大政奉還とは、当時の将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)による政権の返上のことです。この大政奉還が、なぜで行われたのでしょうか?その理由は何なのでしょうか?ここではその理由を詳しく、紐解いていきたいと思います。
大政奉還の理由
徳川慶喜が将軍になったころ、幕府は以前のような権威を維持しておらず、崩壊寸前でした。
長く政権を握っていた徳川幕府が、その政権を天皇にお返して、徳川家滅亡から救うための必殺技が、大政奉還だったのです。
その前にあった長州征伐で、幕府は多くの犠牲を出してしまいました。
諸藩の間には「もう徳川幕府に政治を任せておけない。」という風潮が高まっていました。
このままでは、徳川家は滅亡してしまう。
その危機をヒシヒシと徳川家は感じていたのでしょう。
討幕派の薩摩藩から嫁いできた天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)が、書状で徳川家を残すように、実家の薩摩藩に嘆願したりしたことからも、明白でした。
大政奉還の背景は?
色々な批判が集まり、幕府の威信は下がります。
そんな幕末の末期に、薩摩藩と長州藩が協力して、幕府を倒すために薩長同盟を結びます。
討幕の勢いが激しくなり、戦争の準備を整えた薩摩藩と長州藩は天皇に、
「幕府を正式に、倒させてください」
と願い出ます。
天皇のお許しが出たら後は、戦です。
しかもこの薩長同盟。すごく強いのです。
西洋の最新武器を沢山持っていて、幕府が戦をしても、勝てる確率はかなり低い物でした。
そんな武力を持つ薩長同盟に睨まれた幕府は、このまま行けば幕府滅亡になってしまう。どうすればいいのか?と、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は考えていました。
そこに、大政奉還を提案したのは、土佐藩の前藩主・山内豊信(やまのうちとよしげ)です。
ですが、この大政奉還という考えを思いついたのは別の人物で、坂本龍馬でした。坂本龍馬は大政奉還後は、天皇の下、新たに議会を設けて、話し合いにより政治を行う、という政治体制を考えていました。
そして、その議会で「盟主」、つまりリーダーになる人物を、坂本龍馬は徳川慶喜をと、考えていたという説があるそうです。
つまり、当初坂本龍馬が構想した大政奉還は、(龍馬がそれを意図していたかはわかりませんが)徳川家を守り、平和的に新時代を迎えようとすることだったようです。
徳川慶喜は幕府への批判が高まる中、朝廷の許可のもと幕府を倒そうとする薩摩・長州から攻められる前に、政権を放棄してしまえば攻められる理由がなくなると考えました。
折しも提案された大政奉還は、考えを具現化するものでした。
徳川慶喜も幕府と、朝廷の二元体制については、限界を感じていたので、薩長に倒される前に大政奉還をしました。
徳川家、がんばる、でも…?
自ら負けを認め、白旗を振ったかのように見える大政奉還ですが、実はこのことで徳川家は滅亡を逃れたと、考えることができます。
これで、討幕派は徳川幕府を倒す理由がなくなってしまいます。
こうして見ていくと、慶喜の天をも味方にしたかのような、政治的戦略が大政奉還だったことがわかります。
実際、慶喜は大政奉還の際、形式的には政権を返上しても実質的には徳川家が政治を主導する立場にあり続けられると考えていたようです。
そして、それは慶喜の想像にとどまらず、実際に大政奉還後も引き続き内政・外交共に江戸幕府に委任されることとなりました。
当時の朝廷といえば、孝明天皇の崩御を受け、満15歳と若年な明治天皇が即位したばかりでした。さらにそれを支えた公家たちも親幕派で、討幕派の公家は追放されたままという状態だったようです。
一見すると、白旗を挙げたかのように見える大政奉還が、実は徳川家が生き延びる最後の手段だったことがわかってきます。
しかし、これが一転、形勢が逆転する出来事が、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争でした。
鳥羽伏見の戦いで錦の御旗が薩長側にはためいた時、慶喜は自分が朝敵となったことに動揺し、戦線を突然離脱するという大将に、あるまじき行為に及んでしまったのです。
討幕派は、モヤモヤ?
大政奉還に一番モヤモヤしたのは、討幕派の方々でした。
幕府を倒す!!と意気込んでいたのに、
「幕府は解散します。政権は天皇にお返しします」
となりましたが、徳川家があたかも、今でも将軍であるように、扱われることから、根本的な改革は無理だと思い、旧幕府側の怒りを煽るように、江戸で放火や強盗をおこなうようになります。
でも、これってどうなのでしょうか?
薩長や公家の岩倉具視らは、王政復古の大号令にも表れているように、天皇が名実ともに国家元首であることが大前提で、尊皇思想の根底を受け継ぎながらも、西洋諸国に倣った国づくりが目指していました。
こうして天皇を擁立する薩長派の新政府軍と、あくまでも徳川家により国作りを目指した旧幕府軍とで、鳥羽伏見の戦いの幕が開き、明治維新へと向かっていくのです。
この時に活躍したのが「討幕の密勅(とうばくのみっちょく)です。
「討伐の密勅」とは天皇が「徳川幕府をたおしてもいいよ。」というお墨付きでした。
ただ、この「討幕の密勅」偽造という説が濃厚らしい?です。
というのも、これを出したのが孝明天皇が亡くなって後を継いだのが、まだ幼い明治天皇。
ということで幼い明治天皇がどうやって、密勅を出すの?しかもすごく手続きも早く、どうかんがえても…。というものでした。
実際に主導したのは公卿の岩倉具視(いわくらともみ)だといわれています。
大政奉還の後は?
大政奉還の翌日に、朝廷はこれを受理。
260年続いた江戸幕府は滅亡。でも普通に考えて、今日から滅亡いたしました。明日からはなしだよ。とは上手くいきません。当たり前ですが。
江戸城には沢山の人々が暮らしていました。
その人たちのことも含め、大政奉還した後も、「旧幕府」ということで依然として、強い勢力を持っていたのでした。
その状況に、またモヤモヤが薩長同盟に広がります。
彼らの考えでは、大政奉還後幕府は権力もなく、ぼんやりと、日向ぼっこした猫の様に、生きていくことを想像していたのに…。
そのモヤモヤが、戊辰戦争につながります。
戊辰戦争も、和宮や天璋院篤姫などが、新政府の対応に回り、上手くいき、
1年余りで終結しました。
ただこの規模の戦が、1年で終結するのも珍しいのですが、もっときちんと伝わっていれば、会津の白虎隊の方々が、亡くならなかったのに…。という私の個人的モヤモヤが残りました。
まとめ
1、大政奉還の理由は、徳川家滅亡を救うためのものだった。
2、大政奉還の背景は、平和的に新時代を迎えたかった人達の、考えの結晶だった。
3、徳川家は大政奉還で、滅亡を免れた。
4、討伐派は、それでも徳川家を許せなかった。
5、大政奉還した後も、旧幕府は強い力を持っていた。
6、討幕派は、大政奉還だけでは足りずに、「討幕の密勅」という裏ワザを繰り出してきた。
大政奉還だけでは、平和にならなかったとが、私としてはショックでした。
天璋院や和宮が大政奉還後に、尽力し働いていた人に就職先を世話したりと、奔走していた陰で、こんなことが起こっていたと考えると、かなり残念です。
そしてこれで、収まっていれば、会津の白虎隊の悲劇が、少なくとも起こらなかったことに、かなりモヤモヤしてしまいました。個人的にですが…。
皆さんはどうかんじましたでしょうか?
皆さんの知識に少しでも、貢献できればうれしいです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。