戦国時代

武田信玄の死因は?子孫は今も生きている?

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武田信玄の名を知らない人は少ないかと思います。

そう、あの戦国武将の中でも「川中島の戦い」で上杉謙信と四回にも渡り合戦を繰り広げ、今もそのお膝元である甲斐の国~山梨県の誇りとなっている戦国時代きっての名将です。

軍旗に「風林火山」を掲げた武田信玄とはどういった人物だったのか・・・

その死の謎今もまだ信玄の子孫の方はいるのか?と言った事に焦点を合わせて見ていこうと思います。

地元山梨県では「信玄公」と呼ばれるほどの魅力はなんだったのか。戦国時代大好きな私も興味津々です!一緒に信玄に詳しくなっちゃいましょう!

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信玄の死因は?

これに関しては様々な意見があるようですが、結核もしくは胃がんだったのだろうと言われています。

信玄の侍医の書状に“肺肝に苦しむより、病患怱ち腹心に萌して安ぜること切なり“と書いてあり、良く陣中でも吐血していたことを窺わせます。

また、武田三代記には、“膈”の病ありと書いてあり、これは「かく」と読み胃がんの意味があります。

逆説の日本史シリーズの著者 井沢元彦氏もこの膈=胃がん説を採用しています。

武田信玄・勝頼親子二代の事績を記した、軍事物語として有名な「甲陽軍鑑」でも信玄の死因は胃がんと書いてあります。

おそらく信玄は、徳川家康との三方ヶ原の戦いの時も既に手遅れな状態だったと思われます。

そして織田信長討伐のために京へ向かう筈だった進軍は、三河の野田城陥落をやめて軍議で甲斐に撤退する事を決め、三州街道(伊那街道ともいう※)通過中、亡くなったと言われています。

亡くなった場所特定には諸説有るようですが、野田城から三州街道で亡くなったという説には3箇所あって

  • 根羽(ねば)
  • 平谷
  • 浪合(なみあい)

が挙げられています。中でも有力候補は1の根羽でしょうか。

甲陽軍鑑には、「元亀4年(1573年)4月12日に、”ねばねの上村と申すところにて御他界”」とあり、現地にある案内板などには、五輪塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)を信玄死後100年の法要を甲府の塩山にある、乾徳山恵林寺にて執り行ったあと、信玄縁者がこの場所に建てたと有ります。

 

信玄の死とその後

信玄は志し半ばにしてこの世を去ります。1573年(元亀4年)5月13日のことになります。

どうやら彼は死の5年以上も前から己の病気が重篤なものであることは悟っていたらしいので、きちんと生前に書き遺し、息子であり、次の武田家を継ぐ武田勝頼やその周りの者たちが戦国で路頭に迷わぬよう配慮していたようです。

中でも有名なものに以下のようなものが有ります。

  • 自身の死は、以後3年間秘匿として甲斐国の安全を保つように。
  • 遺骸は3年後に甲冑を着せて諏訪湖に沈めるように。
  • 自身の判を書いた白紙を800枚用意してあるので各地から書状が来たらこの紙を使うように。
  • 自身の後継者は、息子勝頼の子の信勝が16歳になったら家督を譲るように。それまでは勝頼には陣代を申し付ける(陣代:主君に代わって戦陣に赴く者)
  • 勝頼には武田代々の旗は持たせぬように。

などなどまだ沢山有りました。

 

しかし、確かに信玄の死は秘密とされていたようですが諏訪湖に遺骸を沈める事はしなかったと甲陽軍鑑には記されています。

あまり知られていない事ですが、信玄は終生上杉謙信を認めていたようで、その謙信に関して嫡男勝頼に、

「謙信はこちらが”頼む”と言えば決して嫌とは言わない男である。

謙信は頼むに足る男であるから、今後は謙信に頼って甲斐国を保っていくように」

と遺言しています。

(甲陽軍鑑より)

 

事実、謙信の名言として

我は兵を以って戦ひを決せん。塩を以って敵を屈せしむる事をせじ」があります。

敵に塩を送るの元となった言葉です。

 

この言葉は、”戦場と言う場所でしか敵とは戦わない。塩を送ることに戦略的な意味はない”と言うもので、謙信は塩の補給を断たれた信玄の甲斐国に塩を送ります。

こう言った謙信の考え方や姿を見て、敵ながら男らしいやつよと信玄は認めていたので勝頼にこの遺言をしたのでしょう。

→  上杉謙信の名言!意味も合わせてご紹介!

→  【実はビジネス!?】上杉謙信が塩を送った理由や真相とは?!なんと美談だけではなかった・・!?

 

 

信玄の子孫は現在いるのだろうか?

はい。山梨県の調査で分かっているのは、信玄の次男である信親の子孫が今もまだ続いています。

信玄の子供は

  • 義信→嫡男。謀反を企てた疑いで処刑される。
  • 信親→次男。幼少時より盲目だった為出家し、半俗半僧の身で信濃国小県郡の海野氏娘と結婚しそのまま生きる。
  • 信之→三男。11歳で夭逝(死亡)
  • 勝頼→四男。のちの武田家第20代当主。家臣の小山田信茂の裏切りによって嫡男信勝・正室北条夫人と共に自害。
  • 真理姫→三女とも四女とも。木曾義昌の正室、真竜院とも言う。98歳にて死去。
  • 仁科盛信→五男。信濃国安曇郡の仁科氏と婚姻関係を結んだ。織田軍に攻撃され奮闘むなしく自害。26歳。高遠城陥落させられる。
  • 葛山信貞→六男。駿河領主の葛山氏元の養子になる。兄の勝頼自害に伴い自身も甲府の甲斐善光寺にて自害。葛山家も滅亡。
  • 信清→七男。信玄により南アルプス市加賀美の法善寺に入って玄竜と名乗っていたが、兄勝頼の命で還俗し、安田氏を継承し安田三郎信清と名乗り海野城主へ。江戸幕府になり武田姓に戻る。83歳死去
  • 菊姫→五女。上杉景勝の正室。実子は居ない。病により上杉家伏見屋敷にて死去。47歳
  • 松姫→六女。出家後に信松尼(しんしょうに)と名乗る。織田信長嫡男の信忠と婚約を交わすも、状況が変わり婚約は解消され以後は1人。兄の仁科盛信と高遠城にいたが織田軍の猛攻の中脱出し、盛信の娘3人を引き連れ、現在の八王子市まで逃れそこで生涯暮らし56歳で死去。

 

家系図として見ると

武田信玄→②武田(海野)信親→③武田信道→④武田信正→⑤武田信興→⑥武田信安→⑦武田信明→⑧武田護信→⑨武田信典→⑩武田信之→⑪武田崇信→⑫武田信任→⑬武田要子→⑭武田信安→⑮武田昌信→⑯武田邦信→⑰武田英信

(敬称略)

決め手は、先にも紹介した武田家菩提寺の、乾徳山恵林寺での記録だったそうです。

武田氏滅亡後も、次男であった海野信親の子孫は代々信玄法要の施主として来た事が残って居たわけです。

第17代になる武田英信氏は、現在甲府の市役所にお勤めとの事で江戸以来漸く武田氏が故郷である、甲斐国山梨県に戻って来ることが出来たようです。英信氏のお父様の邦信氏もお元気で何よりですね。

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武田信玄の歴史

信玄生まれる

「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄は、1521年(大永元年)12月1日に山梨県甲府市上積翠寺町にある、標高770mの要害(ようがいさん)に築かれた、通称‘要害山城‘にて生まれました。

当時、武田家は甲府市中の躑躅ヶ崎館(つつじがさきかん)に住んでおり、要害山城はいざという時の詰め城の役割を果たしていました。

父は甲斐源氏武田家の第18代武田信虎、母は同じ甲斐国西部の領主の大井氏の娘ですがこの結婚はどうやらこの時代には良くある政略結婚だったようです。大井氏の娘という事で「大井の方」と呼ばれています。 

信玄には兄が1人いましたが7歳で亡くなってしまった為、1541年に次男の信玄が嫡男として武田家の家督を継ぐ事となります

尚、兄弟は同母、異母合わせて15人以上いたようですが、はっきりとした系譜が分かる者は7人です。中でも弟として、武田信繁は信玄と同じように優秀な武将だったようです。

 

信玄という名前の由来

これは実は本名では有りません。

本名は武田晴信と言いましたが、39歳の時に出家して正式に仏門に入ったので法名として信玄と言う名になりました。京都比叡山から、大僧正位を贈られ法衣をまとっていたと言われています。

戦国武将は戦ってばかりかと言うとそうでもなく、戦いが多いがこそ信仰に帰依する人も多かった様です。

信玄や毛利元就は臨済宗、上杉謙信は曹洞宗、加賀百万石の前田利家も曹洞宗、徳川家康は浄土宗など、各武将とも厚い信仰があった様ですね。

でも何故出家までしたのか。これは永禄の大飢饉で関東の、後北条氏が当主を氏康から嫡男の氏政に譲って天の怒りを鎮めようとした事件にちなんで、自分もそれに似た形でやろうと考えた結果が出家というかたちになったみたいです。

でも“武田晴信”よりも、“武田信玄”の方が断然かっこよく聞こえるのは私だけでしょうか?

 

自分の父親を追放?

信玄は1541年6月に父で有る武田信虎を、駿河の今川家へ追放しています。

そして以後1574年に信濃高遠城にて死没するまで、2度と甲斐に戻る事を許しませんでした。

親が子を勘当じゃ!と放り出すならいざ知らず、信玄は実の父を21歳の若さで追い出してしまうのです。

信玄が父で有る信虎を国外追放した理由は様々な推察考察が重ねられてきていますが、今のところでは信虎に問題ありきでまとまっているようです。その信虎の問題とは以下に挙げられます。

 

  • 信虎は頻繁に諸国と戦を行なっていたため、それに追従していく家臣たちの疲弊度はMAXになっていた。
  • 天災と言われる疫病や飢饉が重なり、家臣のみならず領民の気持ちが信虎から離れていってしまった。
  • 信玄より、信玄の弟で有る信繁を可愛がり、信玄を避けるようになっていた。
  • 信玄と性格や政策面での考えが合わなかった。

 

これが全てとは言えませんが、武田家の事績を記した軍事物語で有る『甲陽軍鑑』では、

信虎は粗暴で傲慢な人物で、それを諫めようとする家臣を度々手打ちにしていたり、重臣たちをその場の感情任せに殺したと記されています。

そんな父親は要らないと決めた信玄は、信虎追放後に正式に第19代目の武田家家督を継ぎます。

ちなみに信玄は、信虎が殺害した重臣たちの子孫をのちに復活させて登用しています。

 

領民を大事にして国を発達させた信玄

武田重臣で有名な、内藤昌豊や馬場信春、山県昌景らがそれにあたります。善悪の区別や人の上に立つ者としての資質が既に信玄には備わっていたのではないでしょうか。

 

信玄が今もなお、地元山梨県では英雄として慕われているのは理由があります。

信玄は戦も強かったですが、甲斐国の領民たちをとても大切にし、またさまざまな治世で甲斐国を充実させていきました

信玄はひと言で言うなら「軍事にも民政にも長けていた名君主」と言ったところでしょう。

 

甲斐は、その昔「峡」と書いていたそうで「両側に山が迫っていて山と山の間のところ」と言う意味になります。山崩れや大雨による河川の氾濫・大洪水などに昔から苦しめられてきたのも歴史のひとつです。

信玄の取った政策には以下のようなものがあります。

 

  • 釜無川に、堤防を造り新田開発に尽力し、人々が安全に暮らせるようにした(有名な信玄堤です)
  • 年貢を安くして、人々の負担を軽くした。
  • 信玄堤のみならず、優れた治水事業を行い領国内の生産性や利便性を一気に高めた。
  • 大量の金鉱を発見し“山師”と呼ばれる鉱山技術者を手厚く保護し優遇するなど金山開発に積極的だった。

これをみても分かる通り、甲斐と言う国のその山に囲まれた複雑な地形を生かしてより多くの田畑を作り、より多くの田畑や民家を守る事こそが信玄の最大のライフワークだったと言っても良いでしょう。

治山技術は戦国では1番でいわゆる“甲州金”を産み出して、甲斐国にゴールドラッシュを産んだほどです。

(信玄堤と釜無川)

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宿敵!上杉謙信との戦い

川中島の戦いと言えばもう本当に有名ですね。私も川中島の戦いが行われた“八幡山古戦場跡”を訪れた事が有ります。ここは古戦場跡では有りますが、実際にはもう少し西の妻女山を中心として行われました。

ここは第四次決戦となり、信玄が謙信の奇襲に遭いそれを交わしたと言われる(三太刀七太刀の跡の伝説)が残っています。

この戦いは信玄・謙信双方とも多くの死傷者を出し、特に信玄側は弟の信繁と軍師 山本勘助を失っています。

信玄と謙信が戦うようになった事の発端は、度々甲斐の隣国である信濃国(長野県)に侵入し、その領土を奪っていた信玄に対し、北信濃の大名である村上義清が奪われた領地を取り返してくれと、そのまた隣国の越後国(新潟県)の上杉謙信に依頼した事に有ります。

要するに信玄という暴れん坊に陣地を取られた村上義清が、謙信に助けを求めそれに対して正義感の強い謙信が立ち上がり、取り返せるまで戦ってきたという感じです。

信玄と謙信は常に信濃で戦いを繰り広げています。川中島の戦いが特に激戦となった為有名になりました。

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まとめ

戦国きっての名将の1人である、武田信玄と言う人物やその彼の死因、また子孫はどうなっていいるのか?と言うことに焦点を当てて見てきました。

  • 武田信玄は1521年に要害山城にて生まれ、甲斐源氏嫡流の甲斐国守護大名である。
  • 信玄と言うのは出家後の名前で有り、本名は武田晴信である。
  • 考えの合わない父、武田信虎を追放し善政を敷き、甲府市の基礎を築いた名君主である。
  • 信玄の善政には、釜無川の信玄堤や甲府金山開発、優れた治水事業など領民を大事にしていた物が多い。
  • 宿敵上杉謙信と数回も戦いながらも彼を人間として高く評価する等、男らしい一面を持っていた。
  • 死因は、恐らく結核か胃がんで有り戦闘中も何度も吐血しながら甲斐国へ帰郷する道中で命を落とした。
  • 信玄の次男である、海野信親の子孫は脈々と受け継がれ現代に生き続けている

 

「風林火山」は信玄の軍旗としてあまりにも有名ですが、これは中国の兵法書「孫子」の第1節にある言葉で

疾きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」と言う言葉が黒字布に白抜きの文字で書かれていました。

 

戦国武将武田信玄は、山梨の英雄としてこれからも人々の心の中に生き続けるでしょう。

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