戦国時代

武田信玄と織田信長……2人の猛者の関係はどうだったのか?

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(左:武田信玄像   右:織田信長像)

戦国武将でもとても有名な、武田信玄と織田信長

知名度ではお互い五分五分ですね。ゲーム「戦国バサラ」の信長は、“第六天魔王”の名前の通り、mad &crazyな部分が強調されていて私なんかは叫びまくってました(笑)

信玄はと言うと、この写真の通り重厚な武将のイメージが非常に強いです。2人とも時代の寵児とも言うべき人だったのでしょうね。

今回のテーマは、このbig nameな2人の関係を探っていきます。

接点は有ったのか?友好関係に有ったのか?2人の目指していたものは何なのか?などを中心に書いていこうと思います。

武田信玄と織田信長。この2人の間に横たわるものは何だったのでしょうか!それでは兜の緒を締め、いざ出陣でございます。

 

目次

  1. 武田信玄の履歴書
  2. 織田信長の履歴書
  3. 信玄と信長の接点
  4. 直接対決は無かった⁈
  5. “天下”に対しての2人の考え
  6. 総論
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1武田信玄の履歴書

大永元年(1521年)11/3、甲斐国要害山城(現在の山梨県甲府市上積翠寺町)にて、父武田信虎・信虎正室の大井の方の嫡男として誕生。12星座は蠍座。血液型はA型(血判と碑文書、遺骨から判明)。この事から、かなり執着心の強い厳しい性格なのではないでしょうか。粘り強く不言実行ですね。

元亀3年(1572年)、本願寺顕如や比叡山延暦寺宗徒の要請により、西上して織田信長を討つ事を決意。10月に甲府を出陣し、西に向かい始めます。

しかし、翌年元亀4年(1573年)長らく患っていた病気が急激に悪化し始め、4月に西上途中の三河国長篠城(現在の愛知県東部新城市にある長篠城)にて撤退を決め、甲府へ帰還中の信濃国伊那郡駒場にて4/12日死去。享年53歳。

履歴書ですから、戦いも書くべきかと悩みました。

何しろ、この信玄と言う人は、年がら年中出陣~帰還~出陣~帰還を常に繰り返しているような人だったのです。

手元にある生涯年表を見ても父信虎を駿河に放逐したのが、天文10年(1541年)6月。その後すぐに家督を継いだのが同月末。

その後10年位は出陣も毎年5月頃から10月までの間に収まっていましたが、天正20年(1552年)を過ぎた辺りからは2月から出ずっぱりです。その中で子供が生まれたり川中島合戦があったり。

永禄12年(1569年)からは1月から忙しく動き回り、北条軍と戦い敗北を喫したり(薩埵峠の戦い)、その戦いのせいで北条氏を怒らせて、正室に送っていた長女が離縁され戻ってきたものの死去したり、翌年7月に正室の三条夫人が死去しても翌月からまた伊豆韮山城攻略に出陣と、まるで休む事を恐れるかのように動いていました。

でも強いです。とにかく強い。敗北は先にも書いた、北条軍と戦った薩埵峠の戦いと信濃国の雄と言われた村上義清の依る、砥石城攻めくらいなものです。砥石崩れと言われている位ですし、武田軍も戦死者を多く出しているのでよほど村上義清と言う人は強かったのでしょう。

川中島の戦いに関してはどうなんだと言う声も聞こえそうですが、この上杉謙信との約5回にわたる合戦も第4次川中島合戦のみ、双方多数戦死者を出したものの雌雄は決着しておらず

総合的に見て「甲乙つけがたい」と言う、何だかスッキリしない終わり方です。

 

 

2織田信長の履歴書

天文3年(1534年)5月12日、尾張国勝幡城(現在の愛知県愛西市勝幡町)にて、父織田信秀・信秀継室(後妻の事)の土田御前の嫡男として誕生。

12星座は牡牛座で血液型はA型(血判や遺髪から判明)。危ない橋は渡らず、何事も情報やデータを冷静に判断しbestな方法を追求するので、追求心に関しては12星座中No.1だと言えます。確かに信長には大きな失敗は見受けられませんね。

冷静な判断の1つに駿河の今川義元を攻めた桶狭間の戦いの際の行動があります。この戦いは圧倒的に数では劣勢だった織田軍が、倍以上の兵を持つ今川軍に急襲をかけて勝利を収めています。

その日は「信長公記」には“石水混じり”とあるので恐らく雹など降っていた可能性大です。そんな中いきなり攻撃されたら堪らないでしょう。呆気なく今川義元は首を取られてしまうわけですが‥

信長は、生涯33の戦いを繰り広げています。

割愛しますが、有名なものにこの桶狭間の戦い・稲葉山城(現在の岐阜城)の戦い・金ヶ崎城の戦い・姉川の戦い・比叡山宗徒との戦い・一乗谷の戦い・小谷城の戦い・長篠城の戦い・手取川の戦い・本能寺の変などが有ろうかと思います。

信長は決して強いわけではなく、むしろよく負けてました(笑)でも兵力も多く、決断力も素早いので余り大きな痛手にはならなかったようです。

但し、朝倉義景と浅井長政に挟み撃ちされた、金ヶ崎の戦いや、何度も攻めて身内まで討死を出してやっとこさ3度目の正直で征伐できた伊勢長島攻め、上杉謙信の大勝となった手取川の戦い等はハッキリ言って信長大敗。

この手取川の戦いについて、後に謙信は「噂に聞く織田信長も案外弱いものだな」と言うような事を話したと言われてます。だから、強さで言ったら、謙信・信玄には敵わなかったんじゃないでしょうか。

でも本能寺の変で呆気なく全てが消えってしまった事には、やはり残念な気持ちは残りますね。

 

 

3信玄と信長の接点

信玄と信長は、信玄の方が13歳年上です。信玄から見たら、尾張の田舎サムライめっ!なんて感じていたかも知れません。

その根拠は、家柄にあります。

信玄は、甲斐源氏嫡流です。打って変わって信長は尾張国守護大名の斯波氏家臣です。しかも年下の男の子~です(笑)

信長の破竹の勢いは当然、駿河今川義元が討たれた時から知っていたはずです。

この大大名武田信玄と、尾張の新興勢力織田信長は永禄8年(1565年)11月に互いの息子娘を婚約させる事で初めて繋がりを持つ事になります。信玄45歳・信長32歳の時ですね。

信玄は、自身の四男~のちの武田勝頼~の正室として信長養女を貰っています。この養女と言うのは、信長の妹にあたる女性を母とし、父は東濃の遠山直廉。つまり信長の姪っ子です。

ここで政略結婚ではありますが、織田家の領国美濃国と接している、甲斐国の信玄と友好関係が築かれることになります。

その2年後永禄10年(1567年)11月には、信玄は五女の松姫と、信長嫡男・信忠との婚約を交わしていますから、お互い友好関係に積極的だった事が分かります。

松姫は1565年生まれ、信忠は1555年~1557年に生まれてるので、4~5歳違い。婚約当時は松姫7歳、信忠11歳なので婚約と言うより、お友達感覚だったんじゃないかなぁ。

戦国時代は、こう言った政略結婚という形で同盟を結ぶ事が極々普通な事でした。だから女の子が産まれたらその子は確実に政略用です。そんな時代に生まれなくて良かった‥

でも、この婚約関係は元亀3年(1572年)12月、信玄が三河・遠江方面へ侵攻してきて、信長と同盟関係にある徳川家康との間に、「三方ヶ原の戦い」が起きた事によって、解消されます。

ちなみにここでも信玄は大勝。

代わって家康は、この戦いが人生初の大敗となったのでトラウマになったと言うのは、有名なお話し。

話を松姫&信忠に戻すと、松姫は婚約してからは実家の武田家内では「信忠の正室を預かる」という意味で、“新館御料人”と呼ばれていた模様。まだ輿入れしてないですし、大事な政略結婚の切り札ですから丁重に扱われてたでしょうね。

でも父親の暴れん坊将軍ぶりで解消されてしまったのです。

何とも言えない気持ちだったと思いますよ。

余談ですが、彼女~松姫は武田家滅亡後も生き延びます。

信玄死後は、兄の仁科盛信のいる信濃高遠城に引越しそこで暮らしているうちに、信玄死後家督を継いだ武田勝頼が武田家滅亡を招いたわけですが、その時は高遠城から逃げ出しています。

そしてなんと現在の東京都八王子市迄、従者数人と盛信の娘3人を連れて亡命劇を繰り広げてます。

そんな中、八王子にいた松姫に信忠からお迎えの使者が来たんですよ!めっちゃ信忠カッコいい!松姫の事忘れてなかったんだもんね。松姫はその使者と一緒に京都へ向かっている途中に、あの本能寺の変が‥

信忠と松姫は会う事が出来なくなってしまった!(叫)うーん、運命と言うのはやっぱりあるのでしょうね。

松姫と信忠は、お互い運命の人では無かったと一言で言えば簡単ですが、時代に翻弄されるって心が痛みますね。

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4.直接対決は無かった⁈

上記“接点”の部でも書いたように、お互いタイマンで(死語‥)

戦う事は、信玄の時代には無かったです。

戦ったとしても、信長が同盟関係の徳川家康を助ける為に出兵した、三方ヶ原の戦いだけになるといっても良いでしょう。

これは“お互いを意識するあまり、直接対決を避けていた“とも取れると思います。

それは信玄と信長の、武将としての政略に有ったと見るのが最も的を得ています。

先にも述べた通り信玄と信長は、戦い方も領国経営も全く違ったvisionを持っていました。

粘り型の信玄は、如何に国力を増強して領土を拡大していくか⁈がモットーでしたし、

対して、知的好奇心旺盛な信長は、如何にこの戦国の世の中を根本から変えていくか⁈にいつも知恵を振り絞っていました。

確かに、尾張国美濃国(愛知県・岐阜県)を領国に持つ信長にとっては、背後とも言うべく、甲斐国信濃国駿河国(山梨県・長野県・静岡県中部及び大井川以東)に控えている武田信玄と言う武将は油断できない相手でした。

でもそこが信長の賢い所で、自分と信玄との間である遠江国(遠江→浜松、磐田、掛川等大井川以西)にいる徳川家康とは、昔から同盟を結んでいた為、後顧の憂いを断つ事ができてたわけです。

だからこそ直接対決をわざわざ仕掛けなくとも、相手が自滅するか、他の強い武将~特に上杉謙信や北条氏政等~に滅ぼされるのを待っていても問題ないと計算したはずです。

それより、信長にはやらなくてはならない事が有ったから‥とも言い換えられるかも知れないですね。

その辺りは次章のお楽しみ。とにかく信玄存命中の信長とのサシでの戦いは無かったと考えて良いでしょう。

但し、信玄死後家督を継いだ武田勝頼とはガッツリ真っ向対決して、武田家はこれで滅亡していますので、信長は“戦って良い相手とそうでない相手”を、選別していたようです。

たまに選別間違いも起こして負け戦さもしてますけどね(笑)

 

5.“天下”に対しての2人の考え

これは全く違います。ホント違います。と言うよりも信長が数多い戦国武将の中でも異彩を放っていたからだと言う事に尽きます。

戦国武将は、みんな天下を取る=日本の武将で一番になりたくて、将軍になりたくて、あんな天下一武闘会みたいなことやってた訳では有りません!

信玄の考え方=国力増強&領土増大の為にやっていたのがほぼ全員で、それがむしろ当時の武将のnormalな考え方でした。

ただ1人だけを除いては。

それがこの章冒頭で述べた事になります。

信長だって戦い多いし、どこがどう違うのか⁈これを説明するにはまず当時の武士の成り立ちから書かなければならないのですが、私が松姫に肩入れしてロマンス路線へ走り過ぎたので(笑)、テレビで言うところの“尺が足りない”状態ですが、頑張ります(笑)

簡単に言うと、将軍や天皇になれる人と言うのはキチンと資格が無ければならず、みんな武将はそれを当たり前の様に知っていました。私たちの住むこの現代では、将来の夢は総理大臣です!と人の前で公言する事も出来るし、頑張ればなれます。多分‥

でも鎌倉・室町・安土桃山時代は、将軍になれる人は「源氏の血筋を持ったもの」しかなれなかったんです。

この源氏と言う血筋は、元は平安時代の嵯峨天皇(第52代天皇)が始めた事で、皇族が大臣などのような臣下に降りる際に名乗る姓の

ひとつで、臣下に降りた皇族は天皇になる事は出来なくなります。何故そんな事をしたかと言うと、

  • 皇室の子息子女が増え過ぎると財政負担増
  • 母親の身分の低いものは、皇位に就く望みは薄い為
  • 臣籍降下させる事によって一般貴族にすれば、当時権勢を誇っていた、藤原一族に対抗する為主要な官職に抜擢しやすくなる

などの理由が有ったようです。で!この臣下に降ろして姓を与える事を「臣籍降下」と言い、その姓が「源」だったのです!

この臣籍降下の源姓は種類も多く、天皇によって〜源氏と呼ばれる様になり、種類は21流ありました。代表的なものが、嵯峨天皇の嵯峨源氏・清和天皇の清和源氏・文徳天皇の文徳源氏・村上や花山、宇多、正親町などなど。1番中でも有名で数多かったのが、清和天皇時の清和源氏でこれが後の鎌倉将軍家を輩出した事から、「源氏は武家の棟梁」と言われるようになりました。武田信玄の武田家は、清和源氏の流れを汲む氏族で清和源氏の氏族が地方に土着したもの。立派な血筋です。清和源氏の氏族で他に最も有名なのは、あの足利将軍家の足利家・駿河今川家・岐阜東濃地方の土岐家などあります。

話しは戻りますが、戦国時代の武将達はみなこの事は知っていました。将軍になれるのは武家の棟梁~源氏の一族~なのねって感じで。だから沢山戦っててもみんな天下に号令をかける将軍になる為なんかこれっぽっちも考えちゃいない。とにかく領土を増やしたかっただけ。至極簡単な理論で彼らは動いていました。信玄の家は清和源氏の流れを汲んでますから、将軍家に‥と言う気持ちもあったかも知れませんが、確認は出来ません。単に戦って国を潤して領土拡大だけだったかも。

でも信長は違った。源氏⁈血筋⁈将軍になる⁈はぁ~⁈なんですよね。結論を言えば、信長は戦の無い世の中の実現をモットーにひたすら邁進していました。そしてキリスト教と出会った事で、自分の生きているこの世界が小さく思えて、最終的に自分が神になればいいと言うところへたどり着いちまった訳です‥すごい飛躍って思うけど、これが彼のあの超人的な人生のカオスになるんです。

だから、信玄と信長‥いや、信長と信長以外の戦国武将との当時の「天下」と言う言葉の意味や、戦う意義は全く違います。

良く、信長は戦いばかりして惨殺もするし、挙げ句の果てに比叡山焼き討ちなんかして、第六天魔王そのものの悪人と捉えている人も多いかと思いますが、彼の意識は高次元な所へ向けられていたので、そう言った戦いや惨殺と言われている事・比叡山焼き討ちなどにもキチンと理路整然とした、理由があり彼なりの正義が存在します。この辺り、語り出すと止まらなくなる故に割愛します。またいつかこのお話しが出来る時にお伝えしたいなぁと思ってます。

 

 

総論

さて、超が付く有名戦国武将の武田信玄と織田信長の2人の猛者の関係は如何に⁈と銘打った今回の瓦版(笑)。

2人は、お互いbigだからこそ牽制しあっていたとも言えると思います。2人がタイマン張って(だから死語だってば)合戦を繰り広げたのならば一体どうなっていたのでしょう。

当時の信玄は甲斐騎馬軍団と呼ばれ、機動力では1、2を争う程でしたから信長は負けたかも知れません。

現に。信玄と常に互角に戦いあってきた、“越後の龍”と呼ばれた上杉謙信に信長は手取川で敗戦していますので、それを考えると信長が信玄と直接対決したら、敗戦色濃厚です。

まぁ、歴史に「たら・れば」は禁物なのですが、戦わなかったからこそ、ある意味均衡は保たれていたのかも知れません。

2人の間でひとつ違うものがあるとしたら、それは「足利将軍家への忠誠心の有無」ではないかと思います。

これに関しては、上杉謙信と武田信玄はある意味では同調している部分があります。謙信の願いは足利将軍家尊重と再興です。

将軍のために身を投げ出しても構わないくらいの気概を持っていた事は知られています。対して、武田信玄はそこまでとは言わないけれど、やはり足利将軍家を尊重していました。

そして織田信長。全ては己の夢の実現の為。それは戦の無い平安浄土な世の中の達成でした。有名な安土城の命名の由来はこの、平安浄土の意味を持って名付けられました。

武田信玄と織田信長。信玄が先に亡くなってしまったので対決は実現されませんでしたが、あのまま信玄が上洛の歩を進めていたら、いつか必ず戦わなければならなかったと思います。

そんな運命の2人だったのですから。

今時の言葉で言えば、信玄はアナログ・信長はデジタル。

2人の関係を改めて見返すと、そんな言葉が出てきました。

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