今回ご紹介するのは守護と地頭についてです。
言葉はなんとなく聞いたことがあるけど、違いがイマイチわからないなあという方が多いのではないでしょうか??。
今回は守護地頭の違いをわかりやすく解説していきたいと思います!
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]小学校のときに習ったけどそれ以来忘れちゃったよね [/voice]
守護について
現代でいえば県警の本部長クラス?
守護は平安時代後期に国内の治安や秩序を整えるために作られた役職です。
起源は、国司というもとは、中央の官吏(現在の官僚にあたる)という役職の人が地方へ国の行政官として派遣されていた役職の人で、その国司がそれぞれの土地の有力武士を「守護人」に任命したのが始まり。
時代は移り変わり、貴族中心の平安時代が終って「武士」という新たな立場が誕生。貴族の場合、朝廷を中心として藤原氏など圧倒的存在がいるので、割と平和な日々が続いていました。
しかし「武士」となると、今までにない存在なので何も取り締まらなければ日本が無法地帯になる恐れがあったのです。そこで設置されたのが「守護」でした。
守護の仕事は主に謀反人や人殺しの捜索や逮捕、大番役(鎌倉と京の都で警備を命じた者)に地方在住の御家人を選び、管理させることでした。
その後、守護は室町幕府が滅亡するまで続きました。代わって台頭した「織田信長」や「豊臣秀吉」によって守護が置かれなくなり自然消滅してしまうのです。
地頭とは
なんでも屋的存在だった?
地頭はどんな役職だったのでしょうか?
もともと、平家が政権を取る以前からあった役職ですが、頼朝が朝廷から許可をもらい正式に全国に設置させました。地頭も地方在住の御家人から選出され、荘園(権力者の私有地)などの警備、税の徴収、土地や農民などの管理業務を担当していました。
「警察」的なことをしていたという点では、守護と被るところがありますが、地頭は警察及び税の徴収や、土地の管理とか、お役人や不動産屋的なこともしていたのです。いうなればなんでも屋です。
地頭は、江戸時代になると言葉のニュアンスが違ってきます。
旗本や御家人など大名より格下の武士が1万石未満の小領主を指す意味になったり、地方の諸藩でも、知行(将軍や大名が家臣に対して、金銭や物資を支給すること)を受けていた給人を指す言葉と変化していったのです。
つまり、守護は警備、取り締まり専門だったのに対し、地頭は警備も取り締まりも、税の徴収も土地の管理もすべてやるという違いがあったのです!
[aside]
- 守護→警備、取締専門
- 地頭→警備、取締、税徴収、土地管理などなど
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守護と地頭はあの征夷大将軍が作った!
そもそも誰が「守護」と「地頭」いう役職を作ったのでしょう。
守護地頭を作ったのは「源頼朝」です!頼朝には、源義経という有名な弟がいました。しかし二人は異母兄弟で、義経は側室の子供。義経は、再会した時にとても喜び「兄さん兄さん」と慕っていましたが、頼朝は「今さらなんなんだよ。側室の子が!」って感じで、義経のことを良くは思ってなかったんですね。
義経は、壇ノ浦で平家を滅亡させ、一躍日本のヒーローになります。後白河法皇からも寵愛を受け、頼朝は危機感を募らせます。
源頼朝は男の嫉妬をしてしまい義経のことが許せなくなりました。頼朝はあくまでも「打倒貴族」で、武士中心の国家を目指していました。
二人は出生もそうですが、考え方も違っていたのではないかと思いますね。頼朝はどちらかといえば策士、政治家的な人で、義経は最前線で戦う軍人。これでは相いれないと思います。
義経は単純な人で、兄 頼朝に「ねえねえ兄さん、法皇から官位をもらったよ」と言います。自分が官位の位をもらえば兄が喜んでくれると思いました。物の考え方は違う、幼き頃から寝食をともにしたわけじゃない。大人になって急に兄弟だよと再会したとて、簡単に情はわきません。
義経も黙っていません。なんと法皇に「頼朝追討命令」を出すよう迫り、法皇は義経がかわいいですから、「しょうがない、出してやるか」と頼朝追討令を出しました。
この事態に、激怒した頼朝。お触れを出した後白河法皇に詰め寄るのです。「朝廷がどうなってもいいのか!逆に義経追討命令を出して、全国の武士に義経を取り締まらせ、土地の所有権や管理権をよこせ」と恫喝。頼朝の過激な行動によって「守護」と「地頭」は誕生したのでした。
今まで土地は、貴族や寺など「荘園」というのは除いて、朝廷のもので独占していました・・・しかし、実際に土地を使用できるように管理していたのは武士だったんですね。
それなのに武士に権限がないのはおかしいじゃんと。
追い詰められた義経はとうとう奥州の平泉(現在の岩手県平泉市)で自害することになります。守護と地頭が、悲しい兄弟間の骨肉の争いによって誕生したのはなんとも皮肉な話です。
守護から戦国の覇者たちが誕生した?
守護はあくまで、取り締まったり、時には戦ったりと警察や軍隊的役割が主な仕事でしたが、ある時期から毛色が変わっていきます。足利尊氏などが出てくる鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱期から変化がおきました。
南北朝時代になると、荘園の年貢を守護が受け取ったり、だんだんと荘園の領地を横取りして自分の土地にするようになっていきます。
守護が少しずつ我が物顔になってきたのです。はては、荘園の荘官や地頭を自分の家臣のように扱うようになりました。
そんな動乱期を経て、足利尊氏が幕府を開き、室町時代に突入します。しかし、室町幕府も徳川と同じく15代続きます。政権が長い=最後の方はチカラが無いとも言えます。
将軍家弱体化を狙って、地方の守護が力を合わせ始め、守護大名の輪が広がります!力が強固となり、やがて戦国大名へと変化していったんですね。
湯浅宗親、その男凶暴につき!
では地頭はその後どうなったのでしょうか?荘園の領主は貴族が任命されていましたが、地頭は武士が任命されていました。貴族は、はっきりいって「麿」って感じだからおっとりしていて、争いごとは起きなません。ところが、地頭は武士なので、暴力を駆使してことを解決しようとしたのです。文化系と体育会系ぐらいの温度差がありました。
鎌倉時代後期、湯浅宗親という御家人がいました。代々御家人の家に生まれ、文永10年に、父・宗氏から地頭職を譲り受けます。
けれども、宗親は農民たちを暴力でおさえつけようとします。恐れをなした農民たちが、寂楽寺という寺の住職に助けを求めます。住職は百姓訴訟を受け取るんです。訴訟には信じられない文字が書かれていました!内容は、農民たちが抵抗すると「耳を切り、鼻を削いでしまうぞ!」って脅されたという文章。北野映画顔負けな宗親。
もっと偉い人が出現します。桜井宮法親王という、朝廷に近い人物が、「こんな悪行は止めさない」と諌めます。ところが、宗親は相当な悪だからシラをきります。「農民たちの訴えは事実無根です」と言い切ります。
結局、農民たちは泣き寝入りするしかありませんでした。世の中には「泣く子と地頭には勝てぬ」という流行語まで誕生しました。
誰も恐れる地頭でありましたが、室町時代になると守護の権限が大きくなり、守護に立場を奪われ、家来的扱いを受けるようになり、地頭は名ばかりの役職となっていきます。
結局、正式な地頭は室町時代中期には亡くなってしまいます。
まとめ
- 守護は、犯罪者の取り締まりなど警察的役割や時に戦ったり軍人的役割を果たしていた。
- 地頭は、荘園という限定された土地の取り締まりや、税の徴収や土地の管理、農民からの年貢の徴収など、警察や役人、不動産屋などなんでも屋的役職だった。
- 守護と地頭の役職を設置したのは、源頼朝だった。
- 守護は、室町時代後期から力をつけた守護が守護大名となり、戦国時代に戦国大名へと変化していった。
- 地頭は、暴力で農民たちを恫喝する者がいて、室町時代になると守護に立場を奪われ名ばかりの役職となり、室町時代中期には消滅した。
こうしてみると、現代につながる職業が鎌倉時代から誕生していたんですね。それが皮肉にも源氏の兄弟けんかが発端なんて。もし頼朝と義経の仲が良ければ守護と地頭は誕生していなかったかも知れないのは歴史の不思議ですね。