「甲斐の虎」と呼ばれた戦国武将・武田信玄。
歴史に詳しくない私でも、名前を知っている有名な人物です。現在でも甲斐地方、長野や山梨の人に愛される徳の高い戦国武将。
世に名高い武田信玄といえば、有名なのが、その旗指し物。「風林火山」の四文字がバーンと書かれた旗が思い浮かびます。
ところが、この「風・林・火・山」の四文字が書かれたとばかり思っていた旗。でもでも、画像を見てみると、紺地の布に金の文字で書かれているのは四文字じゃない!
もっと長い!かなりのショックを受けました!これはどういうことか。調べねばなりますまい。
いざ、「風林火山」の旗の謎に迫ります!
武田信玄の旗ってカッコイイ!
さっそく「風林火山」の旗がどんなものか、画像を見てみましょう。
なんとも文学的……、といいますか、難しい漢字が並んでいますね。
でもそこがカッコイイ! でもそこが読みづらい!
頭を捻っても読めないものは読めないんです!
そんな時には慌てず騒がず。一文ずつ、ひもといてみましょう。
風林火山のわかりにくい全文と、案外わかりやすい意味を解説!
「風林火山」の旗の全文はこのような文字です。
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」
これ、漢文ですよね。学生時代に勉強しました。
でも完全に忘れています……。
というわけで、学生時代を思い出しながら少しずつ読んでいきましょう。
「疾如風」=「疾(はや)きこと 風の 如(ごと)し」
「徐如林」=「徐(しず)かなること 林の 如し」
「侵掠如火」=「侵掠(しんりゃく)すること 火の 如し」
「不動如山」=「動かざること 山の 如し」
これは戦における戦い方を指南した言葉だそうです。
「兵を動かす時には、風のように素早く。
軍を進める時には、林のようにしずかに。
攻め込む時には、火のように勢い強く。
陣を布いたら、山のようにして動かぬように。」
この言葉を旗印にあげた武田信玄は、よほど「風林火山」の教えを大切にしていたんでしょうね。
でも、あれ、待って。教えって、誰からの教え?
それも調べてみました。
風林火山は『孫氏』の引用?っていうか『孫氏』ってなんなの!?
武田信玄は軍略にすぐれた武将でした。
徳川家康が「私も信玄のように兵を動かしてみたいものだ」と漏らしたという逸話もあります。
戦上手で戦国時代を終わらせた、かの徳川家康でさえ羨む知略の持ち主・武田信玄。
信玄の強さの秘密は「智」、すなわち兵法の勉強とインスピレーションによるものが大きかったようです。
武田信玄の旗を「風林火山」というように呼ぶのは最近になってからのことで、古くは「孫子の旗」もしくは「孫子四如(しじょ)の旗」と言っていたそうです。
信玄が『孫氏』を重要視していたことがうかがえます。
それでは、『孫氏』ってなに?というところを見てみます。
よく聞く『孫氏』の兵法
武家に古くから伝わる兵法と言えば「孫氏の兵法」。
『孫氏』とは、紀元前500年ごろ、中国春秋時代に書かれた兵法書です。
書いたのは孫武という人。
この孫武が兵法書を書く前、中国では戦の勝敗は運で決まるのだと思われていたそうです。
しかし、孫武が戦の記録を研究して、戦は運ではなく、人をどう使うか、どういう動きを指揮するかで決まるのだと突き止めました。
今では当たり前、誰でも知っている知識ですが、それを世界で初めて発見したというのは実はすごいことなのかもしれません。
『孫氏』からの引用というけれど、何から何を引いたのか?
この孫武が書いた『孫氏』。
作戦をどう立てるか、行軍はどうするか、地形によって戦術を変えるのが良い、など色々なパターンによって章分けされています。
「風林火山」は「軍争篇」の一節であるということです。
「軍争篇」とは?
「軍争」というのは機先を制するための戦い方を説いた章です。
戦は主君からの命令が出て、軍を招集して軍備をととのえて、戦地へ向かって進軍し、両軍が対峙する。
そこまでの間に主導権が決まってしまいます。
戦は早い者勝ちです。相手より早く軍をととのえれば、相手がもたついている間に攻め込むことが出来ます。
相手より先に進軍すれば、より有利な土地に陣を張って待ち構えることも出来ます。
そういった心構えから、実際にどうすれば、そのように行動できるのかまで詳しく書いてあるそうです。
武田信玄の旗の言葉には続きがある?それ本当?
『孫氏』の兵法のなかに書かれた「風林火山」の部分、実はもっと長いのです。
「風林火山」は抜粋だったのですね。
『孫氏』の一文を略さずに書くとこうなります。
「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆」
(故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し)
「陰の如く」と「雷霆の如し」という二つがなぜか省略されていたのですね。
「知りがたきこと陰の如く」とは、相手に内情を知られないように陰のようであること。
「動くこと雷霆の如し」とは、雷のように想定外の動きで相手方を翻弄すること。
「風、林、火、山、陰、雷。」
陰と雷、これらを揃えて一文となっています。
武田信玄はなんで兵法を省略したんだろう?
せっかく『孫氏』の兵法を引用したのなら、全文使えばいいのではないでしょうか?
その方が賢そうだし、カッコイイ文字面になるような気がします。
けれど武田信玄はそうしなかった。何故でしょう?
デザイン・カッコイイ問題なのか?
一番に考えられる理由は、省スペース。
「風林火山」の四つで旗にピタリと収まる姿はスッキリしていて収納上手な感じがしませんか?
でもそれだけというのは、考えにくいですよね。
なんなら旗を二本にわけたって良かったのですから。
知略が爆発していた!?
では、どういうわけかと考えると、武田信玄は戦において「陰」と「雷」という戦略を、敵に知られないようにしようと考えていたのではないでしょうか。
「相手に内情を知られないように陰のようである」。
「雷のように想定外の動きで相手方を翻弄する」。
どちらも、相手に知られてはいけないということを教えているのです。
その言葉をわざわざ旗にして相手に見せつける。
それって、なんだか矛盾していますよね。
旗で戦場をかき混ぜた!?
戦国時代当時、武将の間で知られていた兵法書と言えば、『六韜』『三略』という二つだけだったそうです。
武田信玄は従来の兵法書では飽き足らず、日本では認知度の低かった『孫氏』についても学んだ珍しい人だったわけです。
ということは、他の戦国武将は『孫氏』を知らない。
『孫氏』に書かれていることも知らない。
『孫氏』の兵法を用いれば、今までの戦い方とは違う、相手を驚かせるような戦が出来る。
だから信玄は、相手に知られるべきでない、「陰」と「雷」について隠していた。
そう考えることが出来ます。
武田信玄の旗「風林火山」の意味と引用元『孫氏』についてのまとめ
・「風林火山」には隠された「陰」と「雷」があった
・「風林火山」は『孫氏』からの引用
・『孫氏』は中国の兵法書
いろいろと見てみると、「風林火山」の旗から武田信玄の人となりが見えてくるような気がしました。
旗一本と言えども、武将の考え方や大切にしているものが透けて見える。
逆に言えば、それだけ旗というのは大切にされたものなのかもしれません。
画期的な兵法書『孫氏』を読み解き、そこに書かれた戦法を参考に戦に臨み、勝利を重ねた勉強家の武田信玄。
「風林火山」の旗は武田信玄の生きざまそのものとも思えてきました。
現代に武田信玄がいたとしたならば、どんな言葉を旗に記すのでしょうか。
そんなことを考えてみるのも楽しいかもしれませんね。