[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]戦国時代ってルールとかあったのかな?[/voice]
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]なんかイメージだとなんでもアリな感じだけど、実際どうだったんだろうか?[/voice]
戦国武将たちが自分の領土を広げるため、様々な合戦を繰り広げていた戦国時代。
でも、実際の合戦ってどんなカンジだったんでしょうか?
実は戦国時代の合戦には、ルールがきちんとあったようなのです。
今回は歴史マニアの私が、戦国時代の合戦について解説していきたいと思います!
そもそもなんで合戦なんてするの?
自分の領地をどれだけもっているか、どれだけ財力を蓄えているか、どれだけ多くの兵を養っているかが大事であり、そのような大名が天下にもっとも近かったというわけです。
戦国時代というと、足利家が将軍をつとめる室町幕府が残っていたものの、応仁の乱以降、幕府に実質的な政権運営能力はなくなりました。そこで自分の領地となったところに政策を施し、国を大きくしていきます。
また、領地が飢饉などになった場合のために、領地はあればあるだけほしいというのが戦国武将の思惑だったのではないでしょうか?
その他名目や理由はたくさんありましたが、今も昔も結局は欲のために戦を起こすということです。その戦が頻繁に行われていたのが、戦国時代と言えるでしょう。
戦国時代の合戦は実際こんな風に行われていた!
戦国武将は合戦の前に縁起を担ぎたがった?
戦が決まると、まず「出陣式」の準備をしていきます。
軍師が出陣の日取りをきめ、必勝祈願のために神社などで祝詞(のりと)を詠んだり、また大規模な合戦をする場合は、行軍のために必要な兵士や武器を調達したりします。
この準備が終わると一同が介し、出陣式を執り行います。
出陣式では、「一に打ち鮑(あわび)、二に勝栗、三に昆布」の順に食べることで、戦の縁起を担ぎます。「敵に打ち、勝ち、よろこぶ!!」という意味だそうです。
もちろん戦はその人の力量によって勝敗が決まりますが、時の運というのも味方になる時があります。戦国武将も、このように縁起を担いで天を味方にしようとしたんですかね。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]今も昔も大事なことの前には、ゲン担ぎするのは変わらないね~[/voice]
戦国時代の合戦には、とんでもないルールが存在した?
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]合戦するときには暗黙の了解で、こんな流れがあったみたいだよ![/voice]
[aside]
- 1.「鬨(かちどき)」をあげて戦意を鼓舞する。
- 2.相手に名乗る。
- 3.矢や鉄砲部隊による打ち合い
- 4.槍の部隊の進軍
- 5.白兵戦
- 6.戦の終了勧告
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これだけではよくわからないと思うので、実際に細かく解説していきたいと思います!
1.「鬨(かちどき)」をあげて戦意を鼓舞する。
「鬨(かちどき)」とは耳慣れない言葉ですよね。これは「エイエイオー」と、鼓舞する言葉のことです。昔から始める前にきちんと合図のようなものがあったのですね。
その後はなんと「悪口合戦」が始まります!というのも、相手を罵倒することで自分たちの正当性を示し、戦意を高めることをルールとしている合戦も多くあったみたいです。
子供のケンカみたいですね。笑そこから両軍が出陣、行軍を開始しそこで合戦と相成るわけです。
大名同士のような大きな合戦では、おのずから行軍するルートは大きな道と決まってくるので、攻める方と迎え撃つ方が自然と決まっているのだそうです。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]戦う前に悪口合戦してたとか 笑[/voice]
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]戦のイメージが・・・笑[/voice]
2.相手に名前を名乗る。
自ら相手に名乗ることで、出身地と名前を相手に知ってもらうことが、暗黙のルールだったようです。
確かに相手の名前も知らないのに戦うというのは、意味もなく戦をしてるような気がします。
礼儀正しい日本人らしいルールといえますね。
3.矢や鉄砲部隊による打ち合い
最初に投石が始まります。次第に矢や鉄砲を撃ったりしていきます。
これを「野戦」と言いますが、ドラマや映画で見る合戦の場面はこのイメージですね。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]最初は投石!?[/voice]
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]チンピラのケンカやん!まぁ物理的にかなりのダメージがあるから有効なんだろうけど、最初は投石からスタートだったのか・・・[/voice]
4.槍の部隊の進軍
その次に、敵部隊のお城に槍を持って攻め入ります。
これもイメージできますね。
5.白兵戦
クライマックスはここ!
勝負の最後はドラマのような感じではなく、取っ組み合いになって脇差でトドメを刺す、というのが一般的だそうです。恐ろしい…
戦国時代の場合、家来だけでなく足軽がたくさんおり、そのほとんどが領地の百姓などでした。
そのため、命をかけて戦う前に逃げ出してしまうことも多く、そう考えると、大将を失った兵がバラバラになるあの光景、納得できます。
なので、武将は「軍規」を定めており、合戦中に逃げたり、略奪や味方同士のケンカをした兵士などを軍目付け(軍監ともいう)がチェックして、合戦後に罰したりしたそうです。
捕まると磔(はりつけ)の刑に処せられたり、当然敵方の領地で敗残兵になったときは、農民による落武者狩りも頻繁にあったそうです。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]この段階でようやく「ウォォォォォォ!」と合戦らしくなるワケですね。[/voice]
6.戦の終了勧告
1~4まで実施した後、終了勧告を行い、戦況が有利な方が、勝者になります。取りきめ時間に合図(太鼓やほら貝など)があり、その日の戦闘は終了するといった次第です。
武将同士では敗残の将は切腹か、負けた証に出家剃髪することが多いです。また首実検といって、相手の将の首を確認する儀式もあります。ちなみに1日で戦が終わることはなく、数日間続くのが普通です。
灯りも松明しかない時代だったので、夜襲はそれほどないと言われており、日の出から日没までが合戦の時間で各地陣地に戻って翌日の戦いに備えたそうです。
しかし、「夜討」や「だまし討ち」「略奪」等の行為は当たり前に行われていたという、全く逆の言い伝えもあり、これはいまだと卑怯の対象になりそうですが、昔は「知略」である、と評価の対象にすらなっていたようです…。
そして合戦の最後に、前述の軍目付けの記録により、武功をたてた人をチェックして、主君による「論功行賞」が行われます。
命をかけて戦った武将たちの一番の関心事はこれです。いわば命の代償として、手に入れた敵の領地を主君から与えられ、そこの領主として統治していきながら、武将として大きくなっていくわけです。
思っていたよりも戦国時代の合戦にはルールが多く存在しているんですね。武将はともかく、その領地に住むほとんどの農民や商人などは、常に合戦の犠牲になってきました。
そう考えると、戦国大名たちの力を思い切り削ぎ落とし、統治することで戦国の世を終わらせた徳川家康は、すごい人ですよね。感心してしまいます。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]戦国時代って何でもアリ、勝てば官軍のイメージだったけど、意外にもルールがあったワケだ。[/voice]
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]投石とか、悪口とか、なんかイメージと違う部分が見えましたね[/voice]
戦国時代の合戦の死者数って
戦国最大の合戦といえば、関が原の合戦ですよね。東西合わせて15万とも20万ともいわれる兵が戦った戦ですが、死者は最大で5~6千人だといわれています。
また、信長の大量殺戮で有名な伊勢長島の一向一揆の死者が2万人です。
武田信玄と上杉謙信の戦いで有名な川中島の戦いでは、合計5回の戦闘があったと言われていますが、最大の衝突があった第4回目の戦いでは両軍合わせて8千人以上が亡くなったと言われています。
いずれも一日足らずの戦いの死者ですが、戦国時代こんな戦いが頻繁にあったわけではありません。ほとんどの戦が、軍勢の1割を死傷させられれば敗走し、2~3割も死傷させられれば壊滅したそうです。
信長も殺戮ばかりのイメージがありますが、実際には事前の調略により敵を内通させ、圧力をかけて降伏させるなど、基本的には本格的な戦闘は避けようとしています。その他の戦いでの死者数の記録は、どれもはっきりしたものは残っていません。
ただ、これに勝る合戦は他にはなかったので、合計ということで考えると3万〜4万が妥当な数なのではないでしょうか。合戦がたくさんあった中でこの死者数は、少ない方なのではないかと思います。
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まとめ
- 戦国時代にはいくつもの合戦が行われ、そこには暗黙のルールが数多くあった。
- 戦国時代の合戦での死者数ははっきりしていないが、おおよそ3〜4万人と推察される。
というのが今回のまとめです!
思わず笑ってしまうようなものや、日本人らしいルールもありました。
戦国時代の合戦は、このようなルールの元に行われていたんですね。意外な事実がたくさんあり、勉強になりました。
今回は戦国時代の合戦のルールなど、その実際に迫ってみました!
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]悪口で罵り合うところにプフっと吹き出したのは秘密ヽ(´エ`)[/voice]
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