戦国時代の武将と言えば、カッコよくて強くて男らしく数々の武勇がある、そんなイメージを持っていらっしゃる方も多いかと思います。
もちろんそのようにたくましい武将たちもいましたが、一風変わった性格・風貌の武将たちもたくさんいました。
歴史の教科書には載ってないけど、驚くべき事実が山ほど存在しているのです。
今回は戦国武将たちの知られざるスンゴイ話・逸話・エピソードについて、歴史マニアの私がまとめてみました!
織田信長の知られざるエピソード!
織田信長と言えば『うつけ』と呼ばれていた。幼少期より大うつけ者だった⁉︎
うつけとは、今でいう不良、傾奇者(かぶきもの)であるといったようなものです。
信長は若い頃、普通はひとつしか持ち歩かない水を入れるひょうたんを何個も持ち歩いていたり、派手な格好をして同じような仲間をひきつれ、街を練り歩いていたそう。
信長は武家のお坊ちゃまだったので、『こんな身分の子が何をしてるんだ・・・』と周囲から白い目で見られていたわけです。
また、若い頃は勉強のため寺に通っていましたが、そこでも信長はうつけ全開で周囲を困らせていました。授業はマジメに聞かず、態度も悪い。そしてご飯の時には人のものを奪って食べたりしていたんだとか。
うつけエピソードで1番有名なのは、信長の父の葬式の日の出来事です。信長は喪主でありながら葬式に遅刻し、いつもの派手な服装で現れました。そしてまともに喪主を務めるどころか、父の位牌に抹香を投げつけて去って行ったのです。
なかなか考えられない行動ですね…
信長のキチガイぶりに、ただならぬ才を見出した人物がいた
そのうつけっぷりを認めていた人もいました。
斎藤道三です。信長は斎藤道三の娘・濃姫と15歳の時に結婚しています。
信長は斉藤道三との大事な会見の場にいつもと同じ派手な格好で現れ、柱にもたれてドッカリと座り込んでいたらしいです。娘の結婚相手に初対面でこんな態度をとられたら『なめてんのか!』と怒りたくなるものですよね。
しかし、斎藤道三は信長のただならぬオーラや堂々とした態度と受け答えに、『こいつは只者ではない!うつけの格好をしていても中身はそうではないのだ!』と信長の本質を見抜き、娘との結婚を快く認めたそうです。
そして後に斎藤道三は、『自分がこの世を去った後は信長に美濃を譲る!』と遺言を残しています。斎藤道三は信長の事をかなり信頼し認めていたんですね。
信長がこのような『うつけ』といわれる事をしていたのは、単純に若気の至りだったかもしれませんが、わざとうつけのフリをして近隣の武将達に油断させていたのでは?という説もあります。
これが本当だったら、恐るべし信長ですね。
神なんか信じねえ!まさしく自分が神の存在⁉︎
信長は法華宗という宗派の人間だったのですが、信長自身はルイス・フロイスの著書に書いてあるように神様や仏様といった存在を信じていなかったようです。
それもあり、自分の言うことを聞かない宗教勢力に対し、容赦なく武力による制裁を加えていたんですね。
信長は石山本願寺をはじめとする、一向門徒(一向宗という宗派の信者)達と敵対していました。
『一向門徒たちと戦になった時、神様に刃向かったらバチがあたるのでは・・・。』と、信長軍の武士たちは天罰を恐れ、宗教勢力を相手に戦う事に気がひけ士気も下がってしまっていました。
そんな部下達の様子を見て、『神様なんていないんだよ!見てろ!』と、1人で一向門徒達の前に飛び出していきました。
敵は信長を目がけて弓矢を放ち攻撃をしてきました。しかし、なんと信長に弓矢は1本も当たりませんでした。これを見た信長軍の武士たちは大いに士気が上がったそうです。
まさに神的存在、織田信長。
このようなエピソードがあったから、ここまで伝説として語り継がれるようになったのでしょうか?真意は定かではありませんが、信長様カッコいいですね。
豊臣秀吉の知られざるエピソード!
豊臣秀吉は指が6本あった⁉︎
豊臣秀吉は指が人より多くある『多指症』と呼ばれる先天異常の病気でした。病気といっても生命に異常があるわけでもなく、日常生活にも不便はなく、現在でも多指症の方はいらっしゃいますし、決して珍しい事ではありません。
大リーグで活躍したピッチャーのアントニオ・アルフォンセカ選手は、実際両手両足の指がすべて6本あったそうです。そのため彼はシックス・フィンガーズというニックネームで呼ばれていました。
多指症の方は、子供がまだ小さい頃に手術をして、形状異常な部分を除去するそうです。豊臣秀吉の時代にも、多指症で生まれてきた武将の子は、幼い間に処置したそうです。
ただ、秀吉は農民出身だったので、処置をする事無く大人になるまで6本の指のままでいたようです。秀吉の指、詳しくは親指が2本あったようですね。きちんと裏付ける証拠も残っています。
色んな書物に指6本の証拠が残されている
前田利家の「国祖遺言」や宣教師ルイス・フロイスが書いた「日本史」にも、秀吉の指6本であったと書かれています。前田利家と言えば、豊臣秀吉の信頼も厚く、豊臣政権では5大老まで勤めた人物ですね。
その意味では常に秀吉の側にいた利家ですが、彼が書いた「国祖遺言」には秀吉の6本指について記載されています。利家が言うには、織田信長が秀吉のことを指して「六つめが」と言ったという内容です。「六つめが」とは、「6本指の秀吉めが」との意味です。
また「国祖遺言」には、豊臣秀吉の親指が一つ多く、太閤様の指は6本あるとも記載されています。秀吉との関係が深かった前田利家が書いた内容ですから、ある意味信憑性がありそうですね。
宣教師ルイス・フロイスも豊臣秀吉が6本の指を持っていたと、彼の著書「日本史」に書いています。そこには、「豊臣秀吉は、背が低く、片手には6本の指があった」とあります。
意外なエピソードでしたが、書物にもきちんと書かれているので信憑性は高そうです。指が多いと政治もうまく回しやすいのでしょうか?とても意外なエピソードでした。
徳川家康の知られざるエピソード!
家康の本当の死因はなんと◯◯・・・
徳川家康の死因は、鯛の天ぷらを食べ過ぎたことが原因だと言われています。
家康というと”鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス”という歌にあるように、とても慎重で用心深い人物で知られています。
そんな性格であれば、当然ながら日頃から健康にもかなり気をつかっていたはずです。なぜこんな事になってしまったのでしょうか?
慎重であったことは事実ですが、一方で彼はとても好奇心旺盛で活動的な人物だったようです。関ヶ原の戦いには南蛮胴具足を着用したり、南蛮時計や砂時計を愛用したりと当時としては、かなりの新しいもの好きでした。
70代を越え隠居してからも、南蛮世界図屏風を見ながら異国の国々の話をしていたという記録も残っています。
ある時、鷹狩りに出かけた場所で、初めて知った天ぷらを、好奇心旺盛な家康はさっそく作らせ、食べました。天ぷらといっても現代の天ぷらとは少し違っていて、タイのすり身を油で揚げたさつま揚げのようなものだったようです。
その時に食べた天ぷらがもとで腹痛が始まり、一晩経っても腹痛はおさまらず、駿府に帰って療養しますが一向に良くならず、75歳で亡くなったとのことです。
油は当時大変貴重な物でしたから、将軍職にあった家康といえども普段食べ慣れていなかったのと、高齢でもあったため消化不良を起こし、それが死因につながったと考えられています。
好奇心旺盛な性格が、逆に仇になってしまったのでしょうか?
本当の死因は胃がんだった?
徳川家康が天ぷらを食べて体調をおかしくしてしまったのは事実のようですが、どうもそれが直接の死因ではないという説があります。
本当の死因はガンであった可能性が高いようです。家康が天ぷらを食べてから、亡くなるまでに三か月ほどの月日が流れています。食あたりが直接の原因だとすると、亡くなるまでの期間があまりにも長すぎるのです。
家康のそばにはいつも医者が従えていたようですが、この時の医者の診察によると家康の腹の中にしこりがあったとのこと。医者は家康にいろいろと治療にあたっての進言をしましたが、家康は主治医の言う事に耳を貸さず、自己流の治療を試みていたようです。
家康はもともと健康オタク。若い時から身体を鍛え、医薬にも強い関心があり自分自身で薬も調合していました。そのような家康ですから、主治医の判断よりも自分の判断を優先させてしまったのかも知れません。
現代でもこういう人いますよね。なまじ知識があるゆえに専門家の意見に耳を貸さない人。変に頑固にはなりたくないものですね。
猛毒を薬と間違えていた?
当時、家康が使ったと考えられている薬はトリカブトの根が主剤だったようです。トリカブトは猛毒で知られています。毒と薬は紙一重と言いますが、もちろん多量に使えば死に至りますが、適量を用いれば妙薬になると考え用いていたようです。
結局家康は、亡くなるまで主治医のいうことには耳をかさず、自分で調合した薬を飲み続けました。
症状が悪化するにつれて痩せて顔色が悪くなり、つねに吐き気を催していたことや、主治医が触診したときに腹部にしこりがあったことなどから考えると、症状的には消化器系のがんで、もうその時には末期であった可能性があります。
秀忠や水戸光圀も消化器がんで亡くなっているとの説が有力なので、徳川家はある意味がん家系であり、家康もがんで亡くなってしまったのかもしれませんね。
他にもこんなにたくさんある戦国武将の面白いエピソード集
調べてみると、他の戦国武将たちにもたくさん面白いエピソードがあったので、簡単にではありますがご紹介いたします!
■最上義光は何より「鮭が大好き」で、そこからつけられた異名が「鮭様」だった
■戦国武将最強説の上杉謙信だが、昔家出をしたことがある
→ 上杉謙信の性格は?最強だったと言われる理由やエピソードも!
■武田信玄は、家臣に浮気の言い訳を書いた手紙を送っていた
■関ヶ原の戦いで寝返った小早川秀秋はその後、大谷吉継ら西軍の武将の幻覚を見続けて早死にした
→ 大谷吉継の名言集!恨み節満載の言葉や現代にも通ずる名言だ
■信長に仕えていた松永久秀は、信長が欲しがっていた名茶器である「古天明平蜘蛛」に爆薬を詰め、その茶器と共に爆死した
■足利将軍家、信長、秀吉、家康と仕えた細川忠興は、ガラシャ夫人に対してめちゃめちゃヤキモチ焼きだった
■山内一豊は他人のアイデアをそのまま使って、土佐20万石をゲットした
■明智光秀は100発撃って約7割を中心に当てられるほど鉄砲が実は美味かった
→ 明智光秀の最期!死因はまさかの◯◯で大ダメージだった(笑)
■伊達政宗は料理とお酒が好きすぎて、仙台城内にお酒の醸造所を作った
■前田利家はあまりのケチっぷりに奥さんにしょっちゅう怒られていた
■毛利隆元は実は弟達とさほど仲良くなかった
■石田三成は美形だったので、秀吉から「妹か姉がいたら紹介してくれ」と言われていた
■加藤清正は、家康からお土産にもらったお菓子に微量の毒が含まれていてそれを食べ続けた事で死に至った
■直江兼続は伊達政宗のことが大嫌いで、挨拶された時も「背中しか見たことがなかったので挨拶しませんでした」と言ってのけた
■戦国時代四国のほとんどを統一した長宗我部元親だが、幼少の時はとてもおとなしく「姫若子」とあだ名をつけられていた
■北条氏康は夜に酒を飲まず、朝に適量飲むという謎のこだわりを持っていた
■大酒飲みの福島正則は恐妻家で、奥さんに刀を持って追いかけられたことがある
■大谷吉継の被っている白い布は、ハンセン病であったから
■鬼のようと恐れられた最強の武将真田幸村は、実はとても小柄であった
■徳川四天王井伊直政は、小柄な美男子で家康や家来の女子からチヤホヤされまくっていた
戦国武将も1人の人間ということですね。
調べてみるともっとたくさん、面白いエピソードが出てきそうですね!
まとめ
- 織田信長はうつけのふりをしたりするなど幼少期よりその才覚を発揮し、神様にも愛された最強の武将だった。
- 豊臣秀吉は指が6本ある『多指症』であったが、その見た目に劣らず優れた政治を行った武将だった。
- 徳川家康は広い視野を持ち新しいものを多く取り入れた素晴らしい武将だったが、死因は意外にも胃がんであった。
- 戦国武将も1人の人間であり、知られざる面白エピソードがたくさんあった
というのが今回のまとめです!
私たちの知らない歴史、戦国武将の知られざるエピソードがたくさんありました。この機会に皆様もいろいろ調べて見るとオモシロイと思いますよ。
小難しそうな歴史ですが、こういう人間味があるお話を見ていくとドンドン歴史にハマっていきます(笑)
今回は戦国武将のスンゴイ逸話、面白エピソードをご紹介しました!