明治時代

征韓論はなぜ行われた?意味や内容をわかりやすく

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征韓論は、朝鮮との外交問題として明治政府内で大きく意見が割れました。明治政府は始まったばかりでしたから、議論は迷走し、閣議決定の後の手続きもスムーズにはいきませんでした。そのため分かりにくいものになっています。

征韓論の意味や内容をわかりやすくご紹介します。

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そもそも征韓論とは

鎖国をしていたと言われる江戸時代でも、朝鮮と琉球は通信国という位置づけで、朝鮮の場合は対馬の宗氏を通して国交がありました。明治新政府はこれまでと同じように朝鮮との国交を確立しようと、宗氏を使者に立て交渉。

ところが当時の朝鮮政府の実権を握っていた大院君は攘夷・鎖国の急進派であり、フランス人宣教師をはじめ約8000名のカトリック信者を処刑したり、フランス艦隊を撃破したり、アメリカの商船を焼き払ったりする過激な指導者でした。西洋化を進める明治政府へも嫌悪を露わにし国交を断りました。

1872年9月明治政府は、それまで対馬藩の朝鮮駐在事務所であった草梁倭館を、大日本公館と改名し、外務省が直接管理することにしました。これに朝鮮側は激怒し、10月には大日本公館への食糧等の供給を停止。日本人商人による貿易活動も停止しました。

1873年5月、日本政府黙認の下で行われていた日朝間の密貿易が発覚。朝鮮側は厳しい「禁圧」の姿勢を取りましたが、この時に朝鮮側が掲示した「伝令書」に日本を侮蔑する文言が書かれていたことが日本政府に伝えられました。

これがきっかけとなり、外務省は居留民保護のため、陸軍の出動と軍艦の派遣を求める対朝鮮議案を作成し、太政官に提出しました(太政官とは当時の明治政府の最高行政機関で、1885年に内閣制度が発足すると廃止されました)。

太政官での閣議で参議の板垣退助は、朝鮮に滞在する居留民を保護するのは日本政府の当然の義務として、朝鮮への即時派兵を提案しました。

これが、そもそもの征韓論になります。しかし、太政官の閣議が迷走したために、征韓論自体が分かりにくいものになってしまいました。

 

明治政府はバラバラ?

ここで、当時の明治政府の特別な事情を説明しなければなりません。

太政官は、太政大臣に三条実美、参議に西郷隆盛・木戸孝允・大隈重信・板垣退助という体制で1871年8月29日からスタートしましたが、このメンバーを決めるのもスンナリは行きませんでした。

当初、参議は木戸孝允ひとりだけの体制で行こうとしたのですが、木戸が合議制にこだわり固辞。では、西郷と二人体制という妥協案が出たところへ、西郷は政務に疎いから大隈も入ることとなり、そうなると土佐出身者がいないということで板垣も加わり、やっと四人体制に落ち着いたのでした。

それから、たった4か月後の12月23日に岩倉使節団がサンフランシスコに向けて出発。1年9か月もの長期間、日本を留守にしました。そのメンバーには岩倉具視、大久保利通伊藤博文、山口尚芳の他に、参議の中のキーパーソンである筈の木戸孝允も含まれていました。明治政府を主導してきた首脳の多くが加わっていたため、留守中は大規模な改革は行わないという盟約書(「大臣・参議・大輔盟約書」)を結んで出発しています。

冒頭の朝鮮問題は、岩倉使節団の留守中に起こった出来事でした。

 

留守政府の閣議

そんな状況の中、板垣退助が前述の征韓論を主張しました。

「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然の義務である。速やかに一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判に及ぶべし」

これに対し、同じ参議の西郷隆盛が反対。

「それは早急過ぎる。軍隊を派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考えるかもしれない。これまで朝鮮との交渉に当たってきたのは外務省の下級官僚と朝鮮の地方官吏だった。軍隊の派遣を行う前に、位の高い全権大使を派遣すべきである」

と主張しました。このため、西郷の主張は征韓論ではなく、遣韓論と言われています

太政大臣の三条実美は、折衷案を主張。

「西郷が主張する全権大使が、兵隊を引き連れて行けばよい」

これに対しても、西郷は反対しました。

「それは穏やかではない。大使は、烏帽子と直垂を着用し、礼を厚く、威儀を正して行くべき」

そこに、大隈重信が別方向の反対意見。

「使節の派遣は国家の重大事であるので、岩倉使節団の帰国を待って決定すべき」

これに対して西郷は、

「国家の大事に際して、その是非を決定できないような留守政府なのなら、政務の一切を辞めたらいい」と、閣議は迷走を続けました。

正式な閣議決定がなされたのは1873年8月17日。西郷を全権大使として朝鮮に派遣することになりました。翌日、明治天皇に上奏しましたが、天皇は「留守政府は重大な改革を行わない」という盟約を理由に、岩倉具視の帰国を待って再度上奏するように命じました。

 

明治六年政変(征韓論政変)

ほぼ一か月後の1873年(明治6年)9月13日、岩倉使節団が帰国。西郷を派遣するという閣議決定を聞き、大久保利通が猛烈に反対しました。

朝鮮政府の大院君が相手では、西郷の説得が成功するとはとても思えなかったのです。西郷は殺される。殺されなかったとしても、交渉決裂は間違いない。どちらにしても、朝鮮との開戦は避けられないと、大久保は読んでいました。そして、それよりもロシアとの樺太・千島列島領有権問題の方が優先度が高いと主張。

10月14-15日の閣議は、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視、以下参議の西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣、大久保利通、大隈重信、大木喬任が出席。西郷派遣の採決は同数となりました。自分の意見が通らないなら辞任すると西郷が迫ったため、恐怖した議長の三条が即時派遣を決定。これに対し、大久保、木戸、大隈、大木が辞表を提出、岩倉も辞意を表明しました。

後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみでしたが、どちらかと言えば反対だった三条が17日に過度のストレスで意識不明に。23日、岩倉が太政大臣代理として、大使派遣決定と派遣延期の自論の両論を上奏。明治天皇は岩倉の意見を採用し、派遣は無期延期となりました。

このため、西郷、板垣、後藤、江藤、副島は辞表を提出して下野。征韓論を支持する官僚・軍人約600人が辞職しました。

 

その後の日朝関係

1875年5月に樺太・千島交換条約が署名され、ロシアとの領土問題は解決しました。これが征韓論延期の理由の一つでしたし、征韓論者は明治政府内にまだ残っていましたが、1873年11月に大院君が失脚したことで対朝強硬論は沈静化。

1875年9月に、朝鮮の首府漢城に立ち寄った日本の軍艦雲揚が砲撃を受けるという事件(江華島事件)が勃発。原因は朝鮮側が雲揚を英国軍艦と誤認したことであったため、朝鮮側に不利な日朝修好条規が締結されました。

 

 

まとめ

  • 征韓論は、江戸時代と同様の国交の継続を求めた明治政府の申し出を、朝鮮政府が断ったことに端を発している。
  • 断られた外務省は、朝鮮に軍隊を派遣する建白書を太政官に提出。参議の板垣退助が朝鮮への即時派兵を閣議に提案。これがそもそもの征韓論である。
  • その当時は岩倉使節団が欧米訪問中で、首脳の多くが留守だったので、大規模な改革は行わないという盟約が結ばれていた。
  • 太政官での閣議は、迷走の末、西郷隆盛を全権大使として朝鮮に送ることに決定した。
  • 明治天皇に上奏すると、盟約を理由に岩倉使節団が帰国してから再度上奏するように命じられた。
  • 帰国した大久保利通は、大使を送っても戦争は避けられないこと、ロシアとの領土問題が解決しないうちは戦争はできないこと、などを理由に猛烈に反対した。
  • 帰国したメンバーたちを含めた閣議での採決は同数。議長の三条実美が大使派遣に決定した。岩倉と反対派の参議たちは辞意を表明。三条はストレスで倒れる。
  • 明治天皇には岩倉が太政大臣代理として上奏。明治天皇は閣議決定に反して、岩倉の反対意見を採用した。
  • このため西郷はじめ賛成派の参議が下野。征韓論支持の官僚・軍人600名が辞職した(明治六年政変、もしくは征韓論政変)。
  • その後、江華島事件を経て、朝鮮に不利な日朝修好条規が締結された。

始まって間もないとはいえ明治政府がこんなに迷走していたとは知りませんでした。

私自身はこれまで、西郷隆盛は仁徳者で人情家、同じ薩摩出身で盟友の大久保利通は冷徹な管理者タイプというイメージでした。でも、ちょっと違うのかな…と思いました。

留守政府の議事を見てみると、会議をかき乱していたのは西郷さんだという印象を持ちました。大久保は朝鮮だけじゃなく、他の国との関係を見ていたようですし。

この点については、昔から意見が分かれるところです。

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