平安時代

平清盛の死因や子孫は?死因が熱すぎて近づけないとか異常(笑)

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今からおよそ900年前の平安時代。政治の実権は、貴族から武士へと移っていきました。武士として最初に頂点を極めたのが平清盛です。厳島神社を建てた人としても有名ですね。「平家にあらずんば人にあらず」という言葉まで残した平家ですが、清盛の死と共に急速に衰えました。

ところで、急死した清盛の死因とは何だったのでしょう?また、清盛の子孫は現在も生きているのでしょうか?

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平清盛の死因は?

平清盛の死因は熱病ということになっています。しかし、『平家物語』に描かれた清盛の最期の描写が余りにも壮絶です。誇張の分を割り引いても凄すぎるので、ちょっと考えてみたいと思います。

 

清盛の最期(平家物語)

清盛の最期について、『平家物語』の記述は壮絶です。以下、関連個所を抄訳します。

清盛入道は、病になった日から、水さえのどを通らない。身体の中が熱いことは、あたかも火を焚いているように身体の中が熱い。清盛入道が寝ているところから周囲4、5間に入っただけで我慢できないくらい熱い。清盛入道はただただ「熱い、熱い」と言うだけである。全くもって普通の病気ではなかった。

比叡山の千手井という井戸の水を石の水槽にためても、清盛入道がそこにつかると、水が激しく沸き上がってすぐにお湯になってしまった。少しでも苦痛を和らげようと、水を浴びせると、焼いた石や鉄のように水がほとばしって寄り付かない。身体に当たった水は炎となって燃え、黒い煙が屋敷中に充満して、炎がうずを巻いてのぼった。

同じく、うるう2月4日、清盛は病(発作?)に襲われ、せめてもの手段として板に水を注いで、そこに横になったが、助かりそうにはなかった。もだえ苦しみ気絶して地に倒れて(悶絶躄地)、とうとう、「あつち死に」をされた。

 

は?死因の「あっち死に」ってナニ?

ということで、清盛は「あっち死に」で亡くなったようですが…「あっち」と言うのは、現代医学で言うところの「どっち」なのでしょう?

それにしても清盛は熱過ぎですね。周囲4、5間と言うと1間が1.8メートルとして7.2~9メートル。こんなに近づけないほど熱いのは、焚火だとしても結構大きい場合です。これが本当だとしたら、燃えていたとしか考えられません。

病気になって体がアツイってのはまだ分かるけど、近づけないほどアツイってやばくね??どういうことよ。
天草ゴロー

身体に当たった水は炎となって燃え、黒い煙が屋敷中に充満して、炎がうずを巻いてのぼった」という記述を素直に受け止めると、これは焼死体の消火じゃないか!!

なので、なぜか誰も主張していないようなのですが、「清盛は何者かに焼き殺されたのかもしれない」という可能性を指摘しておきたいと思います。

 

焼き殺しの犯人は妻?

とは言え、亡くなる二日前の閏2月2日に妻の時子に、しっかりした言葉を残しています。これが病死の根拠です。

その言葉とは、

「私は保元・平治の乱以来今まで、たびたび朝廷の敵を平定し、身に余る恩賞を得て、恐れ多くも帝の祖父となり、位は太政大臣にいたって、平家の栄華は子孫にまで及んでいる。現世での望みについて、ひとつも心残りはない。ただ思い残すことがあるとすれば、伊豆の国に流した前兵衛佐の頼朝の首を見なかったことである。私が死んだ後は、堂や塔を建てての供養はするな。すぐに頼朝に討手を遣わして、頼朝の首を刎ね、私の墓のまえに供えよ。それが孝行というものだろう」

前半は若干謙虚ですが、後半は頼朝への恨み。これをもって、清盛は亡くなるまで頭はしっかりしていたということになっています。

これがサスペンス劇場であれば、高熱を発している人間の言葉にしてはしっかりし過ぎていると考えるでしょう。妻が捏造したのではないか?そして周囲の意識を頼朝に向けさせた…。つまり、妻が犯人!という結末が一番有りがちのようですが、テレビの見過ぎでしょうか。

 

清盛が病死だとしたら、どんな病気?

サスペンス劇場じゃないとすると、清盛の死因は病死。とてつもない高熱を発する病気です。どんな病気が考えられるでしょうか。

周囲約10メートルくらい近づけないほど体が熱くなる病気ってナニよ(笑)話しを盛り過ぎなんじゃないか?
万利休

マラリア(瘧)が死因?

閏2月4日に高熱の発作が始まっています。これは、高熱・震え・悪寒が発作的に起こるマラリアに似ていますね。昔は瘧(おこり)と言ったようです。瘧は、757年に施行された養老律令の中にも出てきますし、『源氏物語』の光源氏も罹っています。マラリアは蚊が媒介する病気。当時は蚊取り線香が無かったので、珍しくない病気だったのかもしれません。

気になるのは、清盛が死んだ季節。閏2月4日は、新暦では3月20日。蚊は早いような気がします。ただ、何者かが仕込んだということもあるかもしれませんね。

 

髄膜炎が死因?

公家の九条兼実が40年間書き続けた日記「玉葉」には、清盛が亡くなる20日ほど前に「頭風(頭痛)を病む」と書いています。このことから、髄膜炎も考えられます。

髄膜炎もいろいろなタイプがあるようですが、激しい頭痛、高熱、けいれんが最も多くみられる症状です。意識障害も典型的な徴候のひとつなのですが、必ずなるという訳でもなく、清盛はならないタイプだったのかもしれません。

 

その他の死因は‥

他に、インフルエンザ、肺炎、猩紅熱、脳出血、腸チフスなど様々な死因が推測されているようです。

天草ゴロー
平清盛の死因は「あつち死に」と言われているけど、体が近づけないほどアツイだなんて奇妙すぎるね。なんの病気だ(笑)
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平清盛の子孫は現在も生きている!

清盛は子だくさんだったので、平家滅亡とはいえ、現在も活躍している末裔は結構いらっしゃるのではないかと思われます。確認できている家系を2つ、御紹介します。

日本庖丁道の四条家

日本庖丁道と笙を代々受け継いでいる四条家。家祖は藤原隆季。正二位・権大納言の官位にありましたが、平清盛に近づき、嫡子隆房の妻に清盛の娘を迎えています。

この隆房を2代目とする四条家は、27代目の隆徳(1907-1977)まで代々当主を確認することができます。さらにその子孫については確認できませんが、御活躍されていることと思います。

 

水天宮の真木家

平家が壇ノ浦の戦いで敗れ、安徳天皇らが入水されて後、女官の按察使局(あぜちの・つぼね)が久留米に落ち延びて、祠を開きました。按察使局は平知盛(父は平清盛、母は時子)の孫・右忠(すけただ)を久留米で育て、社の後継としました。

この社が久留米水天宮。ここの宮司は真木家の世襲として現在まで続いています。つまり、清盛の末裔です。

久留米水天宮の第27代宮司・真木保典氏の次男、真木千明氏は、東京の水天宮や福徳神社(日本橋)の宮司を歴任されています。

 

 

まとめ

  • 『平家物語』で描かれた清盛の最期は壮絶で、清盛の体が本当に燃えているようである。
  • 『平家物語』には、清盛は「あつち死に」したと書かれている。
  • 現在の病名としては、まずマラリアが疑われる。当時は珍しくなかったようであるが、清盛が亡くなった季節には合わないかもしれない。
  • 清盛が亡くなる20日ほど前に頭痛に悩んでいたことが、九条兼実の日記に記されている。このことから、髄膜炎の可能性もある。
  • その他、インフルエンザ、肺炎、猩紅熱、脳出血、腸チフスといった病気も考えられる。
  • 清盛は子だくさんだったので、末裔は結構生き残っていると考えられる。
  • 末裔の家系として、2つ確認できる。
  • 一つは、日本庖丁道の四条家。2代目の藤原隆房が清盛の娘を妻としている。27代目までの当主を確認することができる。
  • もう一つは、久留米水天宮の宮司を代々世襲している真木家。
  • 久留米水天宮第27代宮司・真木保典氏の次男、真木千明氏は、東京の水天宮や福徳神社の宮司を歴任している。

『平家物語』は、書物として伝えられてきた「読み本系」と、琵琶法師が語り継いだものをまとめた「語り本系」というように分けられ、その中でもいくつかの系統があるようです。

清盛の最期の描写がずっと気になっているのですが、琵琶法師が語っているうちに話を盛ってしまったということは十分考えられますね。

また、本にしても、印刷が無かった時代ですから、手で書き写して広まっていったはず。書き写すときに、自分なりの解釈で書き換えるということも結構あったらしいと聞いたことがあります。

それにしても、900年とはとても長い年月です。その間もずっと物語や家系が継承されているというのは凄いことです。改めて、驚いてしまいました。

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