今NHKで放送されている大河ドラマ『西郷どん』で注目されている西郷隆盛。
ドラマを見ていても素敵な人だったんだな―となります。
ドラマを見ていない人でも西郷隆盛の顔や名前は分かる。という人が多いと思います。
しかし!西郷隆盛がどんな人だったか正直全然分からない‼と自分も思ったので、その西郷隆盛が亡くなる原因となった西南戦争について簡単にわかりやすくまとめていきます!!
西南戦争の原因
まず、なぜ西南戦争が起きたのか・・・。
の前に西南戦争が起きる大きな原因となった新政府軍と薩摩の対立がなぜ起きたか。
西南戦争とはめちゃくちゃ簡単に言うと、明治時代初期に起きた薩摩藩と新政府軍との戦争です。
西郷隆盛は西南戦争で薩摩を率いて闘いましたが、もともと西郷隆盛は討幕に力を発揮し、元々は新政府軍側にいた人間です。
そんな西郷隆盛がなぜ新政府軍と対立してしまったのか・・・。
その理由を見ていきましょう。
西郷隆盛はなぜ新政府軍と対立した?
薩摩とは西郷隆盛の出身地であり、場所で言うと現在の鹿児島県です。
薩摩は江戸から遠いことや、鎌倉時代から他の家柄もありましたが、島津家が薩摩を治めていたこともあり気風が固まっていました。
その薩摩内でも色々な思惑が飛び交い、薩摩内でも対立するようになりました。
と言うのも、討幕!という明確な目標があり、薩摩は団結していたのですが、その目標が無くなった後、討幕で大きく力を発揮した薩摩出身の西郷隆盛や大久保利通などが発言力を持つようになり、元々力を持っていて新政府で力を持ちたいと考えていた島津家の重鎮は危機感を持ち、危険視していったからです。
目標が見えなくなると人間混乱しがちなので、それは現代と同じですね!
そして一番大きな理由として、士族を中心に討幕をしたのにも関わらず、討幕後に士族への優遇がなく、士族として生きてきて、他の職業をするスキルを持っていない彼らにとって働きにくい社会になったということがあります。
それと時をほぼ同じくして、征韓論という朝鮮の侵略の話などで新政府と揉めて失脚した西郷隆盛は薩摩に戻ることを決意します。
薩摩の軍が結成
当時、西郷隆盛が戻った薩摩には新政府に不満を持つ多くの士族たちが集まっていました。
今まで士族として闘ってきた士族が不満を持ち、放置され続ければ暴動などが起きてしまうかもしれないと危機感を感じた西郷隆盛は私学校を設立し、武士の気風を次世代へ受け継ぐような教育はもちろん、漢文の教育、軍事訓練などを行い統率しようと考えました。
これが後々西南戦争の原因となっていくのですが・・・。
もともと明治維新で力を発揮して士族から憧れられていた西郷隆盛という頼れるリーダーを得て、統率が取れた集団は私学校の集団と言うより、闘う軍団になっていきました。
そして、いよいよ西南戦争へ!聞き間違いで戦争勃発!?
廃刀令で刀が奪われ、徴兵制という農民や平民が兵士として教育されることとなり、軍に入ることを志願していた士族たちも不満を持ち始めました。
そして、日本各地で反乱や暴動が起き始めます。
新政府は各地で起きる反乱を鎮圧しますが、闘う軍団がある薩摩に反乱を起こされたらどうなってしまうのか・・・と危機感を抱きました。
しかし!当の薩摩の西郷隆盛はと言うと、新政府軍と戦うのには反対でした。
西郷隆盛はただ荒れていた士族をまとめあげて新政府の中で士族に役割を与えてほしいと考えていました。
その後薩摩と、その薩摩を脅威に思う新政府軍の間で連絡の行き違いなどの誤解によってすれ違いが多く起こりました。
それが無ければ死者の数も少なかったかも知れないし、もしかしたら西南戦争自体も起きず平和に解決していたかもしれません。
これは諸説ある中での一つの誤解の例ですが、政府からの使者が、
「西郷隆盛を“視察”しに来た。」
というのを血の気の多い士族が、
「西郷隆盛を“刺殺”しに来た。」
と勘違いしたという例があります。
これも現代でもあり得ることですね!西南戦争があった当時と違い、何人も人が死ぬようなことは無いですが、目上の人などや親しい友人などに嫌われてしまうことくらいはありそうですね。
私も気を付けなければ・・・。
そんな西郷隆盛を確認しに来た新政府の関係者が同じ薩摩出身で同郷の大久保利通の使者であったことによって西郷隆盛は戦うこと決意しました。
その他にも戦うことを決めた理由があります。
薩摩の存在に脅威を抱いていた新政府軍が薩摩の火薬庫から火薬を運び出したことです。
薩摩側からすると、もしもの時に備えて所持していた火薬を持って行かれたとあって、
「やってやろう」となったのは明確です。
準備していたものを、しかもしかも不満を抱いている新政府に持って行かれたとあれば怒って行動に出るのは当然の事ですね。
僕も1週間ほど必死にデートプランを考えたデートを女性にドタキャンされて、怒りと悲しみで狂いそうになったことがあります・・・。
いや、こんなことと西南戦争の火薬の事は一緒には出来ませんね・・・。笑
そうして戦うことを決意した西郷隆盛は挙兵に同意しました。
ついに恐れていた薩摩の挙兵が現実に起こり、新政府軍も討伐を命じ、出兵します。
こうしていよいよ西南戦争が始まっていきます。
最新の武器を持った約7万人の新政府軍vs民衆を味方に付けながら戦った約3万人の薩摩軍
新政府は陸軍の山縣有朋、海軍の川村純義に討伐を命じました。
歴史好きからするとこの2人を選ぶということはとても豪華な人選で、新政府軍の薩摩軍に対する脅威が見えてきます。
両軍は新政府軍がこもる熊本城にてかなり激しい戦いを繰り広げます。
熊本城とその近くにある田原坂などを中心に戦いを繰り広げます。
しかし、人数と武器で勝る新政府軍が徐々に押し始め、薩摩軍は敗北して熊本城攻略を諦めます。
その後、薩摩の城山にこもった薩摩軍は民衆を味方につけ、一時形成を逆転させましたが、やはり人数と武器で勝る新政府軍が態勢を立て直し、西郷隆盛と新政府軍は危機に陥ります。
そして洞窟に籠り身を護ります。
その際に新政府軍は西郷隆盛に使者を送りますが、西郷隆盛はこれを拒否しました。
西南戦争の終結とその後
西郷隆盛が新政府軍の救済の申し出を断った後、西郷隆盛は亡くなります。
亡くなり方にも諸説あり、申し出を断った後に新政府軍の捕虜となり、その5日後に新政府軍の総攻撃を見届け後に亡くなった。というものや、申し出を断った後の逃亡中に銃弾を浴びて、その被弾によって逃亡を諦めて自害した。というものがあります。
西郷隆盛の死によって西南戦争は終戦を迎えました。
薩摩軍は敗れはしたものもの、戦争での死者の数が両軍大差は無く、西郷隆盛の教育の成果と統率力、薩摩軍の団結力が示される結果となりました。
西郷隆盛はその発想やアイデア、飾らない性格だったので明治天皇から民衆、全ての人達に愛される存在でした。結果的に敵対してしまい、京都で新政府軍の指揮を取った薩摩出身の大久保利通も西郷隆盛が亡くなったと報告を受けると、号泣したそうです。
西南戦争が終わり、日本では武士、士族としての軍人の身分が完全に無くなりました。また徴兵制による国民皆兵が始まりました。
まとめ
・士族を中心に討幕をしたのにも関わらず、士族の扱いが雑で士族の不満が溜まり各地で反乱などが起き始める。
・新政府内でゴタゴタがあり、薩摩に帰った西郷隆盛が士族を暴れないようにするためなどの理由で私学校を設立する。
・私学校という集団に危機感を感じた新政府が火薬を取り上げるなど追い詰める。
・我慢の限界がきた薩摩の挙兵に対して新政府も山縣有朋などを出兵して戦争が始まる。
・人数や武器で劣る薩摩軍が、民衆を味方に付けるなどして前線するも西郷隆盛の死によって敗戦する。
このような背景を知っていると大河ドラマ『西郷どん』などもやり面白く見ることが出来ると思います!
西郷隆盛のようなリーダーが現代の日本にも多くいれば世の中変わると思いました。まずは自分から。