戦国時代

柴田勝家と妻 お市の夫婦仲やエピソードについて

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今回は戦国武将・柴田勝家と妻お市の夫婦仲やエピソードについてご紹介!お市は織田信長の妹。かたや柴田勝家は信長の家臣。二人はどんな夫婦だったのか?迫ってまいりたいと思います!

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未亡人の子持ち美女と男60にして、ついに結婚!

最初の夫・朝井長政を戦で亡くし、9年もの間 お市と娘たちは、もう一人の兄・信包(のぶかね)の庇護のもと、穏やかな時を過ごしていましたが、長兄・信長が家臣の明智光秀の謀反によって本能寺にて自害してしまいます。世にいう「本能寺の変」です。大きな後ろ盾を亡くしたお市親子。信長亡き後、男どもが群がって来ます。笑

そんなお市に再婚話が浮上。相手は信長の家臣だった「柴田勝家」です。無骨な大男で、年齢も60歳。お市とは親子ほど年が離れていました。勝家は60になるまでこの時代には珍しく妻をめとっておりませんでした。だからといって男好きだったという噂もないのです。

私は思うんですよね。お市を強烈に愛する男が信長の家臣の中に二人います。「秀吉」と「勝家」です。秀吉は無類の女好きで、正室・おね以外にも何人もの側室がいましたが、一人だけ手に入らない高貴な女性がいました。それがお市。秀吉自体は、武士ではなく農民の出身なので位の高い女性が好きでした

かたや、勝家も秀吉同様、お市のことが好きでした。でも秀吉と違って勝家はストイックなので「男の操」をたてていたのではないかと思いました。

お市は10代うちに早々に長政に嫁いでいました。「しょせんお館様の妹君と結婚なんて叶わぬ夢。せめて心の中での想いにとどめよう」と勝家は思ったと推測します。

数年後、「本能寺の変」という大変な事態が発生!秀吉が一早く駆けつけ、謀反人である光秀を滅ぼします。そこで、これから織田家をどうしていくか?家臣を総動員した織田家家族会議である「清州会議」が開かれます。

この清州会議で秀吉は、信長の三男・信孝ではなく、直系である信長の孫・三法師(信長の長男・信忠の忘れ形見)を織田家の家督をつがせようとしていました。一方勝家は信孝を支持。

そこで秀吉。自分の立場を優位にするために、愛するお市を勝家に譲ったのではないかと言われています!仮に秀吉が強引にお市と結婚しようにも、正室・おねの存在とお市本人が相当秀吉を嫌っていたので 笑 信長の家臣で60まで独身を通していた勝家のほうが分あったと思いますね。

晴れて24歳違いの夫婦が誕生

肝心の夫婦仲はどうだったのでしょうか?

やはりかつての君主の妹だし、ずっと好きだった女性ですから、手厚く接します。不安だった親子も、勝家の優しさに触れて、次第に心を開いていきます。

夫婦仲も、実際は政略結婚ながら至って良好だったようです。勝家の無骨な見た目とは裏腹に誠実な態度や、夫婦間の歳の差が結構あったので、秀吉のようなギラギラした愛ではなく、父が娘を愛おしむような「慈愛」が夫婦仲良好の理由だったのではと考えられます。

特に、実父・長政が亡くなった時は赤ん坊だった三女の江。長政の記憶がない江にとっては初めての父親とも思える存在だったと私は思います。そのとおり、当時10歳だった江は勝家になついていたといわれます。

私は、大河ドラマ「江」での上野樹里さんと大地康雄さんのイメージが強いですね。他の姉たちは母の再婚に反対していましたが、江は父親ができると喜んでいる場面が印象的でした。

 

 

ここより永遠に!束の間の夫婦!

仲睦まじく暮らしていた勝家とお市でしたが、またも悲しい結末をむかえます。結婚してしばらく経てから「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」が勃発。

清州会議の後、織田家の後継ぎは信長の孫・三法師ということで幕引きされます。けれども、勝家と秀吉の仲はまだくすぶっていました。両者、他の大名たちを自分の見方につけようと躍起になります!しかしここは「人たらし」の秀吉が優勢でした。当初、勝家側だった前田利家が突如秀吉側にまわってしまったのです!勝家は裏切られてしまいました。

それまで仲間だった利家が、敵側の総大将になって北ノ庄城に逃れた勝家を包囲。勝家は万事休すと自害の道を選びます。しかし、妻子だけは道連れにするわけにはいかない。どこか安全な場所へ逃がしてやろうと思うわけです。

ところが、お市はかたくなに拒みます!もし子供たちとともに生きのびようなら、戦いの勝利者の女にされる可能性が高かったのです。勝利者とは、そう秀吉に他なりません!

秀吉が嫌いだったお市。「秀吉の女になるぐらいならあなたと一緒に死にたい」と言います。せめて子供たちだけはと、安全な場所に落ち延びさせます。

勝家とお市は辞世の句を残しています。

勝家は「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」

お市は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜も 別れを誘ふ ほととぎすかな」

とても切ない句ですね。涙 訳すとこんな感じですね。勝家の句は、「そうでなくても夏の夜は短いのに、ほととぎすが今生の別れを急かすかのようですね」お市の句は「夏の夜の夢のように儚い人生だった。山のほととぎすよ、せめて我の名を雲の上へ語りついでくれないか」

二人は、秀吉によってあっけなく滅ぼされてしまいます。なんとも悲しいできごとですが時代の波には逆らえなかったようです。

 

 

信長の妹にして戦国一の美女

お市は単なる信長の妹というだけではなく、戦国一の美女で聡明な人でした。誰もが「俺の嫁に!」って思ったのですが、信長がそうはさせません。怖いイメージに反して信長は妹LOVEだったのです。笑 いわゆる「シスコン」ってやつですね。

信長は通常、他の妹や娘などは公家や自分の家臣に嫁がせて、養女などを大名に嫁がせていたのですが、例外が二人います。妹のお市と娘と徳姫でした。この二人は家と家の同盟関係を成立させるため利用されれるのですが、この時代政略結婚は当たり前のことでした。

なぜ信長はそんなに大事にしていたお市を大名へ嫁がせたのか?お市は2回結婚しており、最初の嫁ぎ先は浅井家で、「浅井長政」という武将と結婚します。信長は長政をとても気に入っていました。長政の実直な性格を気に入って嫁がせたのではと考えられます!

政略結婚なのにもかかわらず、長政とお市の夫婦仲も良好で子供も生まれます。けれども戦国の世に平和な日々は長く続きません。信長が裏切ってしまいます。長政の盟友・朝倉義景に対して徳川家康と一緒に攻め入ってしまいました。「朝倉は長政の盟友だから攻めたりしないよ」という不戦の誓いを信長は破ってしまったのです。

いち早く、お市や三人の娘たちは救出されましたが、長男は嫡男だということで殺害され、次男は寺に入れられてしまいます。夫の長政は自害に追い込まれます。お市の心中察するにあまりあります!兄と夫が戦うなんて。

信長もなんでこんな残酷なことと思いますよね?私は戦国時代という時代ゆえのものがあると思います。やられる前にやらなければ自分が殺されてしまうと。もともと、信長と長政の盟友・朝倉は犬猿の仲でした。

そんな中、信長と長政は同盟を結び、義兄弟の関係になりました。代々、朝井家は朝倉家と仲が良かったので、長政の父・久政などは「昔からの付き合い。織田と縁を切って朝倉につけ」とかいうんですね。

結局、義を重んじた長政は朝倉側につく決意をしたことが、滅亡のきっかけとなってしまうのです。

この時、30代半ばで未亡人になったお市。「美貌は衰えず22、3ぐらいに見えるほど若作りの美女」と、とある歴史書に書かれていたほどでした!そんな美女をまわりが放っとくわけがありません!それから間もなくお市と勝家は結婚しました。

 

 

まとめ

  1. 最初の夫・浅井長政が戦で自害し、その後兄・信長が家臣・明智光秀に暗殺されると、お市は後ろ盾を失い、身を守るため娘たちとともに、信長の家臣・柴田勝家と再婚する。しかたなく結婚したのかと思いきや、案外夫婦仲はよかった。
  2. 二番目の夫・勝家も秀吉に滅ぼされ、戦の勝利者である秀吉の「女」になりたくなかったお市は、娘たちを逃して勝家とともに自害した。
  3. お市は戦国一の美女で頭も良く、戦国武将たちのマドンナ的存在で、最初の夫・長政とも夫婦仲は良くて子宝にも恵まれた。

柴田勝家とお市は、本当にいい夫婦だったのに乱世に生まれたため、一年も満たない夫婦生活となってしまいました。もし平和な世の中に生まれてれば、仲の良い老夫婦になっていたかもしれませんね。

平和だったら、最初の夫・長政が亡くなることもないので矛盾が生じてしまいますね。笑 二回とも政略結婚だったのに、相思相愛っていうのが凄いなあと思いました。お市も単なる美女で頭がいいだけではなく優しさも兼ね備えていて、夫たちもその「人柄」を愛したのではないかと思いました。

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