戦国時代

武田信玄の一生を年表で解説!超詳細だから信玄ファンは是非♪

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「風林火山」で知られる武田信玄は、非常に強い戦国大名で知られてますが、その武田信玄の一生ってどんなものだったんでしょうか?

という訳で今回は、信玄の生誕から死没に至るまでを細かく(笑)年表形式でcheckしていきたいと思います!

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武田信玄の歴史を年表でcheck

〈大永元年:1521年〉晴信(のちの信玄生まれる)

11/3に武田晴信(後の武田信玄)生まれる。

父は武田信虎・母は信虎正室の「大井夫人」。

~当時、駿河の今川氏重臣である福島氏が甲斐国侵攻中であったため、

大井夫人は武田家居館である「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」を離れ、詰城である北東の「要害山城」(別名を積翠寺城とも言う)に移りそこで晴信は生まれている。

躑躅ヶ崎館から要害山城は徒歩でも約1時間。

一説には麓の積翠寺で生まれたとの説もあり、積翠寺には今も晴信の産湯井戸なども現存している。

尚。福島氏の乱沈静化に伴って、11月27日に躑躅ヶ崎館へ戻ってきた。幼名は太郎と言う。

 

〈大永3年:1523年〉晴信3歳~着袴の儀 

12/3に晴信の着袴の儀※が執り行われる。

※着袴の儀=平安時代~江戸時代まで皇室公家武士の家で行われた男子の通過儀礼。

 

〈天文2年:1533年〉晴信13歳~初めての結婚

父 信虎の命により関東 扇谷上杉朝興※の娘を妻として迎えるも、翌年1534年懐妊して母子ともに命を落とす。

※扇谷上杉氏:おおぎがやつううえすぎし。足利幕府の祖 足利尊氏の母方の叔父である、上杉重顕を祖とする家柄で、鎌倉の扇谷に住むようになった事から扇谷家の家名がついた。

 

〈天文5年:1536年〉晴信16歳~元服する

駿河今川義元の取次で、元服を迎え将軍足利義晴の偏諱を受けて、「晴信」と名乗るようになる。

従五位以下の左京大夫となった。

 

〈天文6年:1537年〉晴信17歳~2度目の結婚と初陣 

駿河の今川義元斡旋で、三条公頼次女を正室に迎える。(三条夫人の姉は幕府管領 細川晴元夫人・妹は本願寺顕如夫人)。

この年、父 信虎と共に信濃国佐久郡へ初陣として出兵し、平賀源心と共に「海ノ口城」を落とす。これが晴信の初の戦勝となる。

 

〈天文7年:1538年〉晴信18歳~嫡男の誕生

この年、嫡男義信誕生する(生誕日は不詳)。

 

〈天文8年:1539年〉晴信19歳~北条氏との合戦再開

8月:冷泉為和を甲府へ招いて歌会を催す。

関東の北条氏との合戦が再発。

(北条氏とは1542年2/11晴信2歳の頃、北条氏親と甲斐国都留郡猿橋にて対戦したのを皮切りに戦ったり和睦したりの繰り返しだったが、1538年にも一旦和睦成立したばかりだった)

 

〈天文10年:1541年〉晴信21歳~父 信虎を追放と家督相続

6/14:北信の村上義清・諏訪の諏訪頼重と組んで佐久の海野一族を破った、父 信虎が帰国後気を良くして娘婿の今川義元の元へ遊びにいったところを国境防備して、信虎の甲斐国帰国を許さずそのまま駿河今川義元の元へ追放した。しかしこの追放劇は、受け入れ側である今川義元も同意していたと言われている。

6/28:晴信、家督相続の儀を執り行い、大膳大夫を称した。

10/4:晴信、初めての竜朱印状※を発する。※竜朱印状:武田家家院。竜に丸模様が彫ってあるもの

12/23:次男の信親が生まれる。(信親は生まれながら盲目だったので、半俗半僧となり御聖道様と称されるも、1582年3/7甲府に於いて

織田信忠によって殺害された。享年42歳。子女が生き延び、現代に続く武田家子孫となっている。)

 

〈天文11年:1542年〉晴信22歳~信玄堤建設開始と諏訪御料人の輿入れ

7/2信濃国高遠城主の高遠頼継と協力して諏訪上原城の諏訪頼重を攻める。頼重は敗北し、7/21甲府東光寺にて切腹する。

(諏訪頼重は、後の晴信側室であり、武田勝頼母となる諏訪御料人の父)

8月に釜無川が大氾濫を起こし竜王に信玄堤建設を始める。

9/25高遠頼継と領地分配の件で不仲となり、諏訪宮川端で合戦するもこれを打ち破る。

9/28:信濃国伊那郡福与城城主の藤沢頼勝を陥とす。

12/5:先述の諏訪頼重の娘~諏訪御料人を側室に迎える。

 

〈天文12年:1543年〉晴信23歳~長女の誕生

1/3:武田館(躑躅ヶ崎館)焼失

・この年正室三条夫人との間に長女生まれる。この長女は後に北条氏政正室となったが武田家との政治的要因から離縁され、帰国後27歳で死去。黄梅院と呼ばれる。)

 

〈天文13年:1544年〉晴信24歳~金山衆への朱印状授与

6月:甲斐国 黒川金山衆に初めての朱印状を与える。

10/29:信濃国伊那郡福与城の藤沢頼親を攻めるも落とせず。

11/9:甲府へ帰陣。

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〈天文14年:1545年〉晴信25歳~北条氏と今川義元の和睦

4/17:信濃国高遠城の高遠頼継を攻め落す。

4/20:信濃国福与城の藤沢頼親を再度攻め、6/10に落とす。

9/9:今川義元救援のため、駿河へ出兵。

10/24:晴信の斡旋のもと、今川義元と北条氏康和睦する。

11/9:今川義元と自筆の誓詞を交わす。

 

〈天文15年:1546年〉晴信26歳~武田勝頼の誕生

5/10:信濃国佐久郡内山城の大井貞清を攻め、5/20に攻め落とす。

6/16:三条西実澄・四辻李遠を甲府に迎え、積翠寺にて連歌会を催す。

※この年に四男である、後の武田勝頼生まれる。(生誕地生月日不明)

 

〈天文16年:1547年〉晴信27歳~甲州法度之次第を制定

※6月に武田家の分国法、「甲州法度之次第」五十五ヶ条を制定する。

7/24:信濃国佐久郡志賀城の笠原清繁を攻め、8/11に攻落する。

8/6:志賀城救援に駆け付けた上杉憲政軍と佐久郡小田井原で大勝する。

 

〈天文17年:1548年〉晴信28歳~北信の雄、村上義清に大敗

2/14:信濃国小県郡上田原で、北信の雄 村上義清と戦い大敗すると共に、この戦いで板垣信方・甘利虎泰ら武田重臣を失う。

7/18:甲斐国と信濃国の国境へ出陣。

7/19:信濃国筑摩郡塩尻峠において、小笠原長時を急襲して大勝する。

9/11:信濃国佐久郡前山城を攻略、佐久衆数百人を打ち捕え、城は13ヶ所自落する。

 

〈天文18年:1549年〉晴信29歳~遂に信濃北佐久を制圧

7/15:信濃国伊那郡箕和城の築城を開始する。

8月に信濃国北佐久を制圧。

12/28:甲斐国塩山の向岳寺の境内図に裏書きを与える。

 

〈天文19年:1550年〉晴信30歳~姉の死と再度村上義清に大敗・嫡男の元服、三女の誕生

5/25:信濃国筑摩郡村井で、小笠原長時を破る。

6/2:同母姉であり、駿河の今川義元正室だった定恵院(じょうけいいん)が死去する。享年32歳。

7/10:信濃国筑摩郡(現在の松本市)村井に到着。

7/15:松本平で小笠原長時を攻め、林城を奪取する。

7/19:深志城(現在の松本城)の鍬入れを始める。

8/29:北信の雄 村上義清を小県郡砥石城に攻めるも、再度大敗する。

この戦いは後に「戸石崩れ」とも呼ばれ、武田軍は、信虎時代から

仕える有力な足軽大将の、横田高松を失う。

10/1:退陣する。

12/7:嫡男太郎が元服を迎える。

この年、三女である真理姫が生まれる。

 

〈天文20年:1551年〉晴信31歳~村上義清砥石城をようやく攻略成功

5/26:前年8月に大敗を喫した、村上義清の砥石城を真田幸綱が調略を用いて落城させる。(幸綱は天正14~15年頃から仕えるようになる。真田昌幸の父でもあり、息子である真田信綱・昌輝らと共に武田二十四将にも数えられる)

6/28:信濃国高井郡の保科正俊を調略する。

8/23:嫡男義信の、西の御館を建て始める。

10/24:信濃国安曇郡へ進攻、小笠原長時家臣、平瀬氏の城である平瀬城を攻落。城主の平瀬義兼は自刃する。

 

〈天文21年:1552年〉晴信32歳~嫡男太郎の結納と結婚

1/8:嫡男太郎の具足始めの儀を執り行う。

4/8:嫡男太郎と、今川義元長女 嶺松院との結納が決まる。

(嶺松院の母は、晴信の姉であるので、この結婚は従姉妹同士になる)

5/7:生母である、大井夫人死去する。

8/12:信濃国安曇郡小岩岳城を攻略。

10/6:甲府~諏訪間の棒道建設を、信濃国佐久郡高見沢氏に命じる。

11/16:甲府府中の宿の夜廻番帳を作る。

11/28:嫡男太郎。今川義元の娘 嶺松院を妻として迎える。

 

〈天文22年:1553年〉晴信33歳~川中島合戦の皮切りと嫡男太郎が「義信」へ。

3/29:信濃国深志城(松本城)を出陣。苅屋原城攻略。

4/2:苅屋原城攻落。

4/3:信濃国埴科郡会田の虚空蔵山まで放火する。

4/9:信濃国埴科郡にある、村上義清の葛尾城を攻落する。

5/8: 2年前に攻落した、平瀬城を破却する。

7/23:嫡男太郎、将軍足利義輝より偏諱を受けて「義信」と名乗る事となる。

8/1:信濃国小県郡長窪に着陣。和田城を攻める。

8/5:信濃国小県郡塩田城を攻落する。

村上義清、窮地に陥り越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って逃亡。

8/20:後奈良天皇の般若心境を諏訪大社上社に奉納する。

8月~9月に、救援を求めてきた村上義清の為に出陣してきた上杉軍と信濃国更埴地域で戦う※第1回川中島の戦い

11/19:嫡男義信の名乗りの儀式を執り行う。

 

〈天文23年:1554年〉晴信34歳~長女北条氏政の正室へ。甲・駿・相の三国同盟成立。

5月:「甲州法度之次第」に二ヶ条を追加する。

7/24:信濃国木曽郡及び伊那郡に出兵する。

8/6:信濃国佐久郡に出兵する。嫡男義信の初陣となる。

12月:長女が北条氏康の子、氏政に嫁ぎ正室となる。

甲斐国と駿河国と相模国の「甲・駿・相」の三国同盟が成立する。

 

〈弘治元年:1555年〉晴信35歳~第2回川中島の戦いと勝頼生母の諏訪御料人の死去

4/23:晴信と義信父子、長尾景虎(上杉謙信)と戦うにあたり信濃へ出陣

7/19:川中島にて第2回合戦勃発。※第2回川中島の戦い

10/15:今川義元の調停により、晴信と景虎和睦する。

11/6:側室であり勝頼の母の、諏訪御料人死去する。

 

〈弘治2年:1556年〉晴信36歳~真田幸綱の活躍

8/8:武田家家臣の、真田幸綱が信濃国更埴郡雨飾城を落城させる。

10/10:甲府へ戻り、甲府八日市場へ夜廻番帳を出す。

 

〈弘治3年:1557年〉晴信37歳~第3回川中島の戦い・晴信の信濃守護職任官と五男仁科盛信の誕生

2/15:信濃国水内郡葛山城を攻落する。

4/18:長尾景虎、再度川中島へ出陣。

7/5:信濃国安曇郡小谷城(おたりじょう)を攻める。

8月:武田・長尾両軍、上野原(長野市上野原)で戦う。

※第3回川中島の戦い

 

9/5:長尾景虎、越後へ引き揚げる。

10月:晴信も甲府へ帰陣。

11/19:長女である北条氏政正室の安産を、富士浅間大社に祈る。

12/28:甲斐国一宮~三宮に三ヶ条の条目を与え、国中平穏祈念を命ずる。

※甲斐国一宮~三宮は以下の通り。

一宮:山梨県笛吹市一宮町の浅間神社

二宮:山梨県笛吹市御坂町の美和神社

三宮:山梨県甲府市国玉町の玉諸神社

 

この年、五男である盛信(後の仁科盛信)が生まれている。

またこの年晴信は、信濃守護に命じられ、嫡男義信も準三管領の称を拝領している。

 

〈永禄元年:1558年〉晴信38歳~甲斐善光寺の建立

1/11:正親町天皇(おおぎまちてんのう)より、信濃国伊那郡知久の文久寺再興を命じられる。

8月:信濃国戸隠神社にて、長尾景虎との対戦勝利を祈願する。

9/25:信濃国善光寺の阿弥陀如来像を甲府へ移し、甲府善光寺を建立する。(その後阿弥陀如来像は、織田信雄・徳川家康・豊臣秀吉の手に渡り、最終的には秀吉が病の床に伏せている時枕に立ち信濃に戻りたいと告げたという事で、1598年に40年振りに信濃に戻った)

 

〈永禄2年:1559年〉39歳。出家して、晴信から信玄へ。

2月:甲斐国長善寺住職である、岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)を導師として出家する。正式法名は「法性院機山信玄」。

5/2:信濃国佐久郡松原神社にて、信濃平定願文を納める。

9/1:信濃国小県郡下諏訪明神社に、長尾景虎の追滅祈願をする。

 

〈永禄3年:1560年〉信玄40歳~信玄堤の完成と一向一揆とのコンタクト

6月:信濃川中島に海津城を築く。

8/2:1542年から進めていた釜無川竜王の信玄堤が完成する。

9月:再び、信濃国佐久郡松原神社にて長尾景虎への戦勝祈願をする。

10/17:本願寺の顕如と連携し、越中の一向一揆と初めて連絡を取る。

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〈永禄4年:1561年〉信玄41歳~三太刀七太刀⁉︎激闘!第4回川中島合戦の勃発・長尾景虎が上杉政虎→輝虎へ。そして五女の誕生。

3/3:長尾景虎の関東出陣に対し、北条氏康より信玄に援軍要請が来る。

閏3月:長尾景虎、上杉家の家督と関東管領を相続し、名を上杉政虎と改める。

8/14:上杉政虎、信濃国川中島に出陣する。※第4回川中島の戦い

8/16:信玄、上杉政虎との対戦の為、甲府を出陣。

8/24:妻女山に陣をとった上杉軍に対して、信玄は千曲川を挟んだ八幡原に陣を取る。これが川中島の戦いの中でも1番有名になった第4回目となる。本戦は両軍とも5日後の8/29から翌朝にかけてで、この戦いで信玄は弟の信繁や軍師山本勘助を始め、両軍共3000とも言われる多数の戦死者を出した。尚、一騎打ち(三太刀七太刀)の裏付けが取れる確実な資料は残されていない。

上杉政虎はその日の内に越後へ戻っている。

 

11/2:信濃国佐久郡松原神社にて、上野国(群馬県)出兵戦勝祈願し同日出陣。

11/18:上野国甘楽郡(かんらぐん)の高田城攻略。

11/20:上野国甘楽郡の国峰城攻略。

12/7:北条軍と合流して、上野国倉賀野の倉賀野城を攻略。

12月:上杉政虎、将軍義輝の一字を賜り、上杉輝虎に改める。

この年、五女である松姫が生まれている。母は側室の油川夫人で同母兄弟姉妹に、仁科盛信・葛山信貞・真理姫・菊姫がいる。

 

〈永禄5年:1562年〉信玄42歳~西上野国への侵攻と勝頼の高遠城主着任

2月初旬、松井田にある諏訪城を攻める。

6月、4男勝頼が諏訪氏名跡を継ぎ信濃国高遠城主となる。

9月、西上野国へ出陣し、安中城を攻める。そのほか、箕輪城・惣社城・倉賀野城も攻める。

11月、再度西上野国へ出陣する。

12/16:武蔵国(埼玉県)横見郡松山の、武蔵松山城を囲む。

北条氏康と協力して上野・武蔵の上杉方諸城を攻めながら年を越す。

 

〈永禄6年:1563年〉信玄43歳~北条氏と連携しながらの武蔵国・西上野国等関東諸国への侵攻

2/4:北条氏康とともに武蔵松山城を攻落する。

4/2:信濃国飯綱山山麓に、奥信濃国攻略のため、軍用道路を敷設する。

6/28:嫡男義信との連署で、甲斐国二宮である美和神社へ36歌仙板絵を奉納する。

7月:再度関東へ出陣。

8/6:西上野に在陣。

10/13:真田幸綱ら、岩櫃城(いわびつじょう)を攻落する。

12月:箕輪城・倉賀野城攻落する。

閏 12月:北条氏康と共に上野新田郡の金山城の由良成繁を攻める。

 

〈永禄7年:1564年〉信玄44歳~第5回川中島の戦い

3/18:信濃国水内郡野尻城を攻める。

5/17:西上野に出陣。再び倉賀野城を攻略。

6/15:飛騨国の江馬時盛を救援のため、飛騨に出陣する。

6/17:美濃国の斎藤龍興救援を、長井道利に約束する。

7月:上杉輝虎、飛騨の三木良綱・江馬輝盛の要請を受け越後の春日山城を出発する。

8/3:信玄は塩崎城に本陣を(長野市篠ノ井塩崎)、輝虎は川中島に陣を取ったが、信玄が決戦を避けたので60日間対峙したのみで終わり、両軍とも引き揚げる。※第5回川中島の戦い

尚、川中島合戦はこれを最後に行われることはなかった。

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〈永禄8年:1565年〉信玄45歳~嫡男義信の謀反事件勃発と四男勝頼の結婚

2/5:諏訪大社上社・新海名神社に上野箕輪城攻略を祈願して、上野へ出陣。

3/28:勝山富士浅間大社で、大般若経真読会を催す。

5/23:上野安中口に出陣。

6月:再度箕輪城攻略へ。

10月:嫡男義信らの謀反事件が起こり、義信を甲府東光寺に幽閉。

関係していた、飯富虎昌を成敗する。

11/13:四男勝頼、織田信長養女遠山氏を妻に迎える。

11/17:西上野の嶽山城攻略。

12/6:諏訪大社上社の祭祀再興を図る。

 

〈永禄9年:1566年〉信玄46歳~再度の西上野侵攻

3月:西上野へ侵攻。

4/3:上野国白井城(現在の群馬県渋川市~しろいじょう)を攻める。

5月:長女北条氏政夫人の安産を、富士浅間大社に祈る。

閏8月:西上野へ出陣。

9/29:箕輪城攻略。

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〈永禄10年:1567年〉信玄47歳~西上野全域支配と五女の織田信忠との婚約、そして義信の死

3月:真田幸綱の白井城攻略も含め、この時期信玄は西上野の全地域を支配するに至る。

5月:上野国惣社城を攻略する。

10月:嫡男義信、甲府東光寺にて自害する。享年30歳。

11月:五女松姫、織田信長嫡男の織田信忠との婚約が成立する。

12月:義信死亡に伴い、義信妻の今川氏真妹を駿河へ送還する。

 

〈永禄11年:1568年〉信玄48歳~駿河侵攻により長女が北条氏政と離縁

1/21:会津の、蘆名盛氏(あしなもりうじ)家臣の小田切らに奥越への乱入の依頼をする。

2/16:徳川家康と、駿河遠江の分領をを約束する。

※現在の焼津を含む大井川より西を“遠江国”、大井川より東と静岡周辺を“駿河国“

3/5:信濃国の松本深志城の普請を工藤源左衛門に督促する。

5月:北信濃(北信)へ出陣する。

5/17:甲府職人衆に上様御用の普請を命じる。

6/3:上杉家家臣の本庄繁長の反乱に呼応して越後へ出兵。

7/10:信濃国飯山城を攻略する。

7/16:越中勝興寺に使いを送り、加賀越中の一向一揆を越後へ侵攻させる。

11/3:甲駿道路不通につき、山中平野の郷民らに道造り奉公を命じる。

12/6:駿河攻略のため、甲府を出陣する。

12/13:駿河を占領。今川氏真を掛川城へ追いやる。

12/23:徳川家康に掛川城攻めを要請する。

 

この信玄の駿河侵攻に激怒した北条氏政の父 氏康は信玄長女の正室を離縁して甲府に送り返している。

その際、夫である氏政は彼女に“堪忍分“として16貫文強を与えている。氏政とこの信玄長女はとても仲が良かった事が知られている。

“堪忍分“は現在で言う慰謝料に当たるものと思われる。

戦国時代の1貫は現在で言うと約15万円。(NHKによる)

 

〈永禄12年:1569年〉信玄49歳~北条軍との2つの合戦と離縁された長女の若すぎる死

1/26:今川氏救援に駆けつけた北条氏政が、駿河の薩埵峠に着陣し、

興津で武田軍と対陣する。※薩埵峠の戦い

(薩埵峠:さったとうげ:静岡市清水区。東海道五十三次では由比宿と興津宿の間、現在は東名高速道路の清水ICから峠まで約10kmの所に位置しており峠の直下に東名高速薩埵トンネルが走っている。峠最高地点には石碑や駐車場などが整備されている。標高93m)

 

3/13:薩埵峠を攻める。

3/23:織田信長に呼び掛け、甲越和睦を図る。

4/7:再度、徳川家康に今川氏真の拠る掛川城攻撃を督促する。

同日、佐竹氏・里見氏・宇都宮氏らに小田原城攻撃を要請する。

4/24:薩埵峠にて北条軍に敗れ、甲府へ帰陣する。

6/5:武蔵国御嶽城を攻略。

6/16:駿東郡および伊豆に侵攻する。

6/17:北条氏政と離縁して戻って来ていた長女死去。享年27歳。

(信玄は幸薄かった長女のために現在の甲斐市龍地に菩提寺として黄梅院を建立して葬っている。今も墓碑は現存する。その寺の名にちなんで長女はその後、黄梅院と呼ばれる。

夫であった北条氏政は信玄と再び同盟を結んだ後、1571年12月27日に箱根湯本の早雲寺塔頭に彼女の分骨を埋葬して弔っている。)

 

7/2:富士郡大宮城を攻略する。

8/24:甲府を出陣する。上野・武蔵国経由で北条氏領地へ遠征する。

9/10:武蔵鉢形城(現在の埼玉県大里郡鉢形)を攻める。

10/1:小田原城を攻める。

10/4:小田原城包囲網を解いて対陣する。

10/6:甲斐国へ帰陣しようとする武田軍を甲州街道守備の北条氏照軍と秩父方面守護の北条氏邦の総勢2万の軍勢が相模原~愛甲郡の三増峠(みませとうげ)で迎撃。ここに武田軍と北条兄弟の軍が激突。

(北条氏政・氏照・氏邦は同父兄弟)※三増峠の戦い

 

10/8:北条軍に大勝し帰陣する。

10/12:甲信に軍役定書を出し、徴兵する。

11/9:諏訪大社上社に駿河伊豆両国併合の祈願文を捧げる。

12/6:駿河に再出兵。蒲原城(かんばらじょう)を攻略。

12/13:駿河を再占領する。

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〈元亀元年:1570年〉信玄50歳~駿河攻略続行と正室の死

1/26:駿河志太郡(現在の静岡県焼津市高崎)の花沢城を攻める。

1/27:城主の大原資良(おおはらすけよし※小原鎮実おはらしずざねと同一人物とされる)率いる城兵は奮戦したが、降参し開城とともに遠江へ退去。

 

信玄はその後1ヶ月間駿河に滞在しながら、その間江尻城・清水湊を開き、水軍編成を進めながら徳一色城を攻略。

2月下旬に甲府へ帰陣する。

4/10:将軍足利義昭の側近である“一色藤長“に、「将軍家に駿河で一万疋の御料所を進上する」と伝えると同時に、四男四郎勝頼への任官と偏諱を請う。

4/23:大宮の富士浅間社に北条氏康・氏政父子の滅亡を祈願した願文を捧げる。

5/14:駿河吉原・沼津で北条勢と戦う。

7/28:正室である、三条夫人死去する。享年50歳。

 

この三条夫人は京都の転法輪三条家として清華家七家の一つで摂関家に次ぐ名門の家柄の出であったが、とても美しく温かく穏やかな性格で信玄とも仲睦まじかったと伝えられている。

信玄死後、自身の遺体も甲府円光院に3年間密葬させよと遺言したと言われている。

 

8/12:伊豆韮山城を攻略する。

9月:武蔵国へ出陣し、北条方の諸城を攻略する

10/8:徳川家康が信玄と絶縁して、越後上杉輝虎と同盟を結ぶ。

10/12:武蔵国在陣中、下野国の佐野氏に出陣要請する。

12/15:石山本願寺の顕如と親交を深める。

12月某日:駿東郡へ出陣し、興国寺城・深沢城を攻略する。

 

〈元亀2年:1571年〉信玄51歳~高天神城攻略と三河への侵攻から北条氏との同盟復活

1/3:深沢城へ矢文を発して、城兵へ降伏勧告するも降伏しないため、甲斐国黒川金山衆を動員して、城の破壊工作を行う。

1/16:深沢城、攻略する。

2月に遠江に出陣し、3月に遠江の高天神城を攻略する。

3/13:実弟の松尾信是死去。遺跡を河窪信俊に継がせる。

3/17:秋山信友に信濃国伊那郡大島城の普請を命じる。

4/19:武田軍別働隊、三河足助城(真弓山城)を攻める。

4/22:信玄、武蔵国へ出陣する。

4/29:三河の吉田城を攻略し、徳川家康を二連木で打ち破る。

5月上旬に甲府へ帰陣する。

11/8:武蔵国御嶽城を北条氏へ返還する。

11/20:旧今川水軍を中心に、伊勢から小浜景隆・向井伊兵衛を招致

する。※永禄11年以降より、北条水軍からは間宮武兵衛らも招致して水軍編成をしている。

12/27:甲斐国・相模国の「甲相同盟」が復活する。

 

〈元亀3年:1572年〉信玄52歳~三方ヶ原の戦いでの徳川織田連合軍撃破

1月:西上野に出陣する。上杉輝虎(のちの謙信)と利根川に対陣する。

同月、本願寺顕如が織田信長に攻められ、信玄に救援を要請してくる。

 

閏1/3:上杉輝虎に武田方の上野石倉城を攻略される。

3/17:甲斐国内の鍛治職人に奉公を求め、諸役免除する。

3/26:甲府荒川の氾濫で上条堰が決壊したため、水下郷に再興を命じる。

同月、比叡山延暦寺衆徒より、延暦寺再興要請が来る。

 

4/11:信濃国岩村田の龍雲寺にて千人法灯会を催す。

7/26:比叡山延暦寺より、僧正位を任ぜられる。

8/7:木曽衆を飛騨へ出兵させる。

8/10:信濃国伊那郡高遠城の保科氏に対して、軍役条目を定めて留守中の仕置を命じる。

8/11:信濃国葛山衆に対して、「北条氏と協力して、関東での軍役に励むこと」と命じる。

 

9月:病のため、出陣を延期する。

9/26:山県昌景率いる別働隊が、先陣として甲府を出発する。

10/3:武田本隊、甲府を出発する。諏訪から伊那を経て遠江へ。

滋賀湖北の浅井長政・越前一乗谷の朝倉義景らに、織田信長に対抗することを強く要請する。

 

10/10:遠江へ侵攻。下旬に遠江の二俣城を攻略する。

11/14:秋山信友率いる別働隊が、美濃国岩村城を攻略。

11/20:織田信長、上杉輝虎の要請を入れて信濃侵攻を約束する。

12/19:遠江二俣城を陥とす。

12/22:遠江の三方ヶ原で、徳川家康軍を撃破大勝する。

※現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺で行われた。

この戦いには織田信長も援軍を出しており、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いとなる。しかし圧倒的な兵力の差や陣形の失敗により、連合軍は大敗することとなる。

(武田軍27,000~43,000に対し連合軍は11,000~28,000と、武田軍の敷いた魚鱗の陣vs連合軍の鶴翼の陣と言うのが敗戦理由と言われている)

またこの敗戦は、家康に人生初の大きな恐怖とトラウマを与えたとともに、信玄及び武田軍武将たちへの尊敬の念を抱かせる契機ともなり、その証拠に武田家滅亡後に家康は武田残党を召し抱えたとも言われている。

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〈元亀4年:1573年〉信玄53歳~遂に来た軍神の死

1月:三河へ侵攻する。

2/15:三河野田城攻略中に兼ねてからの、病が更に悪化する。

2月下旬:三河長篠城へ入城して、病状回復を待つ。

4/12:更なる病状悪化により、軍議で撤退が決まる。

三州街道を甲府へ帰還中の道中、伊那郡駒場で死去。

死没地にはその他、浪合村や根羽村の説もある。享年53歳。

9/8:徳川家康、長篠城を奪還する。

 

〈天正4年:1576年〉信玄死去後3年~勝頼による信玄の本葬

4/16:武田勝頼、恵林寺にて信玄の本葬を営む。

戒名「恵林寺殿機山玄公大居士」

 

辞世の句

大低 還 他 肌骨 好  不塗 紅粉 自 風流

(たいてい はたのきこつ よきにかえる こうふんをぬらずして おのずからふうりゅう)

 

〈信玄の死因など〉

  • 信玄は10年以上に渡って精進料理を薬として食べていた。
  • 4/12の午後10時頃に「はくさ」と言う歯の病気が出て、その影響で歯が5〜6本抜けてしまい、その後次第に弱っていったと言う。
  • 信玄は自分が病気である事を知っていたので、数人の侍医を抱えていた事が知られている。
  • 板坂法印・南禅寺東禅院の卜斎宗高(ぼくさいそうこう)・山本大琳等。
  • 永禄11年(1566年)11月に、少し患っていた信玄の脈を計った板垣法印は「この病気はやがて良くなるだろうが、一両年の内に“膈(かく)と言う病気になるだろうから、京都から薬師を呼んで養生しなさい」と言ったと伝わる。

※膈とは、胸の病気または癌であろうと言う説が強い。

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信玄は亡くなる直前に、息子勝頼に対して、

  • 自身の死は3年間秘匿とする事
  • 遺骸は諏訪湖に沈める事(これは実行されなかった)
  • 「謙信はこちらが頼むと言えば、嫌とは言わない男よ。頼むに足る男である。信玄は大人気なく謙信に頼る事をしなかった為遂に和議を結べなかったが、勝頼は必ず謙信に敬意を表して頼りにするのが良い。謙信に頼って甲斐国を保っていくように」と言っている。

 

一方の謙信は信玄の死を食事中に伝え聞いて、

「吾れ、好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」

と箸を落として号泣。

信玄亡き今こそ、武田攻めの好機であるのではと攻撃を薦める家臣に対して「勝頼風情にそのような事をしても大人気ない」と退けたと言われているが、これは後世の創作の可能性が高いとも言われる。

 

 

年表から見る武田信玄の歴史まとめ

・川中島の戦いは第1回~第5回まで行われたが、特に有名となったものは、1561年の第4回目であるという事。・信玄という名前は、39歳の時に出家した名前だった。

・信玄が戦で負けたのは、北信の雄 信濃葛尾城主の村上義清に2回と、薩埵峠での北条軍との戦いのみと言う驚異的な強さ!

・年間を通して常に出兵侵攻を繰り返し、それは特に信濃国にこだわっていた。

・でも夫婦仲はとても良く、北条氏政正室として嫁いだ長女の安産のために何度か祈願にも行く子煩悩な父親でもあった。

・父を追放したのは、決して不義理なんかじゃなくて実は父信虎は暴君であったので、だからこそ信玄は家臣にも支えられて、武田家を大きく育てる事が出来た。

 

戦に強く常に領土拡大の為に努力しながら、内政に関しても国や民衆が潤うように持てる力を尽くし切った感のある武田信玄と言う武将。

今まで思ってたイメージが払拭されて私はとっても好きになってしまいました!

信玄と謙信は戦いを繰り返しながらお互いを認め合っていたようにも思えるのは私だけかなぁ?今日は大好きな信玄餅食べてみたくなりました。

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