佐々木小次郎という人物をご存知でしょうか。
室町から江戸時代初期まで生きた剣豪であり、宮本武蔵との巌流島での決闘でも有名な人物です。
そんな佐々木小次郎ですが、実は本当は実在しなかったのではないか?という噂もあります。
実際はどうだったのでしょう?
今回は、佐々木小次郎が実在したかどうか。また、どんな人物だったのか等、詳しくご紹介させていただきます。
佐々木小次郎って本当は実在しなかった?
謎・不明点が多すぎる佐々木小次郎
- 出生が不明
- 名前も詳細は不明
- 当時の記録で「佐々木小次郎」の”佐々木”が書かれた記録が無い
まず、佐々木小次郎については、不明な点が多すぎるというのが最初の事実です。
出身については豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)の有力豪族佐々木氏のもとに生まれたという説がある他、1776年(安永5年)に熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)と記されており、秘剣「燕返し」は福井にある一乗滝で身につけたとされています。生年は天正もしくは永禄年間とされています。
名前についても、号(別名)は岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)となっているが、詳細は不明な点も多いです。
また、「小倉碑文」には、小次郎の名は「岩流(巖流)」としか書かれていないのです。小倉碑文は、宮本武蔵の養子・宮本伊織が武蔵の菩提を弔うために、承応3年(1654年)に豊前国小倉藩手向山山頂に建立した、自然石に刻まれた碑文のこと。
文章に「佐々木」と初めて姓が登場するのが、宮本武蔵の死後130年も経った1776年に書かれた『二天記』が初めてでした。それまでに佐々木と書かれた姓のの記録はなく、『二天記』が準拠した『武公伝』には、「小次郎」と書かれているのみ。
そもそも、『二天記』は宮本武蔵の伝記であり、佐々木小次郎も宮本武蔵の物語の一登場人物として書かれてるだけに過ぎません。
本当に佐々木小次郎は実在したのか
『二天記』には巖流島での決闘時の年齢は18歳であったと記されていますが、このような記述は『二天記』の元になった『武公伝』にはなく、巖流が18歳で流派を立てたという記述を書き改めたものであります。そのため、没年齢も不明です。
その名前すら、歌舞伎などの「佐々木」姓と、『二天記』の「小次郎」という名から佐々木小次郎という名になったようで、統一性もありません。
わかったのは、小次郎にまつわる話のほとんどが吉川英治の小説に書かれたものだということです。小説「宮本武蔵」を執筆するにあたり、吉川英治は、武蔵に関する多くの資料を集めて執筆したのです。
しかし、小次郎に関する資料は漢文数行分しか資料がないといっています。
ヒーローにはライバルが必要です。そのライバルとして創られたのが佐々木小次郎であり、そのヒントは『二天記』や歌舞伎の演目などが用いられています。佐々木小次郎という人物はフィクションのなかの人物だったようです。
佐々木小次郎の秘剣【燕返し】もフィクション‥
小次郎の剣術は、中条流、あるいは鐘捲流(かねまきりゅう)と言われ、初め、安芸国の毛利氏に仕えました。
その後は武者修業のため諸国を遍歴します。越前国(福井県)に立ち寄った際に、一条滝で会得した技が秘剣「燕返し」だといわれています。また、先の『二天記』では、小次郎の出身は越前国となっており、そのためここで技を磨いたという説もあります。
燕返しがどのような技であったか、その詳細がわかる資料はないですが、有力なのは「虎切り」という剣術がモチーフになったのではないかといわれています。大太刀という刀身の長さが三尺(約90cm)以上の太刀を用い、相手の間合いの外で振り下ろします。
そこで相手は間合いに入ってくるので、振り下ろした刀を瞬時に返して切り上げるというもの。当時の防具は「上からの打撃・斬撃」には十分に考慮された形だったが、下からの攻撃には無防備だったのです。
この技は、ただでさえ長くて重い太刀を、瞬時に切り上げるだけの腕力が必要であり、そのことから小次郎がいかに腕利きの剣客だったかがわかります。なお、技の名前についてはその動きが燕が地面を掠め飛ぶ様を連想させるから付けられたものと考えられています。
後に「岩流」と呼ばれる流派を創始しました。小倉藩の剣術師範となっています。
宮本武蔵への挑戦
1612年(慶長17年)、この「岩流」は剣豪宮本武蔵に挑戦します。
武蔵と九州小倉の「舟島」で決闘したことは有名である。前出の「小倉碑文」によれば、「岩流」は「三尺の白刃」を手にして決闘に挑み、武蔵は「木刀の一撃」でこれを倒したとあります。
このときの武蔵の必殺の一撃は「電光が遅く思えるほどの速さ」と表現されています。また碑文には「両雄同時に相会し」とあり、武蔵は遅刻をしてはいません。
また武蔵の伝記である『二天記』では、「岩流」は「佐々木小次郎」という名になっていて、この決闘で刃長3尺余(約1メートル)の野太刀「備前長船長光(びぜんおさふねながみつ)」、通称「物干し竿」を使用、武蔵は櫂を削った2尺5寸と1尺8寸の木刀2本を使い、これを破った書かれています。
一説には武蔵は事前に小次郎の剣術を知っていたともいわれ、相手の大太刀が振り下ろされた瞬間を狙って木刀を振り落としました。小次郎の燕返しは刀を返してこそ完成するので、それすらさせなかった武蔵の剣術を讃えています。
武蔵と決闘した「舟島」は「巖流島」と名を変えられ、この勝負はのちに「巖流島の決闘」と呼ばれるようになりました。
佐々木小次郎の名は死後に有名になった
小次郎の名は、没後になって大きく広まることになります。
武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』を始めとして、歌舞伎の『敵討巖流島』に登場する「佐々木巖流」、さらにその名を日本中に広く知らしめたのは吉川英治の小説『宮本武蔵』です。この小説は1935年から1939年まで朝日新聞に連載されたものだが、今の我々が知るエピソードのほとんどがこの作品に描かれているものです。
吉川英治原作の小説「宮本武蔵」では、小次郎は、元服前の少年のような前髪立を残した美青年として描かれているが、この決闘時の年齢は、宮本武蔵が20代で佐々木小次郎が60歳近くだったといわれています。また、燕返しという秘剣そのものもこの小説以外では見受けられず‥‥秘剣燕返しも実は吉川の創作だったのです。
実は、吉川英治原作の「宮本武蔵」が世に出るまで、小次郎は歌舞伎に登場する荒唐無稽な冒険を行った架空の人物という評価もあり、さらには歌舞伎の題材も武蔵の敵討ちの相手が小次郎とされました。
この演目が流行った江戸中期は、敵討を題材にした歌舞伎の演目や小説などに人気があありました。そのため、内容も創作で敵討ちの決闘にされたのです。なお、この時期は、歌舞伎で演じられる忠臣蔵が人気だった時期と重なります。
まとめ
- 佐々木小次郎のモデルとなった人物自体は実在した
- 佐々木小次郎は当時は有名ではなかった
- 佐々木小次郎は宮本武蔵の引き立て役であった
当時、佐々木小次郎のモデルとなった人物が存在していた可能性はあります。
歴史の中には実在の人物をモチーフにして、後世の歴史家や小説家が「話を盛って」広めたケースは多いです。
その意味では、佐々木小次郎というライバルは、宮本武蔵の引き立て役として成功を収めたということでしょう。
それにしても秘剣燕返しすらフィクションだったとは少々ショックですね。佐々木小次郎の代名詞とも言える必殺技も作り物とは‥‥!