江戸時代

生類憐れみの令って蚊もアウト?!背くとどんな罰則が待っていた?

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犬公方(犬くぼう)。

それが江戸幕府5代将軍・徳川綱吉のあだなです。

徳川綱吉が発布したという「生類憐みの令」は人より犬を大切にした悪法と言われています。

犬公方はいわゆる悪人、悪殿様、あるいはバカ殿?

でも、犬を大切にするって、そんなに悪いことじゃないですよね?

「生類憐みの令」って、動物愛護法の江戸版なんじゃないんでしょうか?

どうしてそんなに悪法と言われるのか?

どうして犬を大事にしたのか?

そのへんの疑問を解決すべく、調べてみました。

レッツ、動物愛護!

ちなみに、私は犬より猫派です!

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「生類憐れみの令」って”蚊”も憐れむんですカ!?

「生類」とは言いますが、どんな種類の生物までを徳川綱吉が憐れんでいたのか調べてみました。

お釈迦様は虫さえも憐れんでインドの雨季には地面を踏んで歩くことはなかったといいます。

徳川綱吉はいかばかりカ?

というと、どうも「蚊」に関して罰を受けた、それも厳罰を受けた人がいるらしいのです。

それが伊東淡路守基祐。お武家さんです。

いっぱしの武士が蚊に血を吸われ、それを思わず叩き潰したからとお咎めにあった……。

しかも流罪なんです……。そうとう重い罰です。

基祐と同僚の井上彦八も見ていながら止めなかったとして閉門(基本的に軟禁状態)。

ちょっと、重すぎる罰則のような気がしませんか。

それはいくらなんでも、歴史上の誇張表現なんじゃないでしょうか?

しかし、蚊のせいで罰せられたという話の出典は『御当代記 将軍綱吉の時代』という江戸時代前期に書かれた本です。

作者は戸田茂睡という国学者だそうですから、適当なことは書いていないのではないかという気もします。

『国史大系』という歴史書を集めた史料でも同じ伊東淡路守の名前があがっているそうなので、本当にあった話と思えます。

でも、蚊はいくらなんでもやりすぎなのでは?

溜め水を撒くのも、ボウフラが死ぬからと禁止されていたそうです。

ボウフラって、蚊の子どもですよ。そんなに蚊が大切でしたカ?

 

 

生類憐みの令ってなんですカ?

そもそも「生類憐みの令」とはなんなのか?

本当に蚊も憐れむようにという内容だったのでしょうか?

江戸時代に発布される決まり事って、川のほとりに高札が立って、張り紙が出されて「これこれこうするべからず」って書いてあるイメージなのは、昔の時代劇がもたらした誤ったものかもしれません。

しかし、そんな形式のことは、このさいどうでもいいのです。

問題は、綱吉の時代に発布された法令のなかに「生類憐みの令」という法令があったかというと、そうじゃないらしいのです。

 

 

「生類憐みの令」という名の法令は存在しなかった!

歴史の授業でも名前を教わったはずの「生類憐みの令」という法令はなかったということらしいのです。

『日本史大事典』には「徳川綱吉政権の一連の政策が、とくに生類憐みの令と呼ばれる。この名称で総括した一つの幕法は存在せず」との記述があります。

また『生類憐み政策の成立に関する一考察』という根崎光男氏の論文でも「『生類憐み』の趣旨を掲げたさまざまな法令の総体を『生類憐みの令』という歴史用語で呼んでいるのである。」とあります

「生類憐みの令」という名前の法令は存在しなかった。

では、いったいなにを「生類憐みの令」と呼ぶのかというと徳川綱吉が在位中にいろいろな法案を出した、その「いろいろ」を総称したものだったのだそうです。それこそ、犬だけではないのです。ということは、ほかのどんな命を大切にしたのでしょうか?

 

 

「生類憐みの令」と呼ぶべき最初のお触れはコレだ!

「御成被為遊候御道筋江、犬猫出申候而も不苦候間、何方之御成之節も、犬猫つなき候事、可為無用者也」

貞享2年(1685年)7月14日のお触れです。

「将軍が道をお通りになるときに、今までは犬猫は繋いでおくことになっていたが、今後は出てきてもかまわないので、将軍がどこへお通りの際でも犬猫を繋ぐ必要はない」

お殿様の行列が「下に―、下に」なんていいながら静々とやってきたところに猫が飛び出し、犬が吠えかかるというような事態になってもかまわないという鷹揚な態度です。

犬猫も自由に闊歩できて心安らかでいられたことでしょう。

お殿様のお供の人たちは、いつ行列に動物が駆けこむかと気が気じゃなかったでしょうけれども。

 

 

徳川綱吉は犬好きですカ?

5代将軍・徳川綱吉、あだ名は「犬公方」。

そんな名前で呼ばれるということは、やはり犬好きなのでしょうか?

さきほど紹介した法令では犬だけでなく猫にも優しい態度だったようですが。

綱吉と犬、というと『犬小屋』というものが江戸市中にはありました。

犬小屋くらい、そりゃあるよ。

と思ったら、ちょっと想像したものと違いました。

  • 中野の犬小屋 16万坪
  • 大久保の犬小屋 2万5千坪
  • 四谷の犬小屋 1万8928坪7合

近所の家の犬小屋とは規模が違いました。

この犬小屋、なんのための施設かというと、そのものずばり、犬を飼うためのものです。

江戸時代の始めには鷹狩りが多く行われていたのですが、綱吉は動物愛護の観点からか鷹狩りを禁止します。

そうすると、鷹の餌として飼育されていた犬が余りまくったのです。

同時に、綱吉は犬食も禁じました。

人までもが犬を食べていた時代だったのですが、それも禁止になると、犬はますます余ります。

「生類憐みの令」のおかげで犬を殺すなどもってのほか、捨てることもできません。

人を襲う野犬、売れなくなった大量の犬、江戸は犬問題で大変なことになっていたようです。

それを解消するために犬小屋を作りメス犬を隔離して、野良犬を増やさないようにした政策だったようです。

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憐れむべき動物たちは、ほかにもいますカ?

徳川綱吉は幼少のころから儒教をみっちりと勉強させられていたそうで、将軍就任の初めから仁政を布いていたのだそうです。

「生類憐みの令」は生き物を大事にするという儒教の「仁」の思想から来ているのです。

そのため、大切にするのは犬猫に限らず、捨て子を放っておかないこと、病人や老人をいたわること、病気の牛馬を捨てないこと、などなど。

今の時代では当たり前のことが江戸時代初期には、お触れを出して禁止したり奨励したりしなければならない世の中だったのだということがわかります。

他には、無届の鉄砲所持は罰せられる、見世物用の動物利用の禁止など賛成できる法令もたくさんありました。

 

 

法令違反したら命もないですカ?

蚊のせいで流罪・閉門もあり得るのですから、もちろん、ほかの場合にもお咎めはありました。

とくに法令を破ったのが武士だと、処罰が厳しかったようです。

犬を虐殺したものが死罪。

鉄砲で鳥を殺して商売した大阪与力など10人が切腹、1人が死罪。

病気の馬遺棄で村民10人が遠流。

吹き矢で燕を撃ったものを死罪(徳川家綱の命日であったための厳罰とも言われています)。

犬虐待・犬殺しの密告者に賞金が与えられる。

密告制度まで出てくるほどに犬に対する虐待は減らなかったようです。

もしかしたら、お触れに対する腹いせということもあったのかもしれませんね。

 

 

結局、生類憐みの令は悪法だったのですカ?

じつは、生き物を大切にしようという法令は徳川綱吉が発したのが最初ではありません。

7世紀後半から8世紀にかけての律令制の時代には、仏教に基づいた政治だったために、肉食や殺生が制限されたり、禁止されることもたびたびありました。

生き物を大事にするということは日本では古くから意識されてきたものです。

ですが、繰り返し法令で取り締まらなければならなかったということは、決まりを守らない人が多かったということでもあります。

江戸時代、徳川綱吉の時代以降、犬小屋や肉食(鳥やエビも禁止されていたので)などが少しずつ解禁されていったそうです。

それでも人を始めとして生き物を大切にするお触れは残されたそうです。

良いところもあれば、悪いところもある。血の通った法令だったのではないでしょうか。

 

 

生類憐みの令は蚊もアウト!? まとめ

一発アウトだった事例

・蚊を潰して流血を見せた。

・犬を虐殺。

・先代将軍の命日に殺生をした。

 

そこそこの遠流だった事例

・捨て馬

 

密告歓迎

・犬虐待の犯人を密告すると賞金がもらえる。

 

なかなか厳しいところもあった「生類憐みの令」。

ですが、現代にも通じる善政だった側面もありました。

「犬を大切にしすぎた」と言われてきた法令ですが、そこには必要とされる理由がありました。

しかし、蚊について正当な理由は今回調べてみても見つかりませんでした。

私は蚊を潰して死罪は、重すぎるように思うのですが。

これから蚊を見つけたら「お前にも愛護の心をかけようか……」と少し考えてみると、綱吉の気持ちになれるかもしれませんね。

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