明治時代

和宮の死因って?和宮の遺体は替え玉だった⁉︎

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和宮親子内親王といえば、孝明天皇の妹で、天皇家の中でも上位のクラスにいた女性でした。

また、天皇家で初めて徳川家に嫁いだ女性として知られています。

この結婚は公武合体のための政略結婚でしたが、時代の背景を考えればやむを得ないものだったといえます。

そんな和宮ですが、実は謎が多く死因や替え玉説などが昨今取り上げられています。

今回は歴史マニアの私が、和宮の死因や謎の替え玉説について解説していきたいと思います!

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和宮の死因は脚気ではなかった⁉︎

しかし、この死因について新たな説が浮上しているのです。和宮の死因は、当時江戸の流行病と呼ばれていた「脚気」と言われています。

それは、和宮は「コレラ」という伝染病で亡くなったという説です。

和宮の葬儀はひっそりと行われたそうですが、関係者は一握りしか参加しておらず、あの天璋院篤姫でさえも参加していなかったそうです。

何故でしょうか?それがこの「コレラ」という病気が理由だとしたら、説明がつきます。

それはある女性の死と関係しています。

吉益亮子は明治維新に米国に派遣された5名の女子留学生の中の最年長者で、眼病を患い、わずか1年足らずで日本に帰国します。

そして、1886年秋にコレラにより亡くなります。ところが、亡くなったということ以外の情報が全く見つかっていないのです。

亡くなった日付も場所も、お墓の場所さえもわからない。

この状況が、和宮の死んだ状況とすごく似ているのです。

当時恐れられていた疫病、コレラ(虎列剌)は発病後数時間で死に至る場合もあり、罹患者の致死率は60~70%と言われています。当時原因が分からず、とても恐れられていた伝染病でした。

発病三日目には簡単にコロリと死んでしまうことから、「三日コロリ」とも呼ばれていました。

このような状況から、迷信や偏見などにより罹患者は迫害を受けることもありました。このため、この病で亡くなった場合は、それを隠匿するということもありました。

感染経路が「経口」、「接触」、「空気」なのかも分からない状況では、庶民がパニックに陥ることは容易に想像できます。コレラで亡くなった人の葬儀への参列など怖くてできません。

実は和宮薨去の年、19年ぶりにコレラが大発生していました。

以上のことから、「和宮コレラ死因説」が浮上したというわけです。

意外な真実です…

しかしながら、死因をうやむやにされてしまい、葬儀にも親しい人が来なかったなんて、なんだか切なすぎます。

この時代だったから余計に、ということだったのかもしれません。

 

 

和宮替え玉説の真相とは⁉︎

替え玉説をご存知の方なら一度は聴いたことがあると思いますが、「和宮様御留」という小説でこの話が話題になったことが発端です。このお話をするにあたっては、まず替え玉説がいつ頃から語られるようになったのかということを理解しておく必要があります。

作者の有吉佐和子さんが「とある婦人から聞いた」という証言を元にして書いたとされていますね。

実は和宮の替え玉説、もしくは「史実とされていることとは違う亡くなり方をした」という話については、有吉さんが聞いた以外にもいろいろな異説があります。

1950年代、増上寺の徳川家墓所が発掘調査されていた最中には、匿名の女性から「和宮様は箱根で盗賊に襲われて自害した」「そのときの傷がご遺体にあるはず」という投書が送られてきたことがあったそうです。

もっとも、「(当時日本にすらいなかったはずの)岩倉具視がこのことを隠した」など、話がめちゃくちゃすぎて検証の余地もなかったそうですが。

高貴な女性が自害することは考えられなくもない話ですが、骨まで到達するほどの傷を自らつけることは無理ですよね…そのようなことは武士でも難しいんじゃないでしょうか。

この遺体はいったい誰のものだったんでしょう?

謎が深まりますね…

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家茂の棺に女性の髪の毛⁉

また、和宮替え玉説についての根拠として挙がるのが「夫である家茂の棺に入っていた髪が、DNA鑑定の結果別人のものだった」という点です。

別人なのはいいとして、「ならば誰なのか」という話に至っていません。むしろそっちのほうが重要だと思うのですが…

「徳川墓所に埋葬されていたのが和宮ではない」ということを言いたいがために、こじつけているような感が強いです。

公式記録では、側室がいないということになっている家茂ですが、和宮以外の女性に全く手をつけなかったわけではないと思います。

家茂と和宮になかなか子供が生まれないので、世継ぎを得るために家茂には側室を勧められたことがあります。

そのときに「お気に入りだったあの女性を側室にいかがですか?」なんて話もあったかもしれません。

その後長州征伐のために家茂が大阪へ行く際、「あの子は公方様のお手がつくような縁起のいい子だから、髪の毛をお守りにすればご武運も開けましょう」なんて話があった可能性も。

いずれにしても、この話は少し根拠が少なすぎるかなという気がします…

 

 

左手の遺骨が見つからなかった⁉

発掘調査の際、和宮の左手の遺骨が見つからなかったという話があります。

「生前から左手がなかったのではないか」「誰かが持ち去ったのでは?」など、こちらもさまざまな説があります。

仮に和宮が脚気という病気で亡くなったとすると、この話は説明がつきます。

脚気は病名通り足が悪くなる病気です。

しかし脚気の症状の中に、手にも影響が出るものがあります。

多発性神経炎という症状は、両手足の手袋・靴下の位置のしびれにより、歩行困難などの運動障害が出ることがあります。

もし歩行が難しくなるほどの麻痺が手に現れたら、手を使ったり人前に出すのが嫌になりますよね。

元々皇女ですから、ご自身で何か物を持つようなことも少なかったでしょうし、となると使わない部分はさらに弱ります。

仮に三年間左手をほとんど使っていなかったとすると、亡くなる直前には手の筋肉は相当弱っていたのではないでしょうか。

脂肪もほとんどついておらず筋肉もやせ細った状態だったため、左手の骨が早く分解されてしまった……なんてことが起きた可能性はあります。

当時の新聞では「和宮の遺体は泥の中に埋もれていた」とあるので、もし本当に左手の骨の分解が進んでいたら、泥に紛れて見つからなくてもおかしくはない気がします。

増上寺にある和宮の銅像や日本女子会館にある和宮の銅像も、左手は不自然に隠れており、また肖像画には左手が描かれていません。

彼女が生前何らかの理由で左手首から先を欠損していたのではないかとの推測もあります。

以上のことが本当ならば先ほどの替え玉説やコレラで亡くなった説も全て嘘になります。

調べれば調べるほど、決定的な根拠は証明できないのです。

 

 

まとめ

  • 和宮の死因ははっきりとは分かっておらず、また替え玉説も確かな根拠はなかった。和宮はまだまだ謎多き女性であることは間違いなかった。

というのが今回のまとめです!

歴史はやはり謎が多すぎて、解明していくのが難しいですね。ですが、それが楽しいこともあります。

これからもこの謎わ解き明かしていきたいものですね!

今回は和宮の死因と、替え玉説について解説させていただきました!

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