなあと思いました。みなさんは、どの武将の兜が好きですか?兜の由来を知れば知るほど好きな武将が増えるかもしれませんね。

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