江戸時代

大政奉還の場所はなぜ二条城で行われた??

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大政奉還はどこで行われたのか?

場所がなんで、二条城?普通なら江戸城や御所じゃないの??

ということをメインに、解説していきたいと思います。

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大政奉還の場所はどこ?

実は、大政奉還の場所は、御所というところです。

そうです、京都御所です。ではなんで二条城なのか?ってなりますよね。徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が決意表明をしたのが二条城で、その後に天皇が(翌々日)「大政奉還勅許(たいせいほうかんちょっきょ)」の「沙汰書(さたがき)」を徳川慶喜に授けて、大政奉還を受理しました。その場所が

御所なのです。

つまり御所で「大政奉還をゆるしてほしいのですが、よろしいですか?」とお伺いをたてて「大丈夫ですよ」という許しを得たということです。                           

 

 

大政奉還って?

そもそも大政奉還って何?

大政奉還とは、政治の権力(=大政)を、天皇にお返しする(=奉還)という意味です。

長く政権を握っていた徳川幕府が、その政権を天皇にお返して、徳川家滅亡から救うための必殺技だったのです。

その前にあった長州征伐で、幕府は多くの犠牲を出してしまいました。

このままでは、徳川家は滅亡してしまう。

その危機をヒシヒシと徳川家は感じていたのでしょう。

 

 

大政奉還が二条城で行われた、と言われているのは?

徳川慶喜が大政奉還の決意を発表した場所が二条城だそうです。大政奉還すると、宣言した場所ですね。

実際は、徳川慶喜が「大政奉還する」と大名達の前で宣言したのですが、大名達は、あまりにも突拍子もないことで、返事も出来ず、ただただ退出したと言われています。

なので、二条城では宣言以外のことが、行われなかったのでした。

大政奉還そのものを二条城で行ったわけではないのですが、宣言をしたところなので、昔は、「大政奉還は二条城でなされた」と書いてあったそうです。

現在は訂正されています。

大政奉還の場所を特定するのはは、ちょっと、難しい質問なので、テストに出たりもしないようになっているようです。(文部科学省としては、教科書にも大政奉還の場所は記述しない方針を出しているそうです。)     余談ですが。今でも、たまに試験に出題する先生がいるらしいです。  「大政奉還の場所はどこか!?」                   答えで○をもらえたのは「二条城」だったそうです。いじわる問題に認定です!

          

 

大政奉還、江戸じゃなかったのはなぜ?

戻りますが、大政奉還は江戸ではなくなぜ京都だったのか?大政奉還の意思表示に江戸に行っててる時間なんて無い。それくらい切羽詰まった状況だったからです。                            当時、徳川慶喜は京都にいました。なので江戸に行くには時間がかかります。「江戸に行ってる猶予はない、殺されてしまう」と判断したようです。  事態はそれぐらいひっ迫していました。                だから今、自分がいる場所で宣言するしかなかったのです。

とにかく宣言してしまえば討幕はなくなる。

殺されない!と徳川慶喜は考えたのでしょう。

事実、大政奉還をしてもすぐに、実権が移ることはありませんでした。  300年近く、政治にかかわっていない、天皇に政治の実権を返上しても、実際にすぐに政(まつりごと)を行うのは無理です。

どのように政が動いていたかが、判らないです。ので、大政奉還をしたところで、すぐには何も変わらない。

とにかく討幕の動きで、倒されてしまいそうな徳川慶喜は、大政奉還することで、徳川家滅亡はまぬかれる。

宣言してしまえば、道はある!逆にやらなければ、皆殺しにされてしまう。それも含めての二条城での宣言でした。

 

二条城って?

二条城について調べてみました!今のお名前は?元離宮二条城。

二条城は京都市中京区二条通堀川にある、江戸時代に作られたお城です。

実は二条城と呼ばれたお城は複数あります。

そもそも足利将軍(尊氏から義満)3代が二条に屋敷を構えたため将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」とよんだそうで、これが二条城の始まりだとか。

その後、13代将軍の足利義輝が幕府の重鎮・斯波氏の屋敷跡に築いた「二条御所武衛陣の御構え」を二条城と呼んだり、織田信長の助けによって15代将軍になった足利義昭の居城を二条城と呼んだり。

さらに信長は二条家の邸宅の庭の眺めが気に入り、そこに「二条新御所」と作りました。さらに豊臣秀吉も、信長が本能寺の変で倒れて以来、二条新御所を「二条第」として京の拠点として構えました。これらすべてが二条城と呼ばれていたそうです!

現在の二条城は徳川家康が京都に滞在するために作ったお城だそうです。

二条城と呼ばれたお城は

足利将軍→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康へと引き継がれ現在の二条城が誕生したのです。

この二条城で大政奉還の宣言が出されました。

しかも現在の二条城では、世界遺産ウェディングをあげることができるそうです!

 

 

まとめ

1、大政奉還の場所は、やっぱり京都御所だった

2、大政奉還とは政治の権力を、天皇にお返しするという意味。

3、二条城と言われていた理由は、徳川慶喜が大政奉還を宣言した場所が二条城だったから。

4、大政奉還が京都で行われた理由は、江戸に帰っている時間もないほどひっ迫していたからだった。

5、今残っている二条城は徳川家康が作ったものである。

6、今はウェディングができる、世界遺産である。

なぜ二条城で大政奉還された、と、言われていたのかが、お分かりいただければすごく、ありがたいです。

昔は歩きで江戸から京都まで移動していました。精々早くて馬。そんな悠長なことしていたら、徳川幕府は皆殺しにされてしまう。

大政奉還を京都で行ったのは、徳川慶喜の英断だと私は考えますが、皆さんはいかがでしょうか?

しかも宣言した場所が二条城だったので、二条城で行われた、と、なってしまったのにはビックリ!! 

この大政奉還のあと、時代は激動の明治を迎えます。

それを考えると、ターニングポイントの1つが、この大政奉還であるということに、すごくドキドキしました。

皆さんはどうかんじましたでしょうか?

皆さんの知識に少しでも貢献できればうれしいです。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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