日本の歴史上、美少年と呼ばれる人物は何人もいます。
源義経、森蘭丸、沖田総司……。現代でさえも、ファンクラブまで存在する彼ら。平敦盛もその美少年のうちの一人です。
平敦盛という名前、歴史の教科書で、あるいは国語の教科書で『平家物語』を習った時に、その名前を見たことがある方は多いのではないでしょうか。
平敦盛は源平合戦(治承・寿永の乱)で討ち死にした若武者です。時代物を題材にしたドラマや漫画やゲームでも、もちろん美少年キャラとして扱われています。
ですが、平敦盛の肖像画が残っているわけではありません。証拠となる映像はないのです。なのに、どうして美少年と言われているのでしょうか?根拠はどこにあるんでしょうか?
美少年は心のビタミン。多ければ多いほどいいのです。積極的に摂取しなければなりません。ですが、本物の美少年でなくてはビタミンの鮮度が不足してしまいます。
はたして平敦盛は本当に美少年だったのか?どうして美少年と呼ばれるのか?その根拠を探ってみましょう!
平敦盛は美少年だったのか?
平敦盛は平安時代末期の武将です。笛の名手だったと言われています。
源氏と平氏の戦いの中で、たった十六歳で命を落としました。
歴史では源氏と平氏の戦いについて習いましたが、あらためて調べ直すと、結構いろいろなことを忘れていることに気づきました。
もっとまじめに勉強しておくんだった……。と、後悔していないで、学び直しましょう!これから、源平合戦について、だいたいの概要をまとめてみます。
源平合戦って、なんだっけ?
源平合戦(治承・寿永の乱)は、平安時代末期、治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)まで、実に6年間にも及ぶ、源氏と平氏の戦いです。
公家社会だった平安時代の後期に武士が力をつけていき、政治の世界にも介入していきます。そのなかでも平氏、とくに平清盛が権勢を誇りました。
「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉を平清盛が残したという逸話が残るくらいの勢いがあり、また同族意識がすごく強かったようです。
日本各地の所領の統治も、かなりの部分を平家が独占していました。
それに反発した源氏と、各地の公家が立ち上がり、とうとう戦いになったのです。主に、平氏勢力と源氏勢力が争ったので、源平合戦と呼ばれています。
源平合戦はどうして有名になったの?
『祇園精舎の鐘の声 諸行無常のひびきあり』そういう書き出しで始まる軍記物語である『平家物語』。
鎌倉時代に出来たと言われるこの物語の中で、源平合戦について、くわしく語られています。
この『平家物語』が、琵琶法師と呼ばれる人たちが、街中で琵琶を弾き、歌って聞かせる物語として鎌倉時代以降に流行しました。
その中でも特に人気があったのが、『敦盛最期』の段。能や歌舞伎にも使われ、美しくも悲しい物語として描かれています。
敦盛が美少年と言われるわけ
この『平家物語』のなかに、敦盛の美少年っぷりが、はっきりと描き込まれているのです。
それを踏まえてでしょうか、『平家花揃』という室町後期の本では、敦盛は「冬梅」に例えられる美しさだったようです。
また、蘭の一種にもアツモリソウという名前がつけられるほどですので、花のかんばせ、という形容詞が似合う人物だったのでしょう。
笛の名手としても知られていて、鳥羽上皇からくだされた代々伝わる『小枝の笛(青葉の笛とも)』を託されていたとも言われています。
当時、楽器の演奏が出来るということは教養の一つとして大切なことでした。
名手ともなれば、それだけでモテるということも時にはあったようで、そこも美少年と言われる所以になっているのかもしれません。
平家物語で語られる平敦盛のSTORYと最期
『人間五十年 下天の中をくらぶれば 夢幻のごとくなり』
この歌詞、聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
実はこれ、織田信長が好んで演じたと言われる幸若舞の歌詞の一部、その出だしです。
演題は『敦盛』。源平合戦で戦死した平敦盛の最期を描いた作品です。
舞の題材になるくらい、広く知られた物語の原型、『平家物語』の中で敦盛の最期について書かれている段を読んでみましょう。
敦盛のいさぎよさ
一の谷の合戦で源氏に敗れた平氏の武者たちは海に逃げて船を漕ぎだします。
退却の際に、小枝の笛を持ち出し忘れて取りに戻った平敦盛は、一人遅れて船に向かいます。
しかし、波打ち際にいるところを源氏方の熊谷直実に見つけられてしまったのです!
熊谷直実は敦盛の立派な鎧兜を見て、上位の武将であると判断しました。
熊谷直実:そんな大将軍が敵に背中を見せて逃げるとは何事か、戻ってこられよ』
と呼びかけると、敦盛は足を止めて直実と一騎打ちをするのです。
しかし、直実は百戦錬磨の腕の立つ武将。一方の敦盛は若干、十六歳。かなう相手ではありませんでした。
直実は敦盛を浜に取り押さえて、首を切ろうと敦盛の兜に手をかけました。ここで物語に触れていた人たちは、ああ、敦盛があぶない!と目を覆いたくなったでしょう。
その部分を、平家物語の原文で見てみましょう。
『平家物語』より「敦盛最期の段」の一部
「取って押さえて首をかかんと甲を押し仰けて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧して、鉄漿黒なり。我が子の小次郎が齢ほどにて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず」
以下に意訳を書いておきます。
「取り押さえて首を切ろうと兜を押し上げて見ると、年齢は十六か十七ほどで、うっすらと化粧をして、お歯黒もきれいに塗っている。
直実の子、小次郎くらいの年で、顔かたちがとても美しく、どこに刀を突き立てればいいのかわからないほどだった。」
平安時代末期には、少年少女問わず、化粧もお歯黒もすることが流行っていたそうです。敦盛も身なりを正していたのでしょう。
そして、ここにはっきりと『容顔まことに美麗なりければ』と書いてあるのです!それも、刀をたてて傷をつけることが、はばかられるほどの美しさ!
こんなに熱烈に賛美されるとは、敦盛の容姿の素晴らしさ、恐れ入りました。
平敦盛のその後
その美しさに刀が鈍り、敦盛の年ごろに我が子の姿を思った直実は、敦盛を逃がそうとするのです。
しかし、源氏の兵が駆け寄ってきていて、今となってはもう、とても逃げられないという状況になってしまいました。
それならば自分の手で打ち取り、その後の供養をしようと、泣く泣く敦盛の首を切ったのでした。
直実は、敦盛が持っていた小枝の笛を敦盛の父・平経盛に形見として送り、感謝の言葉が書かれた手紙を受け取ったということです。
まとめ
- 平敦盛は美少年と『平家物語』にはっきりとした記述あり!
- 平敦盛の最期は静かで深い悲しみに彩られていた。
調べてみて、敦盛の美少年っぷりは、歴史を語り継ぐうえで大切な、軍記ものである平家物語にでさえ記し残さなければと思われるほどの素晴らしさだったということがわかりました。
敵の武将が美しいから殺せないと思うほどですよ!これはもう、日本有数の美少年と呼んでいいでしょう。
そして、美少年の要素として大切なことがもう一つ。それは、悲劇を背負っているということ。
このお話が逆だったら、もし、平敦盛が熊谷直実を討ったのだったとしたら、敦盛の名が美少年として語り継がれることはなかったのではないでしょうか。
儚いからこそ美しい。それが日本人が持っていた美の価値観だったのかもしれません。