[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l "]新選組の有名人の名前は知っていても、新選組の組織の歴史を知っている人は意外と少ないんじゃないかな?[/voice]
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r "]発足から解散までの6年間、どんなことがあったのか、年表形式で見ていこう![/voice]
幕末に、浪士を集めて結成された新選組。個性派ぞろいなので、剣士一人一人の名前は有名かもしれません。でも、新選組全体ではどんな活動をしていたのでしょうか?
新選組の活動期間は約6年間。結成当時はまだ幕府にも力は残っていたのです。しかし外国からの圧力に世論は四分五裂。幕府は混迷の中、急速に弱体化していきます。そんな中で、幕府側だった新選組の活躍を、年表に沿って見ていきましょう。
まずは年表を確認
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l "]新選組の歴史は主に4つの流れに分類できるよ[/voice]
約6年の活動期間はおおまかに4つに分けられます。
- 【結成期】
- 【発展期】
- 【分裂期】
- 【解散期】
ちょうど、起承転結になる感じです。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r "] これら活動期間の年表を見ていこう!まずは【結成期】からスタートだ! [/voice]
【結成期 : 近藤体制確立まで】
- 1862年:清河八郎の建策で、将軍上洛時の警護のため、幕府が浪士を募集。
- 1863年2月:200名余りの浪士で「浪士組」を結成。将軍上洛に先駆けて京都に出発。
- 1863年3月:清河らと別れ、京都にて「壬生浪士組」を結成。新選組の前身となる。
- 1863年9月:八月十八日の政変。活躍が認められ「新選組」の名前を得る。すぐに派閥抗争勃発。芹沢一派を一掃し、近藤・土方ら試衛館一派が中心となる。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l "]最初は新選組ではなく「浪士組」だったんだね。そして壬生浪士組となり、最後に新選組になると。[/voice]
【発展期】
- 1864年6月:池田屋事件。勤王派らの会合を新選組が襲撃。
- 1864年8月:禁門の変。長州藩勢力が京都で市街戦。長州側敗北。
- 1864年9月:新選組の活躍が評価され、感状や恩賞を下賜される。これを受けて、第二次隊士募集。伊東甲子太郎一派も入隊。200名を超す大集団となった。本拠地移転・指揮系統再編・軍中法度制定。
- 1866年3月7日:薩長同盟締結。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r "]新選組って200人を超える集団だったんだ・・!るろうに剣心のイメージだったから少数精鋭なのかと思ってた[/voice]
【分裂期】
- 1867年4月:伊東甲子太郎一派が新選組離脱。御陵衛士を結成。
- 1867年11月9日:将軍慶喜が大政奉還。
- 1867年12月:油小路事件。伊東甲子太郎ら、近藤一派に暗殺される。
【解散期 : 戊辰戦争】
- 1868年1月:戊辰戦争勃発。新選組は鳥羽伏見の戦いに参戦し、敗北。
- 1868年3月:甲府城に進軍するも、甲州勝沼の戦いで敗北。
- 1868年4月:下総流山に布陣するも、新政府軍に包囲される。近藤勇投降。土方ら新選組隊士は旧幕府軍に合流。
- 1869年5月11日:土方歳三戦死。
- 1869年5月14日:新選組降伏。解散。
- 1869年5月18日:旧幕府軍降伏。戊辰戦争終結。
今度は「結成」「発展」「分裂」「解散」をそれぞれ詳細に見ていこう
新選組の歴史を詳細に見ていこう
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l "]ここからはそれぞれの時期にどんなことが起こっていたのか見ていこう![/voice]
【結成期】 国は3つの意見に割れていた
幕末の国内状勢を理解するために、まず国内世論としてどんな意見があったかを把握しましょう。大きく分けて、
- 「公武合体派」
- 「尊王派(尊皇派とも書きます)」
- 「攘夷派」
の3つの意見がありました。
朝廷の公家や、各藩の大名・藩士・浪士、さらには幕府内部の人間に至るまで意見がバラバラの状態。
分かりやすくするために、
- 「公武合体派」は幕府サポーター
- 「尊王派」は天皇サポーター
- 「攘夷派」はアンチ外国勢力としましょう。
1862年に十四代将軍徳川家茂が皇女和宮と結婚しました。これによって公武合体が実現して、「天皇サポーター」も幕府を応援してくれるようになると考えたのです。更に、翌年の1863年3月には将軍が新妻の実家にあたる朝廷に上洛して御挨拶し、その際に天皇に対して外国勢力の打ち払いを約束することになりました。これで、「アンチ外国勢力」をも幕府側の味方につけようとしたのです。
これは将軍家の政略結婚ですね。うまくいけば、国は一つにまとまる筈でした。
浪士組を結成
1862年、江戸幕府は庄内藩士・清河八郎の建策を受け入れ、翌年の将軍上洛の際の警護を担当する浪士を江戸で募集しました。1863年2月、200名余りの浪士たちが集まり「浪士組」を結成。将軍の上洛に先駆けて京都へと出発しました。
この段階では、「幕府サポーター」の浪士も、「天皇サポーター」の浪士も、「アンチ外国勢力」の浪士も混じっていたと思われます。そもそも将軍上洛の目的自体が玉虫色に塗られていましたから、各浪士が都合のいい解釈をして参加していたことでしょう。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"] 新選組内でも、立場がバラバラだったんだね。[/voice]
新選組の前身 「壬生浪士組」を結成
当然すぐに問題発生。京都に着いてみると、清河は勤王勢力と通じていて、浪士組を天皇配下の兵力にしようと画策していることが分かりました。つまり京都に着いた途端、俺たちは「天皇サポーター」なんだぜ!と言われてしまったわけです。
浪士組も意見が割れました。「天皇サポーター」たちは清河八郎とともに江戸へ戻りました。一方、「幕府サポーター」たちはあくまでも将軍警護のために京都に残りました。
1863年3月、京都残留組は京都の壬生村を屯所とし、「壬生浪士組」を結成しました。新選組の前身です。この中に、近藤勇や土方歳三を中心とする試衛館派と芹沢鴨を中心とする水戸派がいました。
「新選組」誕生
1863年は「天皇サポーター&アンチ外国勢力」(尊王攘夷派)の活動が活発化した年でした。具体的には長州藩や急進派公卿たちです。これを抑えるため、「幕府サポーター」(会津藩と薩摩藩が中心)が彼らを京都の町から追放しました。これが八月十八日の政変です。
壬生浪士組は警備のために出動し、大活躍をします。彼らは「幕府サポーター」の集まりですから、俄然はりきったことでしょう。これを機に、「壬生浪士組」は「新選組」と名前を改めました。局長は芹沢鴨になりました。
ところが、すぐに派閥抗争。近藤・土方ら試衛館派が、芹沢鴨らを暗殺。水戸派を一掃しました。新選組は、近藤を局長として試衛館派中心の組織となりました。
ここまでが【結成期】です。
【発展期】池田屋事件と禁門の変
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]ここから新選組の【発展期】です。 [/voice]
1864年は、「天皇サポーター&アンチ外国勢力」 vs 「幕府サポーター」の大きな衝突が二つありました。池田屋事件と禁門の変(蛤御門の変)です。
6月に起きた池田屋事件は、長州藩・土佐藩・肥後藩の「天皇サポーター」たちが池田屋で会議を開くという情報を新選組が入手し、これを襲撃したものです。「天皇サポーター」たちの御所焼き討ち計画を未然に防いだということで、新選組の名前は天下にとどろきました。
これに激高した長州藩勢力が8月、会津藩主・京都守護職の松平容保らを排除すべく挙兵し、京都市中で市街戦を繰り広げました。大砲も投入された激しい戦闘でしたが、長州藩勢が敗北。これが禁門の変です。ちなみに、新選組は京都守護職に属していますから、松平容保の部下ということになります。
この2つの事件で新選組の活躍が評価され、朝廷・幕府・会津藩から感状や恩賞をもらいました。
これに伴い、1864年9月に第二次隊士募集を行いました。新選組は200名を超す大集団となり、手狭になった壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転。指揮系統の明確化のため小隊制(一番~八番の小隊、及び小荷駄雑具)に改組。「軍中法度」も制定しました。
この時期に、後々の火種となる伊東甲子太郎一派も入隊しています。
驚きの薩長同盟成立!
さて、大所帯となった新選組ですが、それから2年半くらい大きな動きはありません。小さな事件はありましたが、大きな報奨をもらえるような活躍の場がありませんでした。
小さな店を始めたら繁盛したので店を大きくした途端、客が来なくなった!みたいなパターンですね。
しかしこの時期に、情勢は大きく動いていました。薩摩藩が「幕府サポーター」から「天皇サポーター&アンチ外国勢力」に移籍し、薩長同盟を結んだのです。八月十八日の政変や禁門の変で激しく衝突した仇同士の両藩。まさかの展開に誰もが驚いたはずです。
これで、情勢は大きく変わりました。
【分裂期】油小路事件
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]ここから分裂期!参謀に迎え入れられた伊藤が事件を起こす![/voice]
【分裂期】に入ります。ここで伊東甲子太郎の登場です。
伊東は江戸の伊東道場(北辰一刀流)の道場主の婿養子。伊東道場はかなり大きな道場です。彼は弟、盟友、門人などを引き連れて新選組に入隊しました。彼は文武両道で弁舌巧みな才人でもあったで、いきなり参謀(局長、副長に次ぐポスト)として迎えられました。
入隊した時は新選組絶好調でしたが、その後の2年半は閑散な日々でした。そして実は、伊東は「天皇サポーター」だったのです。薩長同盟により国内情勢は「天皇サポーター」が優勢になりました。才能豊かな彼はじっとしていられなかったに違いありません。満を持して、彼は行動に出ます。
1867年4月、伊東は自分の一派を引き連れて新選組を離脱し、御陵衛士を結成。しかし同年12月に、近藤ら一派により暗殺されました(油小路事件)。
【解散期】戊辰戦争
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]ここから解散期です。新選組内でも生き残ったもの、処刑されたものなど、それぞれの最後を迎えました[/voice]
最期、【解散期】です。
1867年11月に徳川慶喜が大政奉還。翌1868年1月に戊辰戦争が勃発しました。新選組は、旧幕府軍に従って、初戦の鳥羽伏見の戦いに参加し敗北。1868年3月には甲府城に進軍するも甲州勝沼の戦いで敗北。
態勢を立て直すべく、1868年4月には下総流山(現在の千葉県流山市)に布陣するも新政府軍に包囲され、近藤勇が投降。後日、処刑。
土方ら新選組隊士は旧幕府軍に合流。北へ逃れ、会津など東北の緒戦に参戦。最終的には、箱館の五稜郭に入城しました。
1869年5月11日に土方歳三戦死。5月14日に新選組降伏。5月18日に旧幕府軍降伏。これをもって戊辰戦争も終結となります。
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まとめ
[aside]
- 新選組は、政略結婚した将軍家茂を警護する浪士を募集したことから始まる。
- 近藤勇は、初代局長の芹沢鴨を暗殺して局長になった。【結成期】
- 結成当初は、八月十八日の政変、池田屋事件、禁門の変と立て続けに活躍し、名声をとどろかせた。第二次募集を行い、200名規模の大集団となった。【発展期】
- 薩長同盟成立など情勢の変化から、活躍の場がなくなり、内部分裂が生じた。【分裂期】
- 戊辰戦争が勃発し、新選組は幕府側として参戦。各地を転戦し、箱館で降伏・解散。【解散期】
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たった6年間ですが、いろんなことがありましたね。そもそも将軍家の結婚で公武合体がうまくいけば、新選組の仕事も楽なものだったのでしょうけど。薩長同盟にはビックリです。その後は大政奉還、戊辰戦争と、大きな時代のうねりに巻き込まれてしまった感じです。
ところで、最初の浪士組で清河八郎と一緒に江戸に帰っていった浪士たちはどうなったと思いますか?「天皇サポーター」の側だったはずだから戊辰戦争で勝利して万々歳?と思いきや、とんでもない。江戸に戻ってすぐに清河八郎は暗殺され、幕府の下で新選組と同じような仕事を江戸で担います。その名も新徴組。でも、目立った活躍はないまま戊辰戦争に突入…。
新選組の方が、まだ良かったのかな・・・。新徴組なんて、今は誰も知らないですからね。みなさんはどう思いますか?
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