戦国時代、男性の鎧兜は華やかで、荘厳なものがたくさん伝わってますが、女性の衣装や髪型はいまいち。すぐに思い出せない…なんでぇ…。となったコトありませんか?そんな方のもやもやを少しでも解消できればいいなぁ、と思いまして紹介させて頂きます!
そもそも戦国時代っていつ?
戦国時代の区切りはたくさんありますが、ここでは一般的な応仁の乱(1467年)~織田信長が上洛した(1568年)おおよそ100年間を戦国時代だとして、説明させていただきます。
女性の服装
まずは着物
着物ですが、今の着物とちょっと形が変わってます。
「小袖(こそで)」という、いまの着物のベースになったものです。
「小袖」というのは袖の開きが狭いことからついた名前です。この「小袖」に対して袖丈一杯まで開いているものを「大袖(おおそで)」と言います。「大袖」は今の振袖に近いものです。
小袖は、袖が小さいのが最大の特徴なんですが、その小袖の中でも目立って華やかなのが、桃山小袖です。
安土桃山時代に流行したものなんですが、紅を多く使った派手な柄、色使いのものが多いです。キリシタン文化や南蛮貿易に影響をうけています。
この華やかな小袖ですが、刺繍(ししゅう)を全体にほどこし、辻が花染(つじがはなぞめ)を多く使っているのが最大の特徴です。
お姫さま、奥方様が使っているだけあって優雅で綺麗です。
重さは??
手間暇のかかったこの衣装、正確な重さがわかりませんが、現代の振袖がおおよそ2㎏。1反重さがおおよそ675g。1反で1枚の着物が出来上がります。
1反は11メートルであり、仕立て上がりはおおよそ1㎏です。
その着物を何枚か重ねるので3kg以上…!今の女性の洋服が約700g。
現代の振袖と帯、長襦袢で2㎏。いまの洋服の4倍以上、振袖の1.5倍、それに髪の毛の重量が……!!!姫君、体力半端ない!!!
よく高貴な身分の女性が気絶したのは、この着物の重さのせいかもしれませんね。
価値に至っては…
ウインドーショッピングで辻が花の着物を眺めていたら、値段のゼロの数を数えるのが嫌になったことがあります(笑)。
それに刺繍なんてしたら、ちょっとした国産車が買えてしまいます。
そんなものを日常的に身にまとっているお姫様の気分、想像…。できませんでした。ただ私が着たのならきっと静止して息をするのも気を遣い、重さで肩こりを発症します!確実に!!
辻が花は
辻が花染は室町時代から、安土桃山時代にかけて出来た、絞り染めの技法で、当時染物と言えば辻が花、というくらいに一般的なものでした。
きらびやかな小袖は女性だけでなく、男性も着ていました。特に徳川家康はきらびやかなものを、好んでいたそうです。裃(かみしも)の下に来ている着物は、カラフルなものが多いです。豊臣秀吉は陣羽織を辻が花で仕立てたました。
この小袖、縦糸が弱い練貫(めりぬき)のため、保存状態の良いものが少ないそうです。
きらびやかなこの小袖、女性用のものがたくさん残っていれば、姫君に思いをはせることも、もっと沢山できただろうとおもえて、少し残念です。
練貫(ねりぬき)というものなのでですが、言葉だけだとすごくおいしそう(笑)ですが、織り方の一種で、縦糸が生糸(きいと・糸を作るときに加工していない絹糸)横糸が練り糸(加工しやわらかく仕上げた絹糸)なので、縦糸が弱いのだそうです。
この小袖が流行した理由の一つに、下剋上や治安の低下など、袖が小さく活動的な表着(うわぎ・服装のいちばん上に重ねて着る衣服)として、武家の夫人の正装に採用されるようになりました。
打掛と腰巻
このころはすっかり小袖は重ね着が、定番となっていました。ただ帯は締めず羽織ることを打掛、夏の祝着の際には、打掛を腰に巻く腰巻と呼びます。
安土桃山時代には豪華な打掛と、小袖が作られるようになりました。
打掛の裾には「ふき」と呼ばれて、綿を入れ厚みを出した部分がありますが、寒さ防止だと、ずっと思っていたのですが、実は裾に厚みと重みをつけることで、歩くときに着物が足に、まとわりつくのを防止しする効果と、遠くから見た時に、裾の広がりで身長を高く、すらりと見せる効果もあったようです。
「ふき」という名前、冷静に考えるともしかしたら、廊下やらお座敷やらを拭き掃除する様に似てるから「ふき」ってなんたんじゃないかなぁ。違ってほしいと思います(笑)
時代が落ち着き、逃げることを考えなくてもよくなると、戦国時代も終わったんだと思えますね。平和になるとファッションも華やかになりますしね。
武士も小袖に…
武士の礼装の裃(かみしも)でも小袖を表にだす着方が、通例となり小袖は上着に昇格しました。それまでは下着扱い。今の下着は肌着と言います。
この時代の小袖、仕立て方もちょっと今とは違います。
身丈(みたけ・衣服のえりからすそまでの、背筋の長さ)はおはしょりが(浴衣など着物を着た時に、お腹のあたりに着物が余って、帯の下に出ている部分です)なく、つい丈(身の丈と同じに布を裁って、着物をしたてること)になってます。
今はおしょりがあるので着回ししたり、多少ふくよかになっても(笑)何とかなりますが、桃山小袖は体系に合わせているので、体形維持も課題だったのでしょうか?
つい丈で仕立てると、衿(えり)を後ろの首に当てた状態で着用できたので、今の様に衿をぬかなくても(衿をぬく・首の後ろの部分に、拳1つ分入るくらい衿を開けること)着れるというのがいいです。剣道の道着ように、ぴっちり着たい人はこちらのほうがいいかもしれませんね。
女性の髪型
後ろで束ねているだけの、「元結掛け垂髪(もっといかけすいはつ)」 であることがほとんどです。
家臣の奥さんなどは、束ねているだけですが、身分の高い大名の妻や娘は横の髪を垂らした感じの髪型でした。
サイドの髪を緩やかにたわませて、肩にかけただけの髪型は、家事などの雑事を自分でこなす必要のない、証拠のようでもありますね。
また長く美しい黒髪は美人の条件の一つでした。
でも髪が長いと手入れが大変です。髪を洗うのも月1,2回。洗った次の日は全く動けないという記述も読みました。今の様にドライヤーなんてないのに、長い長い髪を維持するのは、やはり身分が高くなければ無理だということなのでしょう。
話はそれますが、鬢付け油(びんつけあぶら)今はお相撲さんの髷(まげ)を結う時に使う油なのですがかなり独特のにおいがします。これも洗髪の少なさの不快さを防ぐ工夫かもしれませんね。
姫君の髪型に関しては平安の貴族の女性の髪型とあまり変わりがないように、思われますが、京都がファッションの最新だったのでしょう。
ここに住まう高貴なお姫様の髪型が憧れなのではと、私は睨んでおります。
まとめ
- 戦国時代の女性は独自の桃山小袖という文化を流行らせていた。
- 衣裳の重さも今の何倍もあり重かった。
- 価値は高く、刺繍などもふんだんに使われていた。
- 小袖が流行った理由は下剋上や治安が不安定で、活動的に動けるものが流行った。
- 男性にも華やかな小袖が流行った。
- 髪型は京都の姫様風のものがもてはやされた。
戦国時代のお姫さまの、装いは一見華やかですがその重さを表情や所作に出すことなく優雅に過ごすこと、それは気力と体力がないと無理なんだと思います。
いざとなれば夫に代わり城を切り盛りしたり、逃げたりそんな状況にも機敏に動けるような装い…でもやっぱり女性なので美しい装い。綺麗なだけではいられない姫様たちに脱帽です。
皆さんは姫様たちにどんなことを思いましたか?