[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]これだけ戦だらけの時代だから、多くの人が戦でお亡くなりになったのでは?[/voice]
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]死亡率も高そうだし、戦なんて絶対に駆り出されたくないよね[/voice]
戦国時代、各地の戦国大名たちが自分の領土を広げるため様々な合戦を繰り広げていました。
戦国時代最大規模の戦いと言われる関ヶ原の戦いでは、約15〜18万人が参加したと言われています。
それだけ大きい規模であれば、死者数や死亡率もとても高かったのではないでしょうか?
戦いによって死者数が多いものもあったのでしょうか?
今回は歴史マニアの私が、戦国時代には行われた合戦の死者数について調べ解説していきます!
戦国時代の合戦での死者数・死亡率は意外な数だった⁉︎
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]戦国時代の合戦の死者数、死亡率・・自分から見たらとんでもなくすごい数字なんだけどアナタはどう捉える?[/voice]
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]当時の戦に行く人達は、死亡率とかなんとなくでも分かっていたんだろうか?何回戦に行ったら大体戦死する・・とか。[/voice]
第4次川中島の合戦
この戦いでは武田信玄の動員兵力が20000人であったのに対し戦死者が4000人、上杉謙信の動員兵力が13000人であったのに対し戦死者が3000人と云われています。
約25%が亡くなっている計算になります。
動員兵力33000人に対しての戦死者数7000人は殺傷能力の低い兵器しかない時代において類のない激戦であったといわれています。
この戦いの結果はどちらも被害甚大で両者共に引き分けといわれています。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]25%が戦死・・・100人行ったら25人が帰らぬ人になったのか・・・怖すぎる[/voice]
桶狭間の戦い
江戸時代に書かれたとみられる、名古屋市・長福寺所蔵の「桶狭間合戦討死者書上」によると、今川方の戦死者は2753人、織田方の戦死者は990人あまりだったと書かれているそうです。
また、書上によると、近江国佐々木方(六角氏)が織田方に参戦しており、援軍の死者は織田方のうち272人を占めたと言われています。
全体ではどのくらい参加したのかは分からなかったので、死者率は出せませんでした。
長篠の戦い
一説によると、長篠の本戦では武田軍の戦死者は1500人程で、追撃戦による死者が7000人前後と云われています。
織田軍も相当な死傷者を出したらしいです。
こちらもどのくらいの人数が参加したのかははっきり分かりませんでしたが、何10万人もの人が参加した大きな規模の合戦だったので、そこから比べると死者数は少ないようにみえます。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いの戦死者は一般的には8000人と云われていますが、一方では32000人ともいわれています。
関ヶ原の戦いでは実際に戦った兵力が西軍35500人に対して東軍45000人、裏切った西軍20000人程なので、戦死者8000人が妥当な数字と思われます。
関ヶ原の戦いは布陣図だけを見れば西軍が三方向にわたって東軍を包囲して包囲殲滅が完成間近で圧倒的な勝利寸前となっています。
戦況が大きく傾くまでは西軍、東軍が互角であり、その後は一気に敗走となった点を考慮すれば、本戦での戦死者は両軍変わらず、敗走後の戦死者が主たる要因といわれています。
さすがは戦国時代最大規模の合戦だけありますね。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]戦って兵士が入り乱れて戦うイメージだったから、死ぬ確率が超高そうなイメージだったけど、死なない人もある程度はいたんだね。[/voice]
大坂夏の陣
戦国時代からは少し外れてしまうのですが、豊臣家と徳川の最後の戦いである大坂夏の陣では、東西両軍合わせ戦死者2万5千を超える類例をみない激戦となったそうです。
戦いの規模によって戦死者も様々ですが、やはり数多くの人々が亡くなっていたことがわかりました。
今の時代がいかに平和かということを実感します。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]逆に第二次世界大戦とかで死んだ人の数がいかに多いかがわかるよね。[/voice]
合戦の後、戦死者はどう処理された⁉︎
戦死者は、首だけでなく全てを剥ぎ取られていた
戦闘が終わって両軍が引き上げると、農民たちが「戦場狩り」を行います。
これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれています。この時我々の眼から見て価値がある鎧、刀、槍などはもちろん、着ているものもフンドシに至るまで全て剥ぎ取られます。
戦国時代の日本は、今の北朝鮮のような「使えるものは全て使う」社会なので、例えば「戦死者がつけていた、血に染まったフンドシ」でも洗えば価値があるので剥ぎ取られました。
地位のある武士が着ていた服は、農民から見れば「超豪華な織物」ですから、血や泥を落として分解すれば高値で売れました。(和服は、縫った部分をほどけば長い反物に戻ります)
サバイバルな世の中ですね。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]やっぱり敗者のモノを剥ぎ取るんだ、死者のものも奪う・・・当時は使えるものは何でも奪う時代だったんだね[/voice]
戦死者たちの供養は⁉︎
戦場狩りが行われた後は、おそらく野生動物が死体を処理してくれたと想像できます。実際、合戦の後の戦場をカラスが徘徊している様子が、当時の手紙で描写されている例があったそうです。
また、地元の僧侶が穴を掘って死体を埋め、供養したと言う例もありました。これは、「戦場狩りで大儲けした農民たちが、罪滅ぼしの気持ちで供養を依頼する」ということが多かったのではと思われます。
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まとめ
戦国時代の合戦では何千人もの人々が亡くなっており、戦死者たちは戦場狩りにあったりしていた
というのが今回のまとめです!
合戦の最中だけでなくその後の事に着目してみたりすると、意外な事実がわかって面白いですね、知られざる歴史を知る事でいまの環境に感謝することもできました。これからもたくさん知られざる歴史を解き明かしていきたいです!
今回は戦国時代の合戦の死者数・死亡率について解説させていただきました!
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]当時に絶対生まれたくないわ~ [/voice]
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]歴戦を戦い抜いて死ななかった人は本当に武術に長けていたんだろうね[/voice]
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