戦国時代

真田幸村の名言!

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幸村は意外にも数々の名言を残しています!今回は幸村の「名言」を「関ケ原の戦い」「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」そして、「現代にも通じる名言」と場面ごと、それぞれご紹介していきます!

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真田幸村の名言

人の死すべき時至らば、潔く身を失いてこそ勇士の本意なるべし。

関ケ原の戦いの際、なんとか真田家を存続されるため、父と兄そして幸村3人は話合います。出した答えは、父・昌幸と幸村は西軍、兄・信之だけ東軍へつくというものでした。

その時信之は、「西軍が負けたとしても、父と弟が殺されないように尽力する」と発言したことに対して、幸村が発した言葉でした。

意味は、「命を捨てても目的を達成しないといけぬ時がきたら、潔く身を捧げることが誠の勇士というもの」といっています。

でも、家の存続を考えて、親子・兄弟が敵味方に分かれるなんて、胸が張りさけそうなぐらい苦しかったと思います。仲が悪いわけではないので。戦国時代だからしょうがないといわれればそこまでですが、幸村は武士の中の武士といえます!

そして、幸村は大坂夏の陣で家康本陣に乗り込み、男子の本懐をとげたので、有言実行の人といえますね。

 

いざとなれば損得を度外視できるその根性、世のなかに、それを持つ人間ほど怖い相手はいない

この言葉は、大坂冬の陣のあとに徳川軍から寝返りを打診されたときに発した言葉です。

意味は、「損得勘定では動かない人間ほど世の中に手ごわい相手はいない」と言っているのです。

幸村は損得勘定では動かぬ人。まさに「義」の人なので、このような言葉はすっと出てくるのだと思います。それは心がまっすぐだから。自分の指針が定まっていないとどうしても人は揺れ動いてしまうもの。幸村は心が強い人だと思いましたね。

 

この幸村、ただ、命を長らえているだけの処を召し出され・・・

これも大坂冬の陣で、和睦という名目で勝手に徳川勢が大坂城の堀を埋めてしまい、せっかく大阪城の南側に築城した真田丸(出城)がなくなってしまったのです。

徳川勢としては、大坂冬の陣の際にこの真田丸で酷い目にあったのです。なので報復行為で堀を埋めたと考えられますね。

家康今度は第三者の幸村の叔父・信尹を介して、「10万石やるから徳川についてくれ」とまたも、口説きにかかります。

幸村は「信念の人」なので、頑として断りますが、今度は家康40万石に増やします。笑 この申し出入も断った幸村!もうあっぱれです。笑 その時いい放った言葉が「この幸村、ただ、命を長らえているだけの処を召し出され、武士としての面目を立てて頂いた身、このご恩、土地や金子など、到底、変えられない」なのです。

関ケ原の戦いで敗れ、ちっ居させられていた幸村。だがそんなどん底の時期に、秀吉の忘れ形見の豊臣秀頼から助けを求められます。幸村にとって命をかけた最期の奉公だったのです。どうせ死ぬなら、「豊臣の家臣として」という思いが強かったと思います。「徳川の家臣として死ねるか」と。それにしても、家康の幸村LOVEには感服です。笑

 

恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか 

大坂夏の陣を前に、豊臣軍と徳川軍の両軍から「うちに来ない?」とスカウトを受けていたのです。何度目の寝返り打診でしょうか? 笑 関ケ原の戦いで敗れ、浪人となっていた幸村は迷うことなく豊臣軍につきます。もともとは、父・昌幸が秀吉の家臣だったこともあり、当然の成り行きでした。そのような時勢に発せられた言葉なのです。「恩を忘れて私欲に走るのは人とは呼べない」という幸村の義理堅さがわかる一言です。

今どれだけ、義を重んじる人がいるでしょうか?戦国時代に比べると圧倒的に少ないと思いますね。

 

十万石では不忠者ならぬが、一国では不忠者になるとお思いか

この言葉も大坂夏の陣の前に、豊臣軍を寝返って徳川軍についてほしいと口説かれた時に言った一言です。家康しつこいです。笑 幸村の強さを知っていた家康はかなり脅威に感じていたのです。

そこで、「10万石をやるからうちに来い!」と誘いをかけます。ところが、幸村は断ります。食い下がる家康 笑 さらに好条件を提示します。すると幸村は「10万石だと寝返らないが、信濃の一国ならば寝返るとでも思ったか」と猛然と言い放ちます!

常に「死」を覚悟しながら生きてきた真田一族です。強気なのです幸村は。うまい餌をちらつかせられても、ビクともしません。それでいて義理堅い!もうかっこよ過ぎですね。笑

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関東勢百万と候え、男は一人もなく候

上記の名言は、大阪夏の陣の道明寺の戦いで発せられた言葉です。この戦いは、豊臣軍・後藤基次、ついで真田幸村、徳川軍が家康の六男・松平忠輝と伊達政宗らの戦いで、幸村は激しい銃撃戦が繰り広げられ、伊達勢を一時撤退させていたのです。

その際に発せられた言葉が「関東勢百万と候え、男は一人もなく候」なのです。意味は関東の武士は、百人いても、男は一人もいないのだなという、今でいう「ディすり」にも近い言葉でした。勇猛果敢な幸村には撤退する伊達勢が武士のくせに弱腰な!それでも男かと思ったのでしょう。

しかし、幸村ちょっと誤っています。政宗は「東北の武士」なので、関東武士ではないのですよ。笑

 

今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ

幸村を何度も味方につけようとしますが、失敗に終わった家康。笑 そんな家康に対して、幸村は大坂夏の陣で、徳川優勢の状況でも豊臣の勝ちを信じ、家康陣地まで突撃し、家康はなんと自害を覚悟したとか!

兵力では圧倒的に徳川軍に叶わず、敗北してしまいます。幸村は、「この戦はここで終わりだけど、ここまできたら気持ちよく戦って、狙うのは家康の首だけ」といっています。最後まで義を重んじて戦に挑む様は、味方よりもむしろ敵側から称賛され、「日本一の兵(つわもの)」とまでいわれました。敵にそこまで言わしめる幸村本当に凄いです!

 

さだめなき浮世にて候へ者、一日先は知らざる事、一日先は知らざる事、我々事などは、浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候

これは、幸村辞世の句なのです。この言葉は大坂夏の陣直前に、真田家の家臣である小山田茂誠と息子の之知にあてた書状に書かれた言葉でした。幸村は、「運命が定まらないほど、この不安定な世の中だから、一日先のこともわからない。私たちのことなどこの世にはないものと考えてください」といっているのです。

家康と秀頼は講和条約を結びますが、それは徳川有利な内容で、幸村以下豊臣家家臣たちは不満だらけ。案の定講和はなかったことになり、大坂夏の陣へと突入、豊臣家は崩壊してしまいます。

幸村の最期の言葉。まさに魂の叫びを感じます。常に死ととなり合わせで、勇猛果敢に戦った幸村は戦国時代の申し子だったといえます!

 

夢をつかんだ奴より、夢を追っている奴の方が、時に力を発揮する。

一見、なにいっているの?逆じゃない?夢をつかんだほうが凄いでしょ?と思われるでしょう。しかしこの言葉には隠された意味がこめられているのです。

夢にむかってがんばる人は、他人からみると輝いて見えます。しかし夢をつかんだとたん現状に甘んじてしまう人もいるでしょう。そこで幸村は、「夢のつかんだ後も、夢をいだき続け日々努力しなさい」と戒めているのですね。

ここまでくると、3年B組幸村先生って言いたいぐらいです。笑

 

部下ほど難しい存在はない。

世のサラリーマン、特に中間管理職の方に送りたい言葉ですね。最近は平成も30年となり、多くの「ゆとり世代」といわれる方々が続々と入社しています。自分たちの世代との違いに、どう接すればいいのか苦労されている方も多いのではないのでしょうか?

そこで、幸村は問いかけます。「優秀な主人であろうと、人間関係はむずかしいもの。だから部下には誠意を持って接しなければいけない」と。

知将と呼ばれた幸村。彼は、自分が偉いからと決して偉ぶらず、部下に対しても誠実に接していました。かたや優秀ではあったが、暴君のため家臣から恨みを買われ、あとわずかで天下人の座を逃した織田信長。同じ戦国武将でも対照的といえます。

 

 

まとめ

  • いつでも命を捨てる覚悟がある人だった。
  • 義を重んじる人だった。
  • 家康からの再三に渡る徳川軍への誘いを頑なに拒んだ。

みなさんは、どの名言が一番好きですか?私は、「夢をつかんだ奴より、夢を追っている奴の方が、時に力を発揮する」が好きですね。夢を追いかけている人を見るとみんな目の輝きが違います。毎日をダラダラなんとなく過ごすよりも、夢や生きがいがあるほうが人生楽しいです。

幸村のように毎日死を覚悟して生きるのは難しいですが、幸村の名言をふと思いながら仕事や授業などを受けると、また違った一日を過ごせるかもしれませんね。

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