枕草子の著者である、清少納言の性格はどんな性格だったのでしょうか。
一般的には、頭が良く勝気のようなイメージ?
そして、明るくさっぱりした女性とのイメージ?
枕草子の強気な文章からは勝ち気な感じも伺えますが実際のところは一体‥!
今回は清少納言の性格がどんなだったのか、枕草子や歴史の記録から明らかにしていきます。
清少納言の性格はどんなだった?
強気なように見えて実は繊細な一面もあった
清少納言は文章でも強気なことを書いていますが、性格には繊細な部分もあったようです。宮仕えの初日の清少納言は、右も左も良くわかりません。いきなりピンチに陥り半泣き状態になっています。
主人である定子の元へ出仕しても物陰に隠れていたエピソードもあります。当時の清少納言は29歳で子どもはいませんでした。しかし、それまでに緊張し、自分に自信がなかったのでしょう。
中宮定子は清少納言よりも10歳も年下でしたが、彼女に優しく語りかけ、絵などを見せるなどしています。清少納言が思い切って顔をあげると、定子は「こんなにも美しい人がこの世にいるとは」とその美貌にとても驚いたそうです。
世間のイメージとはかけ離れた清少納言の姿に思わずキュンとしてしまいます。
実際の清少納言の容姿はどうだったのでしょうか。
清少納言の肖像画などは残されていません。わずかな資料から容姿を想像してみましょう。
清少納言はクセ毛がコンプレックス
清少納言は実はくせ毛であったようです。平安時代の美人の定義は「まっすぐで黒く美しい髪」。この定義から外れる清少納言の髪は、本人にとってとてもコンプレックスであったと言われています。
定子にも「明かりのせいで、私の髪の節が昼間より良く見えて恥ずかしい・・・」とか、「髪で顔を隠そうとしても、髪自体が人に見られたら恥ずかしい・・・」と語っていました。髪の毛への劣等感はすさまじいものがありました。
また、枕草子では、「髪が所々ちぢれていて、自分の髪ではない・・・」と書いています。清少納言はつけ毛をしていたようです。当時は人毛や牛のしっぽの毛を使った「かもじ」と呼ばれるエクステンションがあったようですね。
清少納言が描かれているモノは全部横向き
百人一首などに描かれた清少納言はいつも横向きに描かれています。
これは、ブスな人を書くときに使う方法。清少納言は枕草子の中で、自分自身の容姿に自信がないと自虐っぽく書いていました。そうしたことがあって、世の中に清少納言はぶすだというイメージがついてしまった可能性はあります。
清少納言がブスであったのかどうか、本当のところは分かりませんが、男性にモテたことは間違いない事実。
清少納言は平安時代のキャリアウーマンを実践していました。「女は、家に引きこもってばかりではなく、外に出て働くべき」と考えていたと言われています。仕事をしているため、男性と言葉を交わす機会も多かったことでしょう。
清少納言はめっちゃモテた
清少納言はバツイチの子持ちです。専業主婦はダメと言ってはいますが、実は宮廷に仕えていたときは専業主婦でした。自分のことを世間知らずの主婦であったとはっきり告白しています。10代後半に橘則光と結婚をし、982年に息子を生みますが、まもなく離縁してしまいました。
清少納言の漢字使いなど、教養面が則光よりも優れてしまっていたことからくる性格のズレが原因であったと考えられています。しかし、決して憎しみあって離縁したわけではありません。離縁してからも交流があったと言われています。
また、清少納言がモテると言われる事実は他にもありまして‥
宮廷の貴公子たちが清少納言を次々と口説こうとしました。藤原道長からも和歌を贈られ、宮廷の女性の憧れの的であった藤原斉信も清少納言に男女の関係を迫っていたようです。
『後拾遺和歌集』によると、プレイボーイとして知られる藤原実方とは「人には知らせで絶えぬ仲(人知れず長く続いている関係)」だったようですね。
モテモテだった清少納言の気持ちが色々なところに描かれている
百人一首には、「夜をこめて鳥の空音は謀るともよに逢坂に関はゆるさじ」とあり、朝廷一仕事のできるセレブであった藤原行成とのちょっとふざけた恋の駆け引きの中から生まれた歌です。
この二人の興味深いやりとりは枕草子にも登場します。
そんな清少納言ですが、男女関係が派手だったとか、魔性だとかそういったイメージはありません。やはり、明るくすっきりした性格の持ち主だったのでしょう。
ここまでが清少納言のエピソードや和歌を元に恋の一面から性格を想像しました。
清少納言は自分をホメちぎっていた
和歌をみてみましょう
- 主の定子(ていし)様に褒められた・・。
- 私と定子様はこんなにも仲良し・・
- 男性を言い負かしてやった・・・。
- 私は漢詩に通じた機転の利く女・・・。
枕草子では、こんな感じで清少納言の自己賛美が度々登場!
自慢話をする人は嫌われるように、清少納言のことをあまり好きでない方も結構多いかと思います。確かに現代でのSNSにもあるように、過度な自慢や自分の話ばかりをSNSに投稿する人はすぐに無視されてしまいます。これは、いつの世も変わらない事実なのでしょう。
確かに清少納言は自慢話をする和歌も多く、そういった一面は好き慣れない方も多いと思うのですが、実は清少納言は自慢ばかりしていたわけではありませんでした。
- 調子に乗り過ぎて失敗した
- 噂話をしていたら、本人にバレた
- 和歌に苦手意識を持っていた
- 始めての宮廷出仕で泣きそうなほど緊張していた
- 可愛らしい子供の仕草を、微笑ましく見守っている
- 定子の機嫌を損ねてしまった
- 定子を心から慕っていた
というように、失敗談、苦手なこと、弱かった自分、情けない自分なども書いています。
清少納言はプラスの話もマイナスの話も嘘偽りなく素直に書いているのです。そこに、自分をよく見せようとかそういった気持ちはありません。だらかこそ、私自信は、清少納言の和歌や枕草子を読んでもあまり嫌味に感じません。
自分の気持ちにとても素直な人だなーと感じます。
ただ、清少納言は枕草子で以下のようなことをいっています。
「人に憎まれるのは本当につらいこと、人に愛されるのは本当に素晴らしいこと」
清少納言も当然のことながらできれば人に嫌われてくないと思っていました。そのため、わざわざ嫌われようとして、嫌われるような記事を書いていないことは間違いなさそうです。
まとめ
- 清少納言は素直な人だった
- 美人であったかどうかはわからないがとてもモテた
- 枕草子では自画自賛がすごかった
- 一方、そうじゃない面も素直に書かれていた
- 嫌われたくはないと思っていた
清少納言は華やかな生活を満喫していたイメージがあります。本当にそうだったのかもしれません。清少納言は実に頭がよく、教養があり、自分の気持ちに素直に生きていたようです。だからこそ、周りの女性から嫉妬も多かったのではないでしょうか。
自分の気持ちに素直に生きられる人はとても輝いて見えます。いつもきらきらしています。人間は周りの目を気にしてしまうので、特に日本人はもともと自分の気持ちに素直になることが難しい人種なのかもしれません。
だからこそ、清少納言はすごいと思います。いろんなしがらみややっかみはもちろんあったことでしょう。しかし、素直に生き続けた。それが、枕草子が現代まできちんと読み継がれている理由の一つでもあるのかもしれません。
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